医療支援を経験して〜被災地からの報告

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執筆者 嶋村理恵子:投稿者 Koko Howell
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Japanese Title
医療支援を経験して〜被災地からの報告
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気仙沼市在住 嶋村理恵子さんが執筆されたエッセイ 「医療支援を経験して~被災地からの報告」 ココヤク『震災支援を行う薬剤師』
 
4. 2012年11月07日より
http://cocoyaku.jp/member/feature/?action_feature_detail=true&feature_id=2667に掲載。 ************ 医療支援を経験して〜被災地からの報告 30年以内に宮城県沖地震が起こる確率99%と言われる中、予想をはるかにこえたあの3・11が起きた。震源が海底であれば津波が起こる事は理解していたつもりが、まさかこれほどまでの事が起ころうとは・・・あの日を境に物事が大きく変わった。 震災当日、高台にある小学校に避難した。その時、その小学校の1室に、近隣の医院の入院患者が運ばれ、救護所のようになっていたのを目にする。白衣のまま避難した私は 今夜はここで何か手伝う事があればやらなくては・・・と感じた。しかし、その夜は偶然親戚に会い、そのまま雪降る中墓地のある山をつたって、親戚の家に避難した為、そこを手伝う事はなかった。 勤めていた薬局は流失し、家はどうにか津波から免れたが、頻発する余震が、さらなる津波を引き起こすのではないかと、 親戚の所へ身を寄せてはいたが、何かをやらなくては・・・という思いは募る。市役所に行き、 薬剤師ボランティアの登録をしたり、避難所にいる知り合いのドクターに手伝いはないか聞いたり、薬剤師仲間にボランティアを持ちかけたり、携帯が役に立たない中、車も使えず、何をするにも、どこへ行くにも、瓦礫の中ひたすら歩くしかなかったが、日中は何かをしなくては・・・との思いで歩き回っていた。 3/19になって、気仙沼医師会館に、全国から医薬品、資材等の支援物資が入る事を聞き、その受け入れ、仕分け、リスト作り、開業医への払い出しの手伝いを仲間の薬剤師と数日行う。その後 、被災を免れた気仙沼市立病院の薬局が、患者さんで溢れ、戦場の様であると聞き、 3/22から 5月末まで薬局を手伝う。 市立病院近くの数件の門前薬局が再開したのが4/6、それ以降は院外処方となった事で、市立病院の薬局も落ち着きを取り戻したが、震災直後の大変な時期は、九州・山口薬剤師会など、外部からの薬剤師も手伝っていた。 気仙沼医療救護班本部は、市の健康管理センター「すこやか」に置かれ、 3/22から、そこを拠点に活動が始まる。(それ以前は、気仙沼市立病院が医療支援の拠点になっていた。) 私がすこやかに関わるようになったのは、 3/26に、薬のリスト作りのお手伝いに入ってからである。薬のリスト作りをしていた時に、その当時大きかった避難所(K−WAVE)から、腰部ベルトが必要であるという連絡が入る。すこやかに関わる少し前に手伝っていた医師会館に腰部ベルトがあるのを思い出し、それを K−WAVEにお届けした事があった。その救護所で、東京都薬剤師会の方に会い、気仙沼に支援に入ってくださっている事を知り、驚きと嬉しさ、そして大変心強く感じた事を今でも鮮明に覚えている。 医療救護本部「すこやか」は全国から集結した医療支援チーム、東京都福祉保健局、薬剤師会、心のケアチーム、栄養士会、リハビリチーム等の関係者のエネルギーで満ち溢れていた。朝、夕ミーティングを重ね、そこでその日の連絡、活動報告をし、問題が持ち上がればその中で話し合い、場合によっては災害対策本部の会議に上げられ、検討される。あの災害時にあって、気仙沼の医療支援は、システマチックにそしてスムーズに行われていたのである。それには、気仙沼の医療支援を統括している東京福祉保健局の震災直後から、医療支援が終了するまで継続した支えがあった事が、非常に大きい。 そして、全国から集まった医療者をまとめていた、災害医療コーディネーターの地元医師がいたこと、また、それらの医療者の中心にリーダー医師がおり、その医師が軸となって申し送りをしながら最後まで繋いでくださったこと、(リーダー医師は東京都医療救護班から選ばれ、福祉保健局の方々と連携を取りながら、活動していた。)それらが災害時であっても円滑な医療支援が行われていた事に、結びつく。 時には、熱いミーティングになる事もあった。全国から医療従事者が集い、同じ目的を持ち活動する。そこには垣根もなく、被災地、被災者を心から想い、手を差し伸べる真の医療者の姿があった。 今回の災害医療は、一刻を争う急性期の後、家を流され行き場を失った住民が避難所生活を余儀なくされる中に、その中心があった。 予想をはるかに超えた事態、喪失感、絶望感、恐怖、不安、行き場のない悲しみ、避難所でのストレス、それらを抱えた人への心のケア、集団生活での感染症、避難所での環境衛生、食事、そして服用薬の確認、継続サポート、健康相談等、様々な問題に気配りがなされていた。病をみて人を見ず、3分診療など、現在の医療が批判される事も時にはあるが、あの場ではまさに「人」を診る医療がおこなわれていたのである。そこには、医療の原点があった。 薬剤師会も、東京都薬剤師会、九州・山口薬剤師会、北信越薬剤師会を始め、他県の薬剤師の方々が、医療チームと帯同し、また本部「すこやか」での薬の管理、情報提供等で力を発揮する。最初は用意されていなかったミーティングでの薬剤師会の席も、4月中旬から設けられ、その頃から医療チームへの帯同依頼も増え、人数の手配が大変な事もあったが、その評価は高かった。5月に入ってからは、行政や医療チームに趣旨をご理解頂いた上で、宮城県薬の避難所巡回も始まり、お薬手帳の整備、必要に応じてOTC薬の配布、また、過剰医薬品の整理(支援物資の有効利用)等も行う。 気仙沼の医療支援は、6月末まで続いたが、当初から気仙沼の復興を支える為には、地元の医療期間を早く立ち上げ、患者さんを地元の医療機関に戻すという事を念頭に、地元の医師、医療チームが動き、その調整役を福祉保健局が担っていた。救護所がなくなる事で、受診を止めてしまう事のないように、最大限の配慮をしながら活動がなされていた。 震災から一年4ヶ月が過ぎ、町も大分落ち着きを取り戻している。震災により、常勤医を失った公立の本吉病院も、支援に入られた医師2名がその後を引き継がれ、その本吉病院へ手伝いに入られる医療者も、病院を支えている。医療支援が終了した後も継続で支援を行っている医療者もいる。そして、支援が終了した後に、気仙沼で就職を決めた医療者もいる。被災地に足を運んでいただいたり、それぞれの場で、被災地の医療支援の講演をなさったり、被災地、被災者を想い続けてくださる医療者は多い。 そういう方々に支えられて、今がある。地域医療の取り組みでも、新たな動きが検討され、動き出そうとしている。震災により失ったものは確かに多い。絶望的な気持ちになる事もある。しかし、それ以上に得られたものも多くある。 今回の医療支援に関わることで、多くを学ばせて頂いた。そして1番は、多くの出会いに恵まれた事にある。支援に入られた方々、そして今も支援を続けていられる方々、想いを馳せてくださる方々に心より感謝申し上げたい。
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