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私の会社は古川、妻の会社は涌谷で、自宅は石巻。
妻と両親、長女、長男の6人家族です。
震災当日は中学校の卒業式の日、小学校は通常登校日で家族4人は家で地震にあいました。
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私の会社は古川、妻の会社は涌谷で、自宅は石巻。
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私の会社は古川、妻の会社は涌谷で、自宅は石巻。
妻と両親、長女、長男の6人家族です。
震災当日は中学校の卒業式の日、小学校は通常登校日で家族4人は家で地震にあいました。直ぐに大津波警報が発令され、父は2階にいけば大丈夫だろうと思っていたようですが、子供たちが泣いていたので近くの小学校まで車で避難しました。大通りはすでに大渋滞で裏道を抜けて小学校に到着。その後10分足らずで小学校にも津波が押寄せ、車のドアミラー辺りまで浸水しました。
妻は会社から戻りましたが既に津波が来ており、家に近づく事すらできず、貞山堀に流された車がどんどん落ちていくのを見たそうです。
私は角田市に出張しており、停電のため電車で帰宅できず通常1時間30分の古川までの移動に8時間要して、会社に戻り石巻に着いたのは深夜の1時でした。しかし妻が避難した中学校には、その後押寄せた幾度の津波で近づけません。一番近い高校で一晩を過ごし、翌日早朝に腰高まである海水につかりながら中学校へ行き妻と合流。子供達がどこに避難したかもわからず困っていましたが、3月12日お昼頃に小学校に避難した人たちの名簿が来て無事である事を妻と涙ながらに抱き合って喜びました。そして直ぐに子供たちに会いにいきました。それから小学校での避難所生活の始まりです。私たちは3月24日に避難所を出ましたが、上下水道、電気は通じていませんでした。
路上には当たり前のように自衛隊の車があり、たくさんの支援物資を頂いたり、全国各地からの支援物資が小学校に送られ本当に助かりました。
震災直後から、栗駒、山形、静岡、パキスタンはじめ多くの支援団体が学校での炊き出しをしてくれ、暖かい食事ができたのも本当にうれしかったです。
1週間を過ぎ、アパートを探しても既に満杯でした。土地は高騰し新築は今では1年待ちだそうです。幸いにして4月に土地購入、5月に家の契約をし9月末には新築が完成し、ようやく生活の基盤が落ち着いたところです。
全国、いや世界中の方から頂いた善意を忘れず、新しい生活をはじめていきます。長文失礼しました。(これでもかなり短縮したつもりですが・・・)
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