朝顔の花は咲く
2021年10月1日
2022年1月30日
D.L(50代)
数年ぶりに電話でD.Lさんとお話ししました。一度しかお会いしたことがありませんが、ずっと聞き手の私の心に存在していました。電話の向こうの彼女の声を聞き、なつかしさが こみあげます。出会いとは、そういうものかもしれません。直接、会った回数ではなく、気になる人というのは、なぜか心から離れません。
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「あの日は石巻の市街地にいました。電柱が激しく揺れ、立っていられませんでした。息子は小学3年生(9歳)で学校にいましたから、絶対、安全だと信じていました。しかし、津波にのまれて犠牲になりました。すぐには遺体が見つからず、夫は徒歩で探し回りました。
あの日、何が学校であったのが真実を知りたくて裁判に加わりました。(2014年)子どもたちは、校庭に50分以上も留まり、どんなに怖かったか。裁判をするかどうかは悩みました。学校が子どもたちを避難させれば、助かった命なのです。『なんで、死ななくてはいけないのか?』。くやしかったです。先生達が、助けようとして一生懸命、何かやってくれた結果なのでしょうか?どれほどの努力をしたのかわかりません。裁判には勝ちましたが、嬉しくありません。命が返ってくるわけじゃありませんから。息子は9歳と数か月の命でした。人懐こくおしゃべり好きで、みんなに好かれていました。2021年8月で20歳になりました。どんな大人になったのでしょう。成人の祝いに親せきがケーキを持ってきてくれて、お酒が飲める年になったのだからとビールも持ってきてくれました。でも私にとっては3年生でストップした命。いつまでも子供でいるのです。
祖父が、孫の乗って帰ってくるはずの学校のスクールバスを待つため、バス停まで迎えに行きましたが、バスはきませんでした。波をみたそうです。
2014年に、朝顔の種を蒔きました。震災後しばらくして、息子の机の引き出しの奥から見つけました。位牌の所にしまっておいたのですが、3年後に蒔きました。裁判の時で、 がんばらなければと思い、息子の力をかりたかったのです。赤紫の花が咲きました。夫は、息子の写真をいつも車に乗せていて、一緒にあちこちに連れて行きました。最初から二人だけの夫婦ならいいけど、年をとってから授かった息子が急にいなくなったのです。丈夫に成長してくれました。産んでよかったと幸せでした。生きていてほしかった。くやしい。私の夢にはでてこないのですが、夫の妹には出てくるんですよ。
夫は兼業農家で、仕事の合間に田んぼもしていました。息子も時々手伝っていました。長男として田んぼを守らなくてはと思ったかもしれませんが、私たちは息子には将来は好きなことをしてほしい、いろんなことを見てほしいと願っていました。でも、年取ったら世話してほしかったかなぁ。」
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D.Lさんは、ずっと涙声で語ってくれた。でも、力強いエネルギーが電話の向こうから響いた。2011年3月から時が止まっている彼女との会話。一度は直接会って、二度目は、こうして電話で。聞き手の自分は、この11年間(2022年現在)、何をしていたのだろうと立ち止まる。ずっと同じ場所に立っているのかもしれないと、ふと思った。 もうすぐ、また3月11日がやってくる。