ホテルの2代目に
後藤宗徳(ごとうむねのり)です。昭和33年10月19日生まれの53歳。石巻グランドホテルなどの経営をしています。家族は、妻と東京に息子と娘、ニュージーランドに1人息子がいて2男1女。
気仙沼出身。今回の震災で被災した宮城と岩手の県境にある市で、街の真ん中の南町という場所で小学校3年まで過ごしました。それからずっと仙台。父の仕事の関係でね。もともと美容師だった母の発案で、「仙台で結婚式の貸衣裳業をやったらって・・・」、それで父親が貸衣裳屋を始めました。
仕事が軌道に乗って、ホテルさんと取引するようになって、たまたま縁あって、ホテル経営を始めました。そして、12年前に私が2代目の経営者になりました。そのときのホテルは、古くなったので2年前に解体して、今は「石巻グランドホテル」ともう1件のホテルと結婚式場の計3施設を運営しています。
社長という仕事は、会社の未来、進むべき方向を開拓していく、社員を引っ張っていかなければならない仕事です。原稿を作ったり、会議で使う資料を作ったりする時など、パソコンに向かう時もありますが、あまりじっとしているのは好きではないので、お取引先の会社やお客様の会社にご挨拶に行ったり、地域に関する会議等がある時は、そこに出かけて行って、地域全体が元気になるように活動してきました。
"ヒタヒタヒター"と水が来た
地震が起きた当時はグランドホテルの1階にいました。未体験ゾーンでしたね。目の前のもの全部横に飛んで行きましたし・・・。今までも県北地震とか経験していますが、その時の2倍に感じる揺れ、しかも2分くらいの長時間。
揺れがおさまってから、事務所の中は荷物が散乱している状態。ただ、建物に重大な損傷は無いものの、被害をすぐに確認しなければと思い、大きなひび割れの有無など、1階は自分で全部見て、全体はスタッフに指示して確認しました。内装やシャンデリアなどの照明器具、配管関係に損傷が見られ、鉄筋コンクリート構造のホテルで、これだけの被害が出ているわけだから、街の中には古い建物がたくさんあるし、別会社(結婚式の貸衣装の会社)の建物も街中にあるので、確認に走りました。
その別会社の建物は、見た瞬間、柱が2本グチャグチャってなっていて、築約50年が経過した建物なので、「これはもう駄目だな。」と判断し「社員に即退去、自宅に帰りなさい!」と指示をしてホテルに戻りました。戻る途中、出会う地域の人は、皆動揺していました。隣の銀行の方とも話をして「皆さん大丈夫だったー。」「うん、すごかったねー。店の中ぐちゃぐちゃー。でも大丈夫だった。」「火だけ気をつけてよ。」そんな会話を交わしました。街は相当なダメージ受けていました。地震発生から5、6分の話です。
会社に戻ってきたころ、外に設置されている防災無線から、大津波警報の知らせがありました。あれだけの地震です。津波警報が出るということも頭の中にはありました。津波が来てもここは、地理的に日和山が天然の防波堤になるはず、東側に北上川があるから、津波は必ず北上川方向から来ると想定しました。
津波を警戒しながら、備品を2階に上げようと話をしていたら、ご近所の方々が右往左往し始めるのが見えました。思わず「避難して!」って叫びながら、2階に誘導していました。
住民の方々の避難誘導をしながら、対策を考えていた時、川沿いから黒い水が・・・、プールの水があふれるように、ヒタヒタヒタと迫ってきました。「来たなー!こっちまで来んなよー!」って。でも「来るな!来るな!来るなー!超えるなーよ!あぁ超えてしまった!入ってきてしまった!」という感じです。結果的に50cmくらい入って、壁の大理石が剥離していることも加わって、泥だらけで悲惨な状態。でも、人が流されるとかそうゆうものではない。物もそんなに浮かなかったですね。
そして、その瞬間から、避難所の運営。避難してこられるみなさんとの共同生活が始まりました。
被災者の受け入れ、阪神大震災の経験
受け入れた被災者の数は最終的に最大約300人。社員も含めると約330人。震災後しばらくは、スタッフも帰れなかったですね。地域の人々、たまたま通りかかった人たちが、大勢集まってくる。車は多くが水没。停電の影響で情報はどこで取っていいかわからない中で、携帯電話もつながらない。このような状況下では、人は人のいるところに集まってくるものです。身を寄せて対策を考えようとする方々が、たくさんいらっしゃって、車が無事だった人も、もちろんいたのですが、道路は水没や陥没、がれき等で満足に走れない。
私は、阪神大震災の時にボランティアに行った経験があって、いろいろ感じたことがありました。その時の経験がとても役に立ち、今回の行動の原点になったと思います。あの経験あったから、自分自身がパニックにならずに済みましたし、社員をまとめることができたのも、避難者を受け入れて、きちんとした組織をつくることができたのも、その時の体験があったからだと思います。
30代に所属していた青年会議所という組織で、阪神大震災時、「現地は大変なことになっているからみんなで行こう」ってことに・・・。救援物資の搬入とデリバリー。その中でいろいろな要望の聞きとり活動もしました。その年は1年間、定期的に神戸に行きました。
ほんの少しずつ商店が元気になっている様子も見られましたし、問題点もいろいろ見ました。ボランティアに来ている人が夜襲われたり、トイレが汚かったり。「頭洗いたいなー!と思っても、お湯が出ないので、1月だったから冷たい水で頭を洗いました。
幼少期と社長になった理由
私は転校が多かったんですよ。気仙沼に小学校3年まで、4年生の時に仙台の小学校に転入して、またもう1回転校しました。借家に住んでいました。それを少しずつ環境の良いとこに移れる機会に引越しをしました。決してぼくが退学になったとかじゃなくて(笑)、そうゆう事情で引越しをした。
父方の祖父は、気仙沼で漁業を営んでいました。釣りにはよく行ったけれど、祖父と行ったという記憶はない。むしろ父とよく釣りに行っていましたね。昔は軽トラックに魚が山積みしたままだった。だから、道端にポトポト落として行ってね、よく魚が落ちていました。魚市場の近くに住んでいたから、それを拾って切り刻んで針につけて、釣りのえさにして・・・。今は保冷車にきちんと積まれているけれど、それば昔の良さ。それを猫が食べたりしてね。
それ以前は、虫に夢中でした。虫なら何でも取ってきて飼っていた。昆虫博士みたいなそんな感じで、山を駆け廻って、ヤンチャないたずらっ子でしたね。遊ぶときは同じ年の友達だけじゃなくて、学年を超えて一緒に遊んでいる。そんな感じです。でも、転校で仙台に来て、田舎から都会に来たから、虫取りなんかはやらなくなったわけです。それと、転校するたびに友達と別れることが嫌だった。
大学は東京に出たくて、中央大学に進学しました。就活もして、自動車メーカーとか、流通関係に絞って、いくつか内定をいただいていた。
でも、内定もらった夏休みに、実家に帰ってきた時、夜中に1人茶の間でタバコをくゆらせている父親の背中がやけに小さく感じた。小さいときに鬼のようだった父親の背中が、ある瞬間小さく見えたというか・・・「これは一緒にいないとだめなのかな?」って思い、東京に帰って、内定を辞退しました。
これは多分、男でないとわからないかな(笑)。長男だったから・・・ね。弟は千葉で純粋なサラリーマンをしています。なかなか良い生活をしていますよ。「おまえが羨ましい」っていつも言う。
社員全員の解雇
震災後、一番辛かったのは、1ヶ月から1ヶ月半の時ですね。避難所を運営しながら、会社の再建を、同時に考えなければならなかった。それに、社員に3月分しか給料が支払えない。スタッフのほぼ全員を一旦解雇しなければならない状態でした。レストランに全員を集めて、3月25日に話しをしましたが、みんな淡々と・・・冷静に・・・受け入れてくれました。いったん約100人を解雇しました。今日現在、約60人しか戻せてない。これが私の一番辛いところ・・・。
でもね、解雇した子たちがボランティアで、避難した人たちの面倒見るために、ずーっと毎日来てくれたんですよ! そんなスタッフは宝物だね。ボランティアで来てくれて。なかには、毎日片道1時間歩いてくる子もいました。給料は出てないのに。避難している人たちを守ろうってことで往復2時間歩いて来るんですよ。頭下がりましたね。彼らは本当に宝物ですよ。彼らがヒーローです。
あとは、一部の若い子たちには、この際、「新しい仕事探したら」とも言っています。コックさんの中には「東京で修行積んで来い!」って送り出した子もいます。いい経験になる。東京で最先端の技術を学ぶ良い機会になると話しています。田舎にいたままでは、学べないことが学べるから・・・。夢見てほかの地域に行った子もいるし、残念ながら、いまだに仕事が決まらない子が何人かいる。
ありとあらゆる業種の復興が大切
震災後は復興支援で宿泊の需要はあります。ただ、うちは結婚式とか忘年会とか新年会とかが、売り上げの7割を構成していましたから、それが全く無くなりました。
そんな中、嬉しいお客さんがいらっしゃいました。懇意にしている社長さんの息子さんだけどね。地震の後、「石巻に何かできることはないか?」って考えたそうです。それで、近々結婚式しようと思っているのだけれど、それを東京で挙式をするのではなくて、石巻に行って、石巻でやって、石巻にお金を下ろすのだって決めたそうです。で、お父様から電話をいただいて「だからお前の所で頼むぞ!」って。嬉しかったですねー。「お宅で結婚式を挙げたい。それが、ぼく達ができる石巻への貢献だ!」と・・・本当に嬉しかったですよ。結婚式の時は、御礼のスピーチをさせて下さいって頼んでいるくらいです。
義捐金としてお金を送っていただくというのも、とても嬉しいのだけれど、仕事をくれるってことがもっと嬉しいですね。だって、例えば義捐金で100万円いただいたとすると、収入になって終わり。でも結婚式で100万円の仕事が来れば、お料理を作らなくちゃならないですよね。お料理を作るってことは、材料を仕入れなければならない。お魚とかお肉を買うってことです。50万円分、地元でお肉や野菜なんかを買うってことですよ。100万円をベースとした仕事が、何倍かになって回るってことです。どんどん、どんどん仕事がつながっていく訳ですよ。単純な義捐金だと、それを頂いた誰かは100万円を1人で貯金して終わるかもしれない。
ありとあらゆる業種が大切です。漁業でいえば、一部事業を再開したけれど、氷がないとか、冷蔵庫がないとか。全部関連しているわけです。復旧・復興して行くってことは、街全体が復旧しないと意味がない。どこかだけが復旧しても駄目だと思います。
助けてくれたたくさんの方たち
それから、全国からたくさんの人が、応援にいらしてますよね。震災がなかったら会えなかった人たちが、たくさんいる。その人たちと「縁」が生まれて、その「縁」を紡いで行って、将来大きな「絆」にすることが、僕らの使命ですね。
お礼がしたいですね。これから全国を、お遍路さんみたいに歩かなければならないかな?と考えています。顔を合わせて。
例えば、ホテルには300人くらい避難されていたでしょ。その人たちの健康をチェックするために、何週間も来てくれた札幌市の病院の院長さんがいらっしゃいました。ホテルのスタッフの健康状態まで見てくれて、それで「また来週来るから!」って。本当に来たぞ、また来たぞって、4週連続で来て下さいました。そういった人たちが、他にも鳥取とか沖縄とか大阪とか三重にも東京にも・・・大勢いらっしゃいます。
サンマが上がってきたから、サンマをどんっと送ってあげようって思っています。一時的な支援関係ではなく、長いお付き合いをしたい。それは、日々の感謝の気持ちを積み上げながら、一日一日積み重ねて1年になって、1年の積み重ねが10年になって、またその積み重ねが・・・。ずーっと続いていく。次の世代、またその次の世代と続いて、全てが強い絆になっていく。
石巻のことを知ってもらって、たくさんの人々に応援していただいて、震災から復興して、それからずっと石巻との「縁」がつながって行く。大切なことだと思います。
5年で元気になろうって
私は子供の頃、引越しを何度かしましたから、「故郷はどこですか?」って聞かれた時、それまでは気仙沼とか仙台とかっていう思いがありましたけれど、もう石巻に住んで約28年だから、今では「石巻だよ!」と自信を持って言えるようになりました。
30代40代、必死に走ってきて、40代後半から地域で生きていると感じるようになり、震災後は、「生かされている」という気持ちになりました。
神社のお祭りや8月1日の川開き祭りなどで社会的な活動をしていると、地域の魅力を肌に感じる機会がたくさんあります。人間の良さとか自然の良いところ、例えば、追波川(おっぱがわ)っていう川が石巻にありますが、その川岸にはかやぶき屋根に使うヨシが生えていて、そのヨシ原が11月頃とても美しい。あとは、明治政府が描いた横浜港に匹敵する築港計画の遺跡である野蒜(のびる)港築跡とかね。普段は気がつかない大切なものが沢山ある。そうゆうものが積み重なって地域の誇りが芽生えて、復興の力になっていくのだと思います。地域の人たちとも親友だなって思える人たちが生まれてきた時期になって「私は石巻人だな」って思うようになりました。
だから、そんな石巻は5年で元気になりたいですね。神戸が元気になるのに約10年かかったから、今回は5年で元気になりたいなって。それが目標ですね。あの大きな街ですら10年かかったのだから、やはり石巻を元気にするには長い時間がかかると思います。半分というのは難しいかもしれません。でも気持の上では半分でやりたいって。「東北の片田舎の小さな街が5年で元気になったよ」ってなれば、未来における日本全国どこでも起きる可能性がある災害に「あの東北の田舎でも5年で元気になったんだから、俺たちは3年で元気になろう」って思える日本になればいいなって・・・。そのために覚悟を持って進んで行きます。