高橋さんの家族
高橋です。昭和30年生まれの56歳です。
もともとは北海道の生まれでして、親父の実家が石巻で小学校の3年生から石巻っちゅうところに。そこで学生時代過ごして。先代である父親も、水産関係の仕事を立ち上げて1人でこうやってきてたので、大学を出てから一緒に仕事をしてきたということですね。実家は水産関係とぜんぜん関係なく、北海道にいたときも農家をやってました。私が大学卒業する前の年に、先代の社長の親が亡くなって、男手がどうしても必要な部分があったので、学生時代から夏休みっていえば、試験が終わった日の夜行で帰って、次の日から仕事手伝ったりとか。冬場なんか一番忙しい時期なんで、試験終わればそのまま帰って仕事ですね。ただ、その時期頑張れば当時は冷蔵庫とか少なかったんで、夏場なんかは1ヶ月くらい夏休み。冬場は忙しいけど、夏場は遊べるなと。今は冷蔵庫と流通が365日休まずなので我々もなかなか休めない。日曜日は基本的に工場の仕事は休みますけれども、販売先とかの配送とかもあって、そういうのは家族とかでカバーしてやってます。
私には姉と妹がいます。どちらも仙台に住んでまして。妹のほうが仙台の新寺(しんてら)というところで、マンションの1階を使って震災後、うちのタラコを店頭で販売しながら、それを使ったお食事を提供する『たらこcafe』を始めて、ちょっと今話題にはなってます。実家の手助けになればと、今、がんばってもらっています。なかなか積極的な妹で、自分で店を設計して工事頼んで、ちょっと遅れた感じですけれども、何とかオープンにこぎつけて。「早くタラコも作ってよ」って、要望されましたね。今はタラコどんぶりっていうのを提供したり、後はショーケースで並べたタラコを大分けして売ってます。
私の母親がまだ元気でいたんだけれども、こっちは今のところ生活するには大変なんで、姉のところで面倒見てもらっています。
私の自宅は石巻の全壊地域で住めない状態なんですけども、たまたま市内に家内の実家があって、おばあさんが1人で暮らしてて、そこは被害がほとんどなかったので、私と家内と息子2人転がり込んで。長男は震災前からうちの会社に戻って仕事をしてたんですけれども、3番目の子が、ちょうど大学4年の春休みというタイミングでたまたまこっちに帰ってきてまして。もう東京に就職先とアパートを決めて、卒業証書もらったら行くばっかりになってたとこなんですけど、何日か避難所暮らしをしながら、「どうしよ」っていう相談受けまして。東京の会社に行くのもいいしっていう話はしたんだけれども、最終的には本人もこの現状見て、ま、自ら育った石巻の復興を「うちを手伝いながらこの目で確認したい」と。ただ、その就職先もありがたいことに1年間猶予をくれてはいるんです。でも、5ヶ月も経ってうちの仕事してると性に合ってたのか、楽しくがんばってますね。息子2人が手伝ってくれるんで、われわれも前向いて仕事する気になれますし、頼もしい限りです。
真ん中の子は当時から就職して、神奈川のほうにいます。5月の連休とか、ペットボトルにいっぱい水買い込んで、「あと何いるんだー」とか。「瓦礫の処理に厚手のゴム手袋必要だ」とか、いろいろ買い込んで車できてくれましたね。
タラコ作りに適した加工団地
もともとは自宅の脇に小さな工場を建ててそこでやってたんですけれども、石巻の魚町(うおまち)に新しい漁港ができて、そこの一角にわれわれも進出して今に至ってたっていうところですね。加工団地は私が引っ越してきたあとに出来上がったものなんです。以前は河口にあった市場を今のように外洋に面して作って。そこの港に大きな船が入るっちゅうことで、入り口に加工団地を形成して、そこで大きな仕事されてたっちゅうとこが多いですよね。今回そこも一番被害受けて、水揚げもできないで、背後地でその水揚げを待って仕事してた業者さんはこれからを模索している状態ですね。軒数的には大小含めて100軒以上。あとは加工だけじゃなく、それに関わる運送業なりなんだったりも含めて、いろんなところがそこに集約してきたという地域でしたね。
もともと石巻にはスケソウダラという魚があがって、おなかに入っている原料だけを買い取って、タラコとか辛子明太子に加工してたんです。親のほうはすり身でかまぼこの原料になる。
タラコを扱ってるところは、20年以上前で一番多いときで4、50軒あった。あとは200海里以降漁獲量とか規制されて水揚げが思ったように行かない時期もあったりしまして。だからわれわれの原料もほとんど今は輸入品。アラスカ海域で獲れたものをアメリカ経由やロシア経由で。だから、今思うとあえて魚町で水揚げしていた魚を使わなくても、商社が輸入して持ってくるもの。だから加工場さえあれば仕事はできるというような形。まあいろんな、冷凍した原料保管するだとか、つくったタラコをまた凍らせて保管するとか、それを各消費市場に配送するとか。そういったね、運送とか保管とかいろんな面がそこにあったのと、あとは一番大事な加工する人材がそろっている地域であったので、加工団地でやるのが一番良かったわけですね。
塩釜での再スタート
振り返ってみると先代から40年続けてますね。それまで北海道でジャガイモ作ってて、石巻に帰ってきてできた気の合った友達が水産関係の仕事してて。やる気があったら一緒にやってみないかと誘われて。初代も負けん気があるので、50あった同業者と切磋琢磨してた。
タラコは一時石巻が生産量日本一にもなりました。そういう名産ではあった。今回の震災に際しても、私の知ってる同業者に、せっかく石巻はタラコや明太子で名前を全国に売ってるんだから、あきらめずにまた仕事をやろうっちゅうことで声かけ合って。いち早くやったり、まだ準備中のところもありますが、またみんなで石巻で仕事ができればいいなと考えています。ただ、事業としては塩釜で仕事できるように立ち上げたので、今までなかった塩釜営業所というポジションで、この被災をいい経験に、リスクの分散といったこともしようかと。今までは効率化考えると集約して1ヶ所で何もかもできるようにできればいいなと思っていたけれども。経費の面で負担は出るけれども、これから長くやっていくぶんには、それぞれの地域性でいいこともあるんで。塩釜は塩釜で皆さん面倒見てくださってありがたく迎えていただいています。
今働いている人は石巻から通ってます。震災以降、従業員も散り散りになりまして、全員の安否を確認するまで2ヶ月ほどかかりました。誰がどこの避難所にいたよっていう情報もらうとそこに行って、名簿を見たり各部屋を探したりしながら。幸いにもうちの場合は全員無事だった。ただ、住む家をなくした人らも多かったので、すぐに仕事の再開っちゅうのは難しかったですけども。私自身はとにかく再開しようと、そのときから思っていました。復興を支援してくれた人たちに恩返しなり復興の手助けをしようということで、われわれにできることは仕事をして、食品製造によって皆さんに食べていただくと。それが恩返しや復興の手助けになる。
ただ、うちらの住んでたところの現状は、5月のころとほとんど変わりない。道路の交通網はだいぶ改善されてますけど、仕事する環境にはまだまだほど遠い。地盤沈下しましたから、それを改善するのに大掛かりな土木工事が必要なんでしょう。それだけ時間はかかると思いますね。通勤に不便なところに工場立て直して従業員に通勤させるっつうのはちょっと難しいだろうなと思いまして、ともかく早くできるところっちゅうことで塩釜を目指して今やってきたんです。
最初は北海道や九州に工場あるよっていうことで行こうかと思ってたりしたけど、従業員のこと考えると、自分たちだけでは仕事にならないなと。それで塩釜にも知人がいて、めぼしいところあるから見せていただいて、その場ですぐ決めました。工場をきれいに直して。道具は少しずつですけれども準備して、あとは人の力でできるところはそれをして。もともと手作業の部分が多い仕事なので。
原料は塩釜港に入ってきます。塩釜ももともと漁業の町なんで、ま、石巻でそろってたようなものがすべてこの環境ではそろってる。仕事はしやすいですね。仕入れるのは商社さんなんですけど、大量に原料を保管してたうちの冷蔵庫は津波で流され、電気も止まって、すべて腐敗しちゃった。それを石巻の地域の業者で協力しあって海に戻しました。うちの場合は原料ひとつも残ってなかったんです。それでも先代の社長から始めて40年やってきた信用だけで、高価な原料を分けていただいて、おっきな商社さんも代金は回収した後でって対応してくれてるんでありがたかったですね。そういうのがないと、いくらこっちがやりたいやりたいといってもスタート切れるわけではないので。製品を販売してくれる、東京の築地市場なんかにはまた出し始めています。待っててくれたお客さんもいるし、その対応は様々ですね。皆さんから応援していただいてありがたい限りです。
お客さんに安全なタラコを
作業工程を簡単に言うと、冷凍の原料を1日使用する分ずつ解凍して、それを次の日、調味づけして溶かして、熟成させる。その後にひとつずつタラコの形を整えたり、表面についている不純物があれば丁寧に取り除いたりを全部手作業で。買ったお客さんがそのまま口にして食べるものなんで、生のお刺身作ってるのとおんなじような感じですね。塩加減と調味料とかも入っていますんで、見分けができるようになるには、まあ、2、3年はかかるんじゃないんでしょうかね。だから塩釜に来ても、働いている人は全員石巻から通っている。
震災前はハセップという世界基準の衛生管理の認定も受けた工場でやっていました。衛生面は非常に大事なんで、今もそれを考慮した工場に少し改装してやっています。そこでできた商品を従来のお客様に「再建しました」っちゅう案内とともに出させていただきまして、そうするとお客さんから「待ってました」っちゅう言葉と同時に注文いただいたり、直接義援金くれる方もいますし、地方の名産を従業員の皆さんで食べてくださいって送ってくれたり。注文表と一緒にいろんなコメントも書いてくれるので、それを従業員と一緒に見て、働く喜びや、生産の意欲っちゅうのを持って仕事を進めていますね。
タラコは年間500トンつくりますかね。築地などの中央市場や量販店にも流れてました。その中でずっと、直接末端のお客さんにうちのいい商品を案内したい、という思いがありまして、それで工場の横に小さな売店をつくって、そこで地元の人だけでも買えるようにした。わざわざ仙台から来てみたとか、帰省で東京からも来てくれたりとか。ハセップの取得を目指したのも、末端のお客さんに安全でおいしいものを提供するのにどうしたらいいのかと考えてたどり着いた形。ハセップを取るには化学的な分析も必要です。あと一番は現場で働く従業員の衛生管理。今までマスクもしていなかった人にマスクをしなさいっちゅうと、最初は息苦しいとか、めがねが曇るとか出てきます。そういうことひとつひとつから段階を踏んでいくと、よその人から見るとすごいねっちゅうことも当たり前のようにできるようになってました。
石巻の地元のお客さん
石巻の店はしばらく閉店状態だったので、連絡取れないお客さまがだくさんいて。でも、通りがかりだから塩釜の工場に寄ってみたっていうお客さんもいまして、本当にありがたいですね。もともと市内の方が普段自分で食べるもの買ってて、お中元だお歳暮だって、何かあれば使ってもらったり。売店の担当者なんかは顔見知りになっていたので、「あのお姉さんどうなったの?」っていう電話の声もありますね。そうやってお客さんまでうちの従業員のこと心配してくれる。震災前は従業員は40名くらいだったんですけども、今ここには私たち含めて15名ですかね。やむなく離職された方もいるし、働きたくても自分の住むところを優先してますので。しかも1時間かかるので、そこまでできない方もいます。
タラコをつくる熟練の技
被災受けて、生産量も5分の1くらいに落ちこんでるんですけれども、反対に生産量が絞られたので、以前求めていたような末端のお客様への対応をする割合が大きくなってきた。手伝ってくれているスタッフたちもそういう方向に動いてきてくれていて。従業員の平均年齢は50を過ぎてきていますね。タラコに関しては熟練の技と言うか、品質を見極めたり、瞬時に手に持ってこれらは品質がいいとか、悪いとか、見た目もそうだし、触って確認するっちゅうことも必要なんで。だからうちの場合は一度働いていただくと、長く定着してくれる。10年やそこらはざらにいますね。そういう技はベテランの従業員から継承していく。先代から働いていた人は、丁度去年辞めたところではあったんですけれども、それくらい長くできる仕事。
悪い原料でも、末端のお客様にはおいしく食べてもらいたいんで、同じ味付けでつくってはだめなんです。それは例えば焼いて食べたらおいしいよ、とか、何か味付けて煮込んで食べたらおいしいよ、とか。そういった仕分けを上手にしてやって。その原料がどうしたら一番食べておいしくて満足してもらえるかという気持ちでそういう原料には立ち向かっていますね。毎日がやっぱり勉強なんですがね。解凍の状態も気温によって違うし、味の浸透具合も違ってきたりとか。あとはわれわれが味付けなどに携わるんですけれども、やっぱり時代が求める味がある。昔は塩漬けだったんで、ある程度の量の塩を使えばよかったんですけれども、今は塩分強いと身体に悪いとか。でも、いたずらに塩分を下げればいいっていうことではなく、本来の味を損なわずに、品質をいかにベターな状態に持っていけるか。商品をわれわれのトラックから積んで出荷するときは、親御さんが娘さんを嫁に出すときのような気分。だからこそ、ただ店頭に並べるだけでなく、直接お客さんに届けたいっていうのもありますね。
前を向いて進む
魚市場の真正面に冷凍工場があって、もうひとつ、道路一本奥に入ったところにハセップ工場だったタラコ工場があったんですけど。避難所はそこから300mくらい離れた中学校だったんですけども、中学校の4階からは自宅の屋根も工場の屋根も見えていたんで、大丈夫かなと思っていた。避難する前はきちっとシャッターも閉めて、鍵も閉めて逃げてきたので、万が一持ちこたえてないかなあとは思っていたんだけれども、行ってみると柱だけ残して木っ端微塵に壊されてまして、唖然としましたし。家の場合は2階建てだったんで屋根は残ってて。1階はもう瓦礫が流れ込んだりしてだめでしたけれども、2階の部分は何事もなかったかのような形で残ってましたね。
こっちも頑張んなければと。当時のことは思い出したくないっちゅうのが現実です。あれを考えていたら本当にもう、体も動かなくなっちゃうし。ともかく仕事始めて仕事に追われて毎日過ごすっちゅうほうに逆に逃げているのかもしれない。コツコツ40年、先代から引き継いでたもの全てなくなってますんで。ただ残ったのはそういうお客さんからの励ましだったり、従業員も業者さんもそういうつもりだったら応援するよっつうこととか。そういう財産だけが残って、それが大事だったのかなって。お金やなんかはね、人が作った数字だから、頑張って取り戻せばいいんであって。塩釜紹介してくれたり、しょっちゅう顔出してくれてああだこうだって、しょっちゅう助言してくれる人達がいるんで、本当にそういうので、落ち込んでる暇ないように過ごしていますね。
コツコツ続ける
父親の仕事は高校時代から手伝っていたし、初代で事業を起こすっちゅう大変さも物心分かる年から見ていて、まずは手助けをしないとって感じていましたね。私がそう思ってたのと同じように、このうちの子どもたちも思って育ってくれているのはありがたいですね。今回の震災に際しても、立ち上げるところを見てきたオーナー社長であれば、道具がなくても仕事は出来るよって。道具がなければ代わりのモノで、機械がなければ人で行えばいいやって。とにかく再開する方向で考える。
うちらはこうやって従業員がついてきてくれているおかげで、仕事を再開できています。水産業界も長い歴史があるんでしょうけれども、一代きりだったり、なかなか後継者が育たなかったりとかね。そういう業種でもあるけど、ただ大きくするだけじゃなくて、継続してコツコツ力をつけていって長く仕事できるっていうのもいいのかな、と思っています。