自己紹介
阿部紀代子(あべきよこ)と言います。料亭八幡家の代表をしています。ここ八幡家の娘なので、この土地に生まれ育って、今4代目っていう立場でいます。家族は両親と弟がいるんですけど、弟はもう別のところに住んでいます。あと犬が1匹います。
子供時代
石巻で生まれて、ここで育ちました。だから被災前の、この石巻が空洞化になる前の一番賑やかな時代に子供の頃を過ごしているので、やっぱりこの土地に対する思い入れはすごくありますよね。子供の頃はね、漁船がすぐそこまで入ってきて停泊していたもんですから、漁業もすごく隆盛の時期でした。船の宴会っていうのも昔は結構あったんです。船が入ってきて「お疲れ様」っていう宴会もするんですけど、出航のための宴会もあったりして、けっこう賑やかでしたねぇ。高知の方からカツオを取りに来ている船の方たちが、月に1回水揚げをするので何日か泊まって。陸にいるときは宴会をやってっていう、すごい賑やかしい時があったんです。でまぁ、100番で、昔は電話100番ってかけると市外通話申し込めたんですね。例えば石巻の何番につないで下さい、こちらは何番ですってお願いして切ると、また電話がかかってきて、相手がつながりましたって言われるんです。で、相手の方と話をして電話を切ると、いくらでしたってくるわけですよ。だから例えば高知辺りから船で来ると、ずーっと何日も何日も家族と会えない、今みたいに携帯無いから連絡も取れない。だから漁師さんたちがみんな、宴会の途中に電話貸してくださいって交代で、100番通話で家に電話をかけたり、そういうことがあったりとか。だから昔は賑やかだった。
住吉公園って石巻の街の名前の語源になった、巻石っていうものがある公園があるんですね。源義経が平泉に逃れるときに、その公園のところから船に乗って逃げたっていわれているんです。「袖の渡り」って言うところ。その時に船賃がなくて、自分の着ていたものの小袖をちぎって船賃の代わりに渡したと言われているところです。その辺りっていうのは浮島があって、太鼓橋がかかっていて、干潮のときだと水が引いて川底に降りていけたんですね。そこでとうもろこしに糸をつけて蟹をとったりとか、住吉の神社の裏っ側から登る細い階段があって、その階段から崖の方へ降りて行って…で、やっているのは草花取ってままごとだったりはするんですけど、そんな遊びをしていました。あとは渡し船があったんで、渡し船で港の川向かいの駄菓子屋さんに遊びに行ったりしていましたね。昔はね、北上川沿いに魚市場があったので、そこに着くような渡し船があったんですよ。ちょうど中瀬の、一番河口側をかすめて通っていくような舟があったんです。ほんとは子供だけで乗ったらいけなかったんですけど。でもね、昔スーパーボールが流行って、大きいスーパーボールを買いにね、こっそり行ったりしていました。よそのうちの塀の上走ったりとか、同級生がすぐ裏にいるので屋根伝いに遊びに来ていたりとか、けっこう色んな遊びをしていました。
40年代の終わり頃からかな、住みやすい白いビル型の店舗が増えてきて、昔ながらの風情のある街並みではなくなってしまったって言う方もいらっしゃるんですね。同じような作りの建物がずらっと並んでしまった、そういう評価もあるんですけど。その前はほんとに果物屋さんが軒先でゆでたての枝豆やとうもろこしを売っていたりとか、自転車の修理をしているお店があったりですとか、本屋さんがあったりしていましたけどね。
地元を離れて
地元を離れて仙台の大学に行ったんですね。高校時代は田舎がいやだったんです。ここにいると、どこで何をしているっていうのがすぐにばれたりとか、うちは店をやってるからどこの人ってすぐみんなにわかられたりするのが自分としてはイヤで。仙台に行ってすっきりって思ってたんです。学生しながら一人暮らしをして、学費と家賃負担はしてもらってたけど、あとはアルバイトをしながら生活費を捻出するっていう生活をしていて。
私は仙台で働きたいと思ってたんです。そしたら仙台に新しく営業所を作るって会社があったから、そこに入って事務仕事したり、コンピューターのインストラクターをしたり、あと電話もすごく厳しく研修させられて。本社が東京だったので、時おりその本社研修だとか、あと民間研修っていって、いろんな会社の方と一緒に勉強させてもらったりもしました。当時としては、女性だからこれだけという枠組みはなく働かせていただいたので、非常に仕事としては、やりがいがありましたね。結局12年くらいはそこで働いてました。で、ちょうど父が体調崩したこともあって、実家に戻らないといけなくなったんです。それがきっかけで会社を辞めて、その時にはおうちを継ごうと思って石巻に帰ってきました。
石巻での街づくり
18年前の4月に石巻に戻ってきて、家族と一緒に働くようになったんです。でも十何年も地元を空けていて友達が少ないので、父親が若いころに所属していた青年会議所に入るように勧められたんです。一応そこに籍をおいて、いろいろ街づくりなんかに関わるようになったんですね。そこで組織を学んだり、街づくりだとか青少年育成だとか、あとはお世話的なことや環境問題だとか、それぞれが専門的なことを学ぶんですね。トップも含めて一年で役職が代わるんです。いろんな立場を1年かけて勉強をする。そうしていくうちにお友達だとか知り合いだとかが増えてきて。
そんな時に石巻で「マンガランド構想」っていう話が突然でてきたんです。最初は「マンガランド構想」とは何ぞやということで、当時の市長さんの話を聞いたり、計画を聞いたりしました。そうしたら漫画って伝えるコンテンツとしては非常に優れているし、やっぱり日本の独特の文化なんですよね。それに例えば、食べ物好きな人は1つの購買層になるけども、漫画好きな人も1つの購買層になるとすれば、それは拡大の余地があるってことになって。だから漫画家の先生たちの知恵を借りながら街を作っていこうって市長がいうなら、応援しましょうっていう、そういう活動をずっとしていたわけですね。そして、萬画館ができて、一応目標達成と。
当時は、半分の人たちは…7割ぐらいは漫画を使った街おこしに反対でした。何でいきなり漫画なの?って。半分以上の人は反対というか、理解できなかった…みんな何それみたいな状態だったところを、プロデューサーの方と一緒にあっちゃこっちゃ歩って、いろんなところで話をして。漫画にはこういう可能性がありますよ、新幹線はいまさら石巻には通せないけども、漫画を使うことで発信をしていけるんですよ、それも地元の魅力になりますよと。あの萬画館はそうして作り上げたんですね。その時に一緒に活動した仲間っていうのはやっぱり非常に強い信頼関係がありまして、安心して話ができる仲間っていうのがその活動を通じてできましたね。
八幡家の特徴
ここは和食をやってます。和食とウナギ。ただ私が何を悩んでいたかっていうと、石巻には居酒屋さんがいっぱいできてきて、お客さんが安い方に流れる…安い宴会に流れたりするんですよ。やっぱり私たちの仕事って、大手の資本のしっかりしたチェーン店みたいにはいかなくって、それなりに手もかかるし人手もかかったりして、価格帯がすこし高いと思う。そういうのでどんどん景気が冷え込んできていた時期なので、やっぱりそういう悩みもあったりします。
あとうちは完全に和食なんですけど、最近創作料理っていうのがここ何年かすごく流行ってるじゃないですか。その創作料理と和食の境目みたいなものが非常にあやふやになってきたときに、じゃあ料理とはこれでいいのかっていうことにすごく悩んだんですね。例えば日本料理食べに来て、ステーキでいいのか、とかね。でも普通にステーキ出したりローストビーフ出したりする和食屋さんあるじゃないですか。和風ハンバーグとか。でも、じゃあそれでいいのかと。お客様が喜べばそれでいいのか、お客様が喜べばそれでいいのかもしれない。でも、何か少し間違ってないかと、そういうことを考えたりしました。
例えば、「お食い初め」って子供が初めて食事をするおめでたい行事があるんだけど、生まれて100日目位に、食べる真似事をさせるのね。タイのおかしらをつけて子供のお膳を用意するんですけど、その時に、この辺の風習で小石を1つとって、小石も食べさせる真似をするのね。お食い染めをすることによって、食べ物に困らないようにっていう思いもあるし、もうひとつ、小石を口元まで運ぶことによって丈夫な歯が生えてきますようにっていう思いとか、そういった行事の中には色んな意味合いがあるんです。あと家を建てる時に上棟式があると、おうちによっては来てくださった方に、お料理の折りをお出しするんだけれども、そういうお料理の折りの中には焼き物を入れちゃいけないって言われてるのね。焼くっていうのは火事に通じるから、そういうおめでたい席では入れちゃいけないっていうのは、正直私も知らなかった。この世界で勉強して、父親からも指摘されて初めてあぁ焼き物はだめなんだっていうのがわかった。あえてそういう風習とか、そういう伝統みたいなことを伝えるのも私たちの役目なんじゃないのかな、と思ったりしたわけですよ。だからうちは私に子供がいなくって、お店もこの後どうするかまだ決めていませんけど、ただ小さくしていくんでもしぼむんでも、そういう役割をする店の残り方でもいいのかなぁって思ったりしていますね。料理をすごい安売りすることはできないけども、「心を込めて」という。そのお客様のために、お席も全部オーダーメイドなんだよっていうね。居酒屋さんっていうのはけっこうどこに行っても同じものが同じ味で食べられる。だからうちみたいな店は、そのお客様に合わせて、料理も考えて、器も考えて、っていう風にやっていくんだろうなぁっていうところまでやっと考えていたところでした。
震災当日
その時は自分の部屋で休んでいました。そしたら…地震。地震になったらまず逃げ道、戸を開けるって思っていたんですけど、転んじゃって扉まで行けなかったの。もう歩けないくらいひどい揺れで、まだ続くのかなぁっていうくらい長く揺れていて。作り付けの本箱からね、本はほとんど落ちてた。部屋の外に出てみたらもう冷蔵庫ひっくり返っているわ、洗濯機ひっくり返っているわで、そこを乗り越えて。もう、飛んだものは反対側のガラスの扉全部ぐしゃぐしゃに割っているし、でもとりあえず外に出て、出てみたら瓦は落ちてるし、近所の人はみんな外に出てるし、母親も外に出てるし。とりあえず表に出て、車のエンジンかけて車のラジオを聴いて、そうしたら津波来るよと。どうしよう、逃げる逃げないどうしよう。とりあえず従業員さんはうちに帰った後だったので、従業員さんたちはみんな家族といるんですけど、1人だけ気仙沼からこっちに来ていて、家族が地元に1人もいない人がいるんですよ。その人のうちがうんと川に近いところだったので、その人を連れてこようということになって。迎えに行ったらちょうどその人が家出てくるところだったので、ここまで連れてきて。向かいのママさんとかにも声掛けて逃げようってことになって。一回部屋に戻って靴とかコートとかとりあえず手当たりしだい取れるものは取って、ろうそくも探したりして、そうして表に立ったらもう水がきてたの。表の通りから川の方見たときに、水の勢いが強くて壁になってた。こっちに向かってきてないんですよ、水。水の壁が立っていたって感じだったのね。だからもう水来てるから2階に上がろうって言って、みんなでこの店の2階に上がった。それから一拍おいてかな、もうくるかねっていったら真っ黒い水が、だぁーって波みたいになって、1回目はひざぐらいの水がだぁーって流れてきたんです。家の中にも水が入ってきて、1mくらいにはなったのかな。水かさが上がってきたら大きなテレビとか、椅子とか色んなものがどんどん流れてきた。うちの車も流されて。どんどん水かさが上がるのでどうしようって思った。屋根に上がらなくちゃいけないかなって思ったんで、屋根に上がる方法を探して。でもそしたらギリギリ、1階の屋根のあたりで水が止まったので、屋根まではかろうじて上がらなくてすんだんです。
みんなにね、悲しかったでしょうとか怖かったでしょうとか言われるんですけど、そういうときって悲しくも怖くもなくて、次何をする、次どうしようってことばっかり考えてるんです。暗くならないうちにろうそく探せとか。あと、うちは2階座敷なので、座布団とテーブルクロスはあるので、座布団を並べてそれこそ座布団とかクロスかぶってその晩は一晩横になって過ごしました。朝ぐらいになってようやく水は引いてきたかな。うちの2階にね、鍋をするお客さんのためにカセットコンロと、あと使いかけのボンベがあったからお湯は沸かせたの。水もお客様用のミネラルウォーターが何本かあって、あとウーロン茶とジュース。ウーロン茶と水を半々にして、ウーロン茶を使って水は残すようにしてっていう感じ。で、2日目3日目くらいまでそうやって過ごしました。
震災後のコミュニティ
3日目くらいに近所の人と話していて、やっぱり情報交換をしないとだめだよねってことになったので、1日1回、そこの道端に毎朝8時にみんな集まって、自宅避難している人で情報交換をすることになったんです。初めは10人いたのかな。最初はただ話をしていて、そしたらやっぱり知恵のある大人がどこかから聞いてきたのか、きちんと名簿をまとめて役所に持っていくと、水とかそういうものがもらえるっていう話で。だから誰が何人いますっていう名簿を作って市役所まで届けて、それが5日目だったかな。支援物資や給水車のお願いをしたりしましたね。
段々と集まる人数も増えてきて、最終的には50世帯ぐらいになった。だから10世帯を1チームにして、当番制で3日間ずつ食事の配給をやることにしたんです。毎朝今日の当番は何班ですから、時間は何時から、当番の人はその前にちゃんと数をあたって名簿を作ってくださいっていうのをずーっとやってた。必要なものは役所に言って、物資をもらったりですね。
あと、いろんな支援物資がきたんですけど、大事なのは平等に分けること。平等にわけるってことをずっとしていて。でも物資については5月いっぱいで打ち切ったんです。っていうのは、まだ欲しいと言えばもらえたのかもしれないんだけれども、もう店がぽつぽつと開いてきてる。それと買いに行こうと思えば、もう物はある程度手に入るという時期に差しかかっていましたし、それにこれまでいただいた物資もあると。必要なものはそこからでも、全員じゃなければ補給できるっていう風になってきたので。何回も皆さんに大丈夫ですか、必要なものありますか、っていう話をしながら、じゃあ物資は5月いっぱいで打ち切りますよ、いいですかいいですかって言って打ち切ったの。
食料については、ライフラインが全部整ったら終わりますよ、終わりますよって皆さんに言ってて、これで終わりますよって6月の末に食料も切ったの。朝方のミーティングも終わろうかって言ったんですけど、やっぱりまだやってて…今もやってます。今は週に1回になったんですけど、それでも今もやってます。今は街づくりとか、勉強会とかそういうものが多いので、そういった情報をみなさんに流すっていうかたちでやっています。
今後の石巻
この辺は建物が残っていたりするので、できればここに住みたいって思っていらっしゃる方も結構いますね。それだけに、どう街を直していくかっていうのが難しくて、ただ再開発ビルをこの人口16万の都市に5つも6つも、どれだけ建てても結局は空っぽの箱を大量生産するだけですから。やっぱり作り方ってその街によって違うと思うんです。神戸とかの時とは違う街にしなくちゃいけないし。今私たちのグループで考えているのは、このエリアを小規模の共同建て替えって言って、3、4軒が1グループで建て替えていって、そのまま残したい家なんかは修繕で残してもらってけっこうですよと。ただ防災とかそういうことはきちっと視野に入れて街を作っていきましょうっていう考え方なんです。
それで今までずっと勉強会をしてきたんですけど、勉強会だとあんまり人が集まらないの。だから今度は「街歩き会」を来週することにしたんですね。街歩き。どこが壊れてどこが危なくてとか、誰がどこに住んでいるんだとか、そういったものを確認しながら自分の街を歩くの。歩ったあとにはお茶飲みながら、私ここに1人で住んでるんだとか言えば、じゃあ何かあった時にはうちに電話くださいよ、私も1人でいるからとか。そういうつながりをきちっと作っておくと、また何かあった時、一足飛びに避難所まで行くんではなくて、一度どこかに集まれたり、お互いに連絡が取れたりとか、じゃあ一緒に逃げましょうとか。そういうこともご近所同士でやっていけたらいいなぁと思って。だからとりあえず今回は街歩きをすると。お茶を飲むと。その中で不安なこととか、いろんなこと話していけたらいいなぁと思って。で勉強会はまた別な方向で、「勉強会」という意識持ってやる人たちに、専門家の手を借りながら一方ではやっていくという風に、これからしていこうかなぁと勝手に思ってるんですけど(笑)。私が思ってるだけではどうにもならないんだけど、一応やろうと思ってるんです。
今年は、1か月出荷を遅らせて10月30日から牡蠣がスタートしました。いつもは10月1日からなんですけど、10月30日から出荷が始まって、量もいつもの年ほどは多くないんですけど、一応採れているみたいです。今ちょうど魚貝を使った石巻の復興のためのどんぶりっていうのを企画していて、たぶん11月23日にデビューするはずです。
被災後に復興Tシャツも作ったんです。商店街の仲間9人で「リバイバル石巻プロジェクト」っていうグループを作って。被災後の話なんですが、結局行政は何もしてくれない。けど義援金がこないの少ないのって騒いでてもしょうがないので、自分たちでお金出して何かしようって、これを買ってもらうと私たちが助かりますっていうことで買ってもらおうということで、始めたのがこのTシャツです。「石巻ZENKAI商店街」っていう文字が入っているんですけど、ZENKAIはローマ字で、いろんな意味がこもってるんです。1つには、全壊指定なんですよ、このエリア。だから石巻全壊商店街っていう意味もあるんだけど、ま、全快。フルスロットルで快方に向かいますよっていう意味を強く込めてるんです。一応ホームページもあるので、見てやってください。