2020仙台ワークショップ課題

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Geolocation
38.281851576337, 140.9587711054
Latitude
38.28185157633655
Longitude
140.95877110540414
Location
38.281851576337,140.9587711054
Media Creator Username
Hiromi Y.
Media Creator Realname
Hiromi Y
Frequency
Archive Once
Scope
One Page
Internet Archive Status
Not Submitted
Language
Japanese
To
From
Place of Residence
宮城県仙台市
Occupation
教員
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Japanese Title
2020仙台ワークショップ課題
Japanese Description
東日本大震災時の状況 このとき、わたしは、七北田川・梅田川の氾濫原、後背湿地上に建つ職場に勤めていた。地理の教員であるわたしはよく、地学の教員とともに「次の宮城県沖地震が来る前に転勤しよう」と冗談を言っていた。 3/9 高校入試の最中に三陸沖を震源とするM7.3、最大震度5弱の地震があった。いま思えばこれが前震だったのだ。職場では特に被害もなく、入試は最後まで行われた。 3/11 その日は午後から会議だったので、午前中、所用のため外出した。そのときに、スマートフォンの充電が完全でないことに気づき、モバイルバッテリーを買おうかと思ったが、結局買わないまま職場に戻ってきた。 この3月は、高校地理教員の有志で編集する『宮城の地誌』改訂版の原稿〆切となっており、わたしは「宮城県の災害」という項目を担当していたので、会議までの間に原稿を見直しつつ、『仙台市史』の「宮城県沖地震」の項目を見直していた。 そして、会議が始まり、しばらくたった午後2時46分、地鳴りがして、大きな揺れが来た。みな会議室の大きな机の下に潜ったが、いつまでも収まる気配がない。頭を出して時計を見ると、2時50分になろうとしている。あまりに長くて大きな揺れに焦ったのか、窓際にいた同僚が大きな声で「廊下に出た方がいいんじゃないか」と言い出した。職場の廊下は、実は温室のようなガラス天井である。思わず「ガラスが割れて落ちてくるから出ないでください」と叫ぶ。 揺れが収まって改めて会議室を見ると、大きな机がみな廊下側に流れるように移動していた。後背湿地の地盤の緩さ、揺れの大きさを改めて実感する。 そこから手分けをして校内の被害状況確認に当たる。このときは、自宅学習日で生徒が登校していなかったことが不幸中の幸いと思う。 職員全員が玄関前に集合したのが午後4時前だったか。雪がちらついて急に冷え込んできていた。手元にあったスマホでワンセグをつけてみると、大津波警報が発令されていることがわかった。いったいどこまで来るのだろうか、海沿いの生徒たちは大丈夫だろうかと不安になる。 その後解散となり、職員はみな帰っていった。わたしは自宅まで車で1時間かかる山手に住んでいることもあって、職場に残ることにした。信号もついていないし、日も暮れかけているし、何より職場からみえる国道4号線のテールランプの列が全く動いていないようにみえたからである。信号もついていないなか、その国道4号線を横切るのは不可能のように思われた。 職場の敷地はあちこち液状化はしていたものの、ガラスが割れたのは1カ所だけ。ただ、屋上と建物裏手の貯水タンクが壊れたので、水だけは被害確認の際にあるだけの器に汲み置きをした。近くに住む生徒や家族、それから近くで自主的に活動していた部活の生徒たちがその後やってきたが、備蓄も何もないことから、すぐそばの備蓄のある小中学校に行くよう指示をして、その後1時間に1回、残った職員で様子を見に行った。 5時前頃になるか、近くの梅田川左岸に住む生徒が、「梅田川があふれてきた」といって避難してきた。津波がそこまで遡上したのかと驚きながら話を聞き、中学校の方に送った。 夜に10人程度残った職員は、何も食べるものもなく、たまたま見つけたカセットガスコンロでお湯を沸かし、インスタント味噌汁を飲んだ。事務室と校長室、それから保健室に分かれて休むことにし、わたしはロッカーに入れておいた大判の毛布をかぶって、事務室の椅子でうとうととした。つけっぱなしのラジオから繰り返し聞こえる「仙台市荒浜に200~300体の遺体」と、仙台港と思われる火災で真っ赤になった東の空だけが記憶に残っている。 3/12 朝、カップ麺を人数分探し当てて、カセットコンロでお湯を沸かして皆で頂く。その後、わたしはもう1人の職員と、開店したと聞いた近所のドラッグストアに買い出しに出かけ、清涼飲料水の大型ペットボトルと菓子の大袋をいくつか手に入れて戻ってきた。そして出勤してきた管理職に頼まれて職場の被災写真を撮影した。その後、管理職がホワイトボードに確認事項を書き入れて玄関に置くのを見ながら、昼過ぎに帰宅した。 自宅はさほどの被害もないとはいえ、電気も水もガスもなく、とりあえず近くの大型量販店に1時間ほど並び、サバ缶とみかんと水を手に入れて、そのサバ缶とみかんだけを口にし、早々に休んだ。 3/13 朝、ご近所の方に、給水車が近くの小学校に来ていると伺う。入れる水タンクもないというと、ゴミ袋を2枚くらい重ねて、トートバックにでも入れていけばいいと言われる。そこで、ゴミ袋と大型のビニールバックをもって急な坂を10分ほど上り、水をもらいに行く。しばらく並んでいたら、水が切れたらしく、1時間くらいまた待っててほしいといって給水車がいってしまう。そこへ、避難所となっている小学校で配っていたおにぎりが余ったからと、前に並んでいた人が半分くれた。震災後初めてのお米がこんなにおいしいとは。避難所に来ようかと一瞬考えたが、家に被害もないしと思い返す。 この日は午後また吹雪になり、そのなか3時間半生協に並んでとりあえずなにか食べられるものを買おうとする。店に入り、ひとり10点までといわれながら寒さでぼーっとかすむ目と頭で何にしようか考えていると、お店の人に早くしてくださいと叱られる。こんな寒いなか外で待った上になぜ叱られるんだろうと思いながら、もう何を選んだかも覚えていない。いま思えばお店の人も早く売り切って早く帰りたかったんだろうけれど。 夜は布団にくるまってずっとラジオをつけている。それしか情報源がない。聞いてないと不安になる。でも聞いていると眠れなくなる。そして身体が冷えてくる。 3/14 月曜日なので少しゆっくりだが出勤する。たまたまガソリンを満タンにしておいて助かったと、あちこちのガソリンスタンドの長い行列を見ながら思う。今後の動きについて会議が行われ、昼過ぎには帰宅する。 帰宅すると、電気がついている。うちは暖房も電気なので、助かった!と思う。これでとりあえずなにか暖かいものも食べられる。 パソコンを開くと、教え子たちからメールが殺到していた。エクセルを開いて、安否確認表を作り始めた。この職場には長いので、在校生から卒業生まで10年分の表を作ることになった。これから金曜の朝まで、安否確認に追われることになった。そしてテレビから流れ出す情報の波にのまれて、パニックになった。こんなに大変なことになっているとはという恐怖と、不安と、焦りと。そして、安否がわからない友人知人、教え子たちの情報をどうやったらいいのかと途方に暮れた。 電気が通ったこの日が、別な意味で不安の始まりともなった。
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