Memories when the earthquake occurred: 仙台市青葉区一番町

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震災の記憶のマッピング実験より
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Geolocation
38.264171, 140.871034
Location(text)
仙台市青葉区一番町
Latitude
38.264171
Longitude
140.871034
Location
38.264171,140.871034
Media Creator Username
hidenori watanave
Media Creator Realname
Hidenori Watanave
Language
Japanese
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Japanese Title
Memories when the earthquake occurred: 仙台市青葉区一番町
Japanese Description
震災の記憶のマッピング実験よりそのとき何をしていましたか? ぼろいビルの5階にあるボーリング場に友達4人といました。宮城はよく地震がくるし、何日か前にも地震があったので揺れ始めは『あ、地震だー』といういつもの反応でボーリングを続けてました。しかし、次第に強くなる揺れを感じ始め立っていられないほどになったところで、机の下に潜りました。揺れはおさまらず、まるで絶叫アトラクションに乗っているようでした。なにか足に冷たさを感じ、よく見てみると水が辺り一面に広がっていました。上を見てみると、天井がはがれ、天井についていたテレビはコードだけでぶら下がっており、水道管が破裂していました。それを見た瞬間本当に死ぬと思い、まだ続くとてつもない揺れの中友達にしがみつきながら半泣きで『死にたくない!』と何度も叫んでいました。その後、従業員の方が客を全員誘導してくれボーリングシューズのままなんとか外に出ることが出来ました。(未だに家にある)あの時、揺れがまだ大きい中誘導してくれた従業員さんには本当に感謝しても仕切れなかったです。外にでたあとは、とりあえず広い所に行こうと思い公園に行きました。その日は雪が降るほど寒く、びしょびしょになった私たちは震えながら、余震がおさまるまでその公園でおのおの家族との連絡を試みたり、ワンセグで地震の情報をみたりしていました。街中の公園だったので避難してくる人が多く、少し心が落ち着いた気がしました。  その後、時間も大分たってどうしようもなくなったので、自分たちの高校に行ってみることにしました。(高校は歩いて行ける距離にあった。) 私は仙台駅から近い所に住んでいたので途中で母の仕事場により、合流してから帰ることができました。4人の友達は、家がとても歩いて帰れる距離になかったので、何日間かはそのまま学校に寝泊まりしたそうです。その後のライフラインがとまった生活が一番大変でした。わたしは東京にくるまでお風呂に入れなかったです。しかしボランティアに行った避難所の状況の方がとても大変そうでした。あの日からの何週間かは一生忘れられない記憶になりました。忘れちゃいけないと思っています。
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