その時、私は港区麻布十番にいました。

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その時、私は港区麻布十番にいました。これから地下鉄大江戸線の改札に向かおうとするとき、今まで経験したことのない揺れを感じました。
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その時、私は港区麻布十番にいました。
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その時、私は港区麻布十番にいました。これから地下鉄大江戸線の改札に向かおうとするとき、今まで経験したことのない揺れを感じました。立っているのが怖く、太い柱のそばに行きつかまりました。周りには私と同じように立ちすくむ中年の男性、悲鳴を上げて、地上へ立ち去るわかい女性たちがいました。 ひとまず揺れがおさまると、私はすぐ渋谷行きのバス停に向かいました。大江戸線は動かないだろうと思ったのです。大江戸線がまだ開通しない頃、よくバスで渋谷から麻布十番に来ていたことが役立ちました。 バス停には10名以上の人が待っており、大きな地震が東北地方で起こったらしいと言っていました。それほど待つことなく、混んだバスが来て、余震をバスの中でも感じつつ、渋谷へと向かいました。バスから外を見ると、ビルの外から人がみな歩道に出て、不安そうに立ったり、話したりしていました。 渋谷駅に近づくにつれ、道路が渋滞しだし、運転手さんもこれから渋滞が予想されるとアナウンスしました。私は2つほど前のバス停で降り、駅まで歩きました。 私鉄の井の頭線の浜田山駅が最寄り駅ですが、改札前には人がたくさんいました。なんとなく列を作って待っている人、携帯をさかんに使っている人、学校帰りの制服を着た小学生たち、、、、私も携帯で、やはり渋谷の近くにいるはずの娘にメールしましたが、返事はありません。自宅にいる息子にも、会社の夫にも連絡はとれませんでした。 30分ほど待っていましたが、駅員からは同じアナウンスが繰り返されるばかりで、電車の運転は難しそうな様子でした。他に帰る手段もなく、これは歩くしかないと思いました。 歩くのなら、まずはその準備と、駅ビルのトイレに行きました。そこはそれほど混んではいませんでした。 また駅に戻り、歩くにしても誰か知り合いでもいたら励ましあって長い道のりも気がまぎれるかと、見まわしましたが、誰もいません。幸いにも私の恰好はウオーキングシューズに小さなバックパックでした。渋谷から歩いたことはないし、何時間かかるだろう、となかなか決心できないでいました。その間も何度も携帯で娘との連絡を試みていました。 仕方ない、歩こうと決断しかかったとき、娘のエメラルド色のジャケットを見つけました。目に鮮やかなジャケットを着ていてくれて、人が増えてきた中ですぐ見つかったと思います。ちょっとした感激の対面でした。若い人と一緒というのは元気が出ます。何よりもの同行者を得て、自分の中で力が湧くのを感じました。 二人で歩き始めました。次の駅である神泉までは行き方が分かったので、神泉を目指しましたが、あとから地図を見ると、それは遠回りでした。神泉からは東大のキャンパスにずっと沿って歩き、相当時間をロスしました。途中の商店で道順を聞くのですが、聞き方がまずかったのか、最短距離を歩くことができませんでした。雨でもなく寒い日でなかったのが何よりでした。 一度水をコンビニで買いましたが、近くのレンタカー会社を聞いているお客さんがいました。遠くから来ていて、車で帰ることを考えていたのかもしれません。大変だなあ、と思いました。 下北沢あたりでは、もしかしてもう電車が動いているかもというかすかな期待も持ちましたが、相変わらず運休でした。同じ方向に歩いている人と話すと、これから府中まで帰る、というビジネスマンもいて、重そうな鞄を担いで、あきらめた表情でした。 もう日も落ち、やっと明大前から甲州街道に出ると、歩く人、人の列で歩道は一杯でした。道路はひどい渋滞。みんな黙々と歩いていましたが、混んでいてなかなか自分のペースでは歩けませんでした。 あと、30分くらいという普段の散歩コースに来た時は、もう7時近く。夕飯を食べて行こうと店を探しましたが、従業員を帰した為か、臨時休業のところが多かったです。やっと見つけた食堂で食べて、また30分歩きました。 家に戻り、テレビで何度も映される津波の映像に目を疑いました。それは10年前の9月11日にくりかえし放映されたWTCに旅客機がつっこむ映像となぜか重なりました。当時私たち一家はニューヨークに住んでいました。信じられないこと、歴史に刻まれることが起き、自分がその瞬間を経験したという共通点でしょうか。ただ、感じたことは異なっていました。同時多発テロの時は、その背後にあるものがわからないという恐怖、これからアメリカのニューヨークにいて、自分達はどうなるんだろうという漠然とした不安でしたが、今回の津波に呑み込まれる船、家、木々の映像、そしてそこに含まれたであろう何百、何千という人々の命の映像を見たときは、ただただ人の命のはかなさを感じていました。 福島の友人は大丈夫だろうか、と携帯メールをうったのは夜8時頃だったでしょうか。福島の原発の悲劇の始まりはそれからでした。
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