水産の道で活躍したい
私は茨城県の水戸市出身の須能邦雄(すのうくにお)です。生まれは昭和18年6月12日で今68歳です。
父が師範学校の先生をやっており、兄弟や身内にも先生になってる人が多く、私自身は子供のころから先生になりたいなあって当たり前に思っていたんです。子ども好きだし、教えることも好きなんで、先生には向いていると思っていたんですけど、一番上の兄が教職員組合の役員をやってて、教員内のいざこざを見てて、私が純粋なだけに、そういう世界には入るなと。それで先生じゃない社会に進めと言っていたわけ。私は勉強より人間関係が好きで。そういうときに、たまたま友達のお兄さんが日本水産で南氷洋に捕鯨に行ってきた話を聞いてね、初めて水産っていう世界を身近に感じたわけ。そのころのニュースといえば、テレビがない時代ですから毎週映画館でニュースをやるわけね。そのときに、日本とソ連の日ソ漁業交渉って政府間交渉が100日続くんだけども、そのときの様子を見ていて、そこに漁業者の代表も行きますよと聞いて、勉強好きでなくても、そういう格好いい場所に参加できるんじゃないかと思ったの。それと、水産に行けば、世界を回ってこれるだろうと。そういったことから、水産の道に関心を示し、結果的に東京水産大学、今の東京海洋大学に進学したの。
そういうような感じで水産の世界に入り、高校のとき始めた相撲を大学でもしていたの。そこで、大学のOB会があって、そこに大手の水産会社の役員さんがいて、学生のころからOBの人と親しくしていたから、会社が別でもね、わりかし新入社員の時から気軽にそういう自分の会社の役員とも他社の役員とも気軽にしゃべれていたわけです。
会社に入り、語学を覚えるためには駐在したいと思ってNHKのラジオの英会話とか、会社でお金出してくれる英会話なんかにも行ってたのね。たまたまそのときに、200海里っていう、世界が海を分割するような話になっていて、そういう状況の中でね、水産の現場からも、シアトルの駐在を出すっていう話になったわけ。シアトルでは、会社の上司とも会うけれども、政府の人たちとか、業界の人たちが来るときのお世話役もしたの。だから、アメリカの漁業者の人とも親しくなった。いい意味の仕事を2年間してきたわけ。そのときに私はお世話役だから皆さんと対等に付き合ってきた。それがこの石巻に帰ってきてからいろいろな会議にも出ることになって、そういう人と自由にできるのが、ずうっと仕事につながってきている。
最初漁船に乗り、その後アメリカの駐在に行って、また帰ってきて北洋母船式サケマス漁業の船団長をやった。北洋船団がアメリカとソ連の200海里内で操業が認められなくなってしまったんで、終わってしまった。それで志願してサハリンってところの会社の副社長として3年間駐在したわけ。そして日本に帰ってきたら日本の大洋漁業というのは貿易や食品加工の会社になっていて、私の経験が生かせる場所はなくなってた。そしたら、たまたま石巻の魚市場の社長がふるさとに帰ってきていて、一緒に手伝ってくれないかって言ってきた。私はちょうど50歳のときだったので、マルハをやめて石巻に来たわけ。
下関に集まって
もともと私は大洋漁業に入って、3,000トンのトロール船(大型底引網船)というスケソウダラを獲る船に8ヶ月間乗船して操業していたの。ところが私自身はもともとサケマスの母船に行きたかった。そうしたら、人事部長が自分が北洋希望だっていうことを知っていて、トロール船から応援が必要だっていうときに、連絡をくれて、それでサケマスに来た。
5年間調査船に乗って、魚を獲る現場を踏みながら、その間に大型船の手伝いもして、いろいろ経験も積んだ。サケマスは5月の半ばから7月の半ばまでで終わりだから、それ以外は準備期間。あとけっこう社内に居るもんだから、会議とかにも行くわけよ。そういう中で人との付き合いを得た。
北洋漁業
大洋漁業が1万トンの母船を持っていて、地方の船主さんが独航船っていう漁獲する船をもっていくわけ。母船って言うのは漁獲物を水揚げ加工する工場で、荷物を積む仲積船と燃料を持ってくるタンカー船で編成されている。昔は鯨なんかの油をこのタンカーが持ち帰るわけ。鯨については日本は肉も食べるけれども、外国は油をとることが目的だった。わたしらのサケマスは魚を獲って、これで缶詰作っていた。その缶詰はイギリスだとかに輸出して、魚の身は冷凍したり、塩鮭にして持ってくるわけ。
独航船は1船団に43隻いる。その中に4隻、調査をしながら獲る調査船がいるの。残りの39隻は毎日朝帰ってきて、獲った魚を母船にあげて、また走っていって、夕方網いれて、朝揚げて、獲ったら母船に持ち帰る。調査船っていうのは2週間くらいあちこちへ行って、その日の漁場を決めるため獲れる場所を調べるの。私は5年間独航船の人だったから、私が母船に勤務が移ったときは、仲間が母船に行ったようなもんで、船団長になったときは、みんなが応援してくれたの。
スポークスマンとしての宿命
石巻に来たときは、日本の漁業は地方の時代だと思った。もう東京でやる事業ではない。ちょうど石巻は東京との日帰りもできるし、いろいろな面で地方から中央にものが発信できる。それで、自分が体験してきた魚を獲ったり、アメリカやロシアの駐在だとかいう経験が地方の漁業を通して貢献できるだろう、ということで石巻の市場に来て何年か常務、専務を経てから10年前に社長になって、今に至るわけ。
それで、たまたま今回の震災に遭ったんだけれど。宿命を感じるのは200海里で日本がアメリカから追い出されるときに私はシアトルに、それから北洋漁業終わるときも私が最後の船団長でマスコミの中心にいたわけ。それで日本は地方の時代といわれる時代に石巻に来て、石巻が今後どういうふうに地方の発展があるべきかっていうようなことのスポークスマンの役割を担ったと。そんで今回の大震災で三陸がどう復活するのか、それに対するマスコミへのスポークスマン役をやるべくして生きていたというふうに思えたわけ。
市民も加わった水産復興会議を
ただ、あまりにも被害が大きすぎて、記憶が喪失するような気がする。私は家もあって車もあって、家族も心配なくて。会社はなくなったけれども、他の経営トップは身内の問題もあるわけでしょ。それに忙殺されたら思考能力が止まってしまって、仕事のことなんて考えられないだろうなと思って。でも、国は金は出すけれども、最終的には当事者にどうしてほしいんですかと聞いてくる。我々はどうしてほしいんだなんて考えられない。そういうのをNHKの深夜放送で聞いていて、私自身は冷静な立場にいるんだから、論点整理をする立場にいるなと。そのためには記憶をしっかりしないといけないなと思って、3月11日の朝からの行動を丹念に記録に取るようにしたの。どういう問題がある、そしてどうするべきか。というようなことで、自分でいろいろと計画して、3月24日に市役所で共同記者会見を企画して、「石巻は水産を復興します」という復活宣言を力強く、全マスコミを呼んでやったわけ。それで3月30日に、業界のみんなに、口コミで声かけて第1回の水産復興会議を立ち上げたの。会社の経営上の諸問題は阪神大震災で同じことやってんだから、神戸市の商工会議所のものを調べてもらって、それを経営者のみんなに勧めると。それから私のほうは、早く魚を水揚げして復興するためには、どういうような問題があるのか、水揚げの問題、それから出荷するための問題、そういうもの全部整理してみんなに投げかけて、そういうものを定期的に検討して進めましょうということで、水産復興会議を行っている。これを社長クラスだけではなく、一般市民にも伝えないといけないから、マスコミにもオープンにして、必ず会議の最後には次回はいつどこでやりますよと伝える。
市場としての役割
市場の仕事というのは、全国で獲ってきた魚を市場に上げて、ばらばらにあるものを商品化するようにサイズや品質別に分けたりして、それを荷主の代理として売ってあげて、それを買った人は持って帰って箱詰めしたり、自分の工場で使ったり、いろいろするわけ。漁師が持ってきたものを品質で一級品だ二級品だって決めるのは市場の責任においてやるわけ。トラック単位で5トンとか10トンとか売る場合もある。その間に品質に文句があがった場合は立ち会ってそれが納得する値段に船側と調整することもするの。船で持ってくるものもあれば他の港であげたものをトラックで運んでくるものもある。昔はスケソウは輸入品で商社経由で買うから仲介もしたけれど、海外相手でかなりリスキーだから今はしていない。「金華シリーズ」(金崋山沖で獲れる魚介類のブランド)を考えたりするのは私。私は業界を盛り上げるのが仕事だから、石巻市の水産振興協議会の副会長や水産復興会の副代表もしつつ、そういうこともプロモートする。そういうマスコミに対する仕事だったりとか、船に乗ってる人たちと一緒にブランド委員会をつくって、無償で食べさせるキャンペーンを開いたりもする。
第二の人生を石巻に捧げる
私は石巻に来たときからココで第二の人生をという覚悟で来ているから、そのためには水産をみんなに理解してもらい、みんなに味方になってもらいたい。そのためには町の仲間と自分から仲間にならなければならない。だから私は様々な委員に、頼まれればなって、そして水産のことを少しでも分かってもらって協力してもらうようにしている。学校で親子の調理教室をやるならば、石巻市場は食品を無償で提供するし、私も講師をしに行くし、魚の勉強もさせる。というふうに出前授業もやって、少しでも理解してもらう機会をつくるのが、私の仕事だと思っているから。だから、「なんて出しゃばりで何でもかんでもするんだろう」って見られるけど。結局、一般の人は自分の領域のことだけしっかりやればいいと思っている。実際には周りの人の協力がなければ、仲間内だけでやったって波及効果ないわけ。と私はそう信じているから、人になんていわれようと寝る以外はそれをやる。
根底では農、林、水産、畜産業という一次産業は自然産業なんだと思っている。自然を相手に自然の素材を生かす作業だから。他のもののように経済至上主義にはあわないと。なぜならば自然産業は日本の自然を再生したり、国土保全をしている産業。そういう付加価値を持つので、単なる利益追求型ではなくて、自然の浄化や、保全という価値観を認めなければ成り立たない。日本の中心市街地でない、北海道から九州までの僻地を維持するためには農業とか水産とか林業とか畜産しかないんだから。我々は地域の人たちとコミュニティを維持して、共通の喜びがあるからやってんだから。そういうのを維持するために、私は自然産業の大事さを水産を手立てに皆さんに分かってもらおうとしている。魚を食べてもらうことは身体にいいことであり、それが国の産業の育成につながるんだよって。
だから「同情と食物(しょくもつ)選ぶ別心」って句をつくった。要するに、同情する気持ちはみんなあるわね。ところが、福島のものは買わないっていう。簡単に同情するけど、ほんとに同情したら行動に現せばいろいろ買わねば。だからそれは別心だよって。それから、「感情と理性は別と恨まない」。あの人私たちに支援するといいながら買ってくれないじゃない。そういうことに腹立てててはつまらんから。そういうものは恨んでしまうと心が荒ぶでしょ。こっちの人はすごく我慢強いよ。
相撲甚句に想いをこめて
私は学生時代から相撲やっていて、相撲甚句を歌うわけね。前は決まっていたものを歌っていたんだけれども、ある段階から作詞して歌うようになったわけ。表彰を受けた人に祝いで作って歌ってやったり。その場にあったもの作って歌う。水産会社の関係で県内だったら、各市場の特徴を入れるとか、水産全体だったならば、1月から12月までの魚を入れて歌うとか。福祉のとこ行っても、福祉の連中にも魚の話を含めながらやる。そういう風に、福祉と魚が縁がないのではなくて、少しでも魚の話とか魚の感じを話してみると初めて魚について分かるわけよ。そうすると、初めて魚の話に広がりができるでしょ。そういったことをするのが身にしみついている。
今回は「がんばろう石巻」という歌を4月13日に作ったの。3.11の教訓と、震災で亡くなった人の想いを受けて、新たな社会を再構築しようって内容で、「心を一つに結集し、復興目指して進みます」って歌った。
石巻市場の再開
うちの会社の社員は45名くらいいて、年代はばらばら。新入社員が3人いて、定年間際の人もいる。震災受けて、全員解雇せざるをえない会社が多い。私は石巻市場が水産復興の中心だから、まずそこの雇用を守って、彼らの家族を守ることから始めないと、と思ってる。震災の痛手が大きすぎて、7月の12日に初めてわずかだけれど水揚げができるようになった。それまで石巻の市場というのは1日平均で400トンから500トン、全国でも第3位の水揚げをする場所でしたが、再開した当時は1日に3トンとか、0.5パーセントにも満たないような数字で、8月の半ばくらいになってきて、やっと10トンとか15トンとか。9月2日からは底引き網も再開されて、受け入れの工場も少しずつ再開してきたので、今度は100トンくらい水揚げができるようになる。だから徐々に復旧の状況ができてくる。そのためにはみんなに働きかけて、みんなでがんばろうというムードを高める努力をしている。
一番最初に復興した漁は主にね、釣りイカ漁。釣ったイカを箱詰めして保冷しているから、加工せずにそのまま日本のどこにでも出荷できる。9月に入ると、やっと冷凍工場ができてくる。今回はトラックの大部分が沈められたり流されたりしているから、配達の処理能力も小さい。
石巻に集まっていたのは全国から来ていた船。震災の当日、石巻の10トン以上の大きな船は操業していたの。小さい船はちょうど休みだったから、全部そのまま陸に上がったり、引き波のときに引っ張られて流されてしまった。
復興への後押しをする
再建している会社があるけれども、まだ再建していないところも多い。大きなお金を借りてまでやって、商売として成り立つかという不安があって様子見る人もいるし、いろいろ。小さいところはリスクをなるべくかけないように、共同で土地を借りて立ち上げる方法もあると思う。私は迷っている人が一歩踏み出すようにエールを送ってあげて、心の後押しをしてあげる。実際に会議のときは国からの補助事業を持ってきたり、政府の人に要望を出したりしている。あるいは市場で持っている資材を貸してやって物心両面で支える。あきらめないで続けるということをみんなでどう持続させられるかを考えている。そのときに他港とは比較しない。昨日より今日、今日より明日というように自分の周辺でがんばればいいんだから。
人間の知恵っていうのは限りがないの。その知恵を出すためには知識が必要。各分野からの知恵を出し合って刺激しあう。日本人の常識は、生が一番高級で、それが現実。ところが、一本100円の大根、一握り10円の大根が、おいしい風呂吹き大根で、おいしい水を使えば高級料理になって、一本1,000円になる。ちゃんとした材料持ってきて、ちゃんとした作り方する。そういう風にポジティブに考えればできることがある。私はそれをずっと考え続ける。
私は言い続ける
「天災は忘れたころにやってくる」というけれども、「天災は恐れていてもやってきた」というわけよ。われらは怠慢していたわけではない。ただ、誰も津波については無知だったのよ。津波っていうのはないと思ったわけ。痛みを忘れるから人間は強いんだけれども、自分が痛みを感じないと、頭の中でそれは大変だと考えても、それはイコール痛みではないから感じないの。自分の痛みを過去に経験していなければ、想像できないでしょ。だから、震災についても経験して分かった人が言わないと、想像の世界では分からないのよ。
「気の持ちよう、禍福の縄が命綱」って。要するに物は考え方で、復興はそれが結果的に大事だって気がつくようなもの。絆だとか、健康であったことが大事だとか、そういう「日常では気がつかないこと」に気がつかなければ、それを喜びとしなければ、不幸が不幸になっちゃうじゃん。「太陽と友の力で復興だ」って言うのは、太陽は明るさでしょ、それから同胞って言う、日本人や仲間が支援してくれることがわれわれの復興の源じゃん。恨んだ気持ちを言っていたのではネガティブで前に進まない。いかにそれを切り替えていくかということよ。ただ、事実は事実だから。「天命で生かされたのだ。やり抜こう」って言うのが俺の決意よ。生かされたのよ。
実は従業員が車の中で亡くなって、その遺体が置いてある安置所に見に行った。そうしたら、身元不明の写真が貼ってあった。その中に若い女性が目を爛々と光らせて「私は生きていたい」という強い思いを叫んでいるわけよ。そういう人たちの想いを我々は代わって生きているんだから。だからわれわれが彼らの思いを受けてやらないといけない。そう思えば、愚痴なんか言っている場合ではない。本気で先頭に立たないといけないと、本気で覚悟を決めた。それと同時に、私はすべてのみんなの不満を聞く役になるんだと。全部の不満は聞き入れて、まずは前向きにやらないと。人間って、覚悟決まると決まるものなのよ。必ず、いつまでになるかは分からないけれども、復興するという信念を持って、それを言い続けてやり続ければ、必ず成り立つと。岩窟王ではないけれども、私は言い続ける。