日本人は強い

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漁師さんたちはね、石巻の方の仮設さ入っても、浜さ来てるみたい。…だぁから大丈夫。立ち上がるね、浜の方は。
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Tokyo Foudation
Geolocation
38.4344802, 141.3029167
Location(text)
宮城県石巻市
Latitude
38.4344802
Longitude
141.3029167
Location
38.4344802,141.3029167
Media Creator Username
Interviewee: 堀川義雄さん・啓子さん, Interviewer: 山代真希
Language
Japanese
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Japanese Title
日本人は強い
Japanese Description
漁師さんたちはね、石巻の方の仮設さ入っても、浜さ来てるみたい。…だぁから大丈夫。立ち上がるね、浜の方は。

雄勝生まれの雄勝育ち

堀川義雄(ほりかわよしお)。昭和3年生まれ。兄弟はぁ7人かな。私は3番目。両親は炭焼きしてたな。炭焼きってあの燃料の炭だな。戦争から帰った後は、私は山仕事をしてた。林業ね。

堀川啓子(けいこ)と申します。私たち2人ともここの生まれ。もう長いですよ。私は昭和8年のね、三陸津波の年に生まれてるの。3月に津波があって、4月に生まれてるの。だから津波生まれ。29年に(義雄さんと)一緒になって、子供は2人いっけど、1人は石巻、もう1人は施設さ入ってる。体に重度の障害があるからね。

昭和の三陸津波

(啓子さん)昭和の三陸津波さ来た時はね、私のうちは雄勝の下の方にあったの。小学校近くでね、もうすっかり流されて。父親もここの生まれだったんで、上の、原地区に上がってきて、間借りして暮らしてね。そのままずぅーっとここで暮らしてる。大変だったの。津波が来るとなんにもなくなるからね。うちは何にもなくなった。そういう話をね、私たちは父親から聞いてたんだけっども。明治の津波の話もね、私のおっぴさん、おっぴさんって私のおばさんね、おっぴさんが話してたのちょこっと聞いたことあんの。けど私たち小さかったからそんなの聞いたってわかんなくて、耳さ入んなかった。今は聞いておけばよかったぁって思うよ。まさかまた津波が来るとはねぇ。

東日本大震災当日

(義雄さん、啓子さん)地震の時はね、温泉さ行ってたの。そこに地震来て、もーびっくりしてね。次の日タクシーで帰ってきたの。したらね、もうこっちは雄勝の人は行くことができませんって言われて。で、ビックバンっていう飯野川にある避難所さ避難しろて言われてね。飯野川は大丈夫だったからって。またそこさタクシーで戻って、2泊したの。そこは雄勝の人たち一杯でね。出稼ぎに出ててストップされた人ね、あとうち流された人もいて、色々だったんでない。

消えた雄勝の町

(義雄さん、啓子さん)津波終わって3日、4日くらいしてね、ようやく道通れるようになって雄勝の町さ行ってみたら、ほんっとになんっにもないんだもん。胸痛くなるってあれだね。私が生まれた昭和8年の津波から、78年かかって築かったものなの、あの町ね。それがね、すっかりなくなったんだもの。だからいかに大きな津波だかってのがね。川辺とか、山岸とかにゴミがいっぱいついてんの。そこまで水が上がったってことは、よほどの高台が海になったんだって想像したら、ぞっとしました。雄勝はね、ありとあらゆる施設が海辺なのね。だから公民館から、病院から役場から、ありとあらゆるものが波に呑まれて。

私たちのうちは残ったけど、でもここで生活するのはどうなのかなぁ。髪だって、美容師さんがいないとできねぇっちゃ。いちいち石巻の方さ行かれないもの。やっぱりそういうところがないと。銀行も一応前はあったからね。郵便局、銀行、まぁ庁舎は今、仮庁舎あっけど。復興しないと困んだよね。何にもないってことはこんなにも不自由かと思うよ。

年取った人たちにはひどいのね。老人の暮らしはひどいです。何にもないからねぇ。だから床屋さんに、車でいちいちここさ来てもらうっていうのが今あるってんだよね。そういうのに1か月に1回とか2か月に1回とか来てもらうとね、助かるんだけどもね。失ってみて初めて有難みね、この小さい町でもどれだけね、その町に潤されてきたかっていうの、初めてなんだかわかったみたい。

だから何人でもいいから雄勝さ帰ってきてもらいたいと思うんだけど。雄勝の町の安全地帯はここらへんだからね。向こうは海でダメだからね。だからここにね、結構荒れ地とかあるんだけどさ、市でこういうとこ買い上げとかなんとかして、そして…まぁ市営住宅とかなんとか最初建ててもらって、そして雄勝の町さ帰れる人は帰ってきてもらってねぇ。最初そこから出発しなければ復興できないんじゃないかなって思う。

地震直後の避難所

(義雄さん、啓子さん)震災後はね、お米はあったの。ここの部落の人たちは、たいてい米は多めに持ってんだね。田んぼやってる人はね、うちのお父さんの実家なんかは30キロの袋3つも4つも避難所さ持っていって出したんでね、玄米をね。薪で玄米炊いて食べたみたいよ。ここは薪が多いから。外でどんどん火焚いてあたったりなんかしてね。釜だのなんだのは昔の家にはあるから、そういうの提供してもらって。あと鍋の大きいの持っていって味噌汁。味噌なんかは、ここの部落の人たちは自分たちで作ってるんです。だからお味噌とお米は大丈夫だったみたいですよ。

そのうちにほら、救援物資が来たから。あと避難所のところには水あんの。沢のね、飲める水あんの。だからやっぱり助かったんじゃねぇかね。水道は出なくても、ここの避難所は水大丈夫だったみたいですよ。私たちは家空けてたから、3日目か4日目にこのうちさ帰ってきたのかな。けどここの部落の人たちはずいぶん避難所さ、いるもの提供したり、味噌汁作って持っていったり、だいぶお世話したみたい。私たちも避難所行ってみたらね、ほんとに味噌でもなんでもちゃんとあるから。ネギとか野菜もね。お湯さわかして、そいで味噌入れて。ネギを刻んでね、で、ぱっと鍋ん中に入れて、味噌汁にしてね。みんな食べてたの。味噌汁おいしがすってみんな食べてた。確かにおいしかったよ。

東京大空襲

(義雄さん)私は戦争でね、群馬県の太田さ行ったの。昭和17年の4月。3年間そこの飛行機工場で働いてた。終戦の年に会社が疎開したんで、秋田に行ったんだけっど、その時上野から東京の空襲の跡さ見た。家は1軒もなくなってた…。空襲はB29、10日の爆撃で焼けたんだから、3月だな。日本で一番の焼野原。

だけどまぁ、当時は結局誰も助けてくれる人ないっちゃ。仮設建ててける人もねし、ほんっとの自分で掘立小屋っていうのから始まって、東京はああなったんだっていうこと。

今回のこの津波や災害も、あれよりはいんでねっかて私たち言ってんの。今の時代は何日間か食べ物が絶ったの、なんだのって、1日2日3日くらいはね、どうだってできます。車あるから、道路さえ通れば支援物資来て、お腹すかさねぇようにしていただいて。何か月間のうちにちゃんと仮設さ建ててだよ、ほっで今でもたまに救援物資来たりね、いろんな面から援助あるみたいですよ。そのあたりさ考えたら、戦争直後は誰も助けてける人なんてない。

戦争後の暮らし

(啓子さん)私は6年生で終戦だけっど、6年生たって今と違って働くこと、食べることをまずしなきゃいけねから。だからほんとにね、じゃがいも、かぼちゃ、さつまいも、おいしくねぇさつまいもね、いっぱい取れるもの、収穫のあるもの作って。開墾してね。当時、どこでもいいから開墾していいことになったの。そして耕したものは自分のものになったの。もうそこの土地さ自分のものになったの。そういう時代がちょこっとあったの。だからね、とんでもないところに自分の土地ができてね。荒れ地になってっとこや、よそのうち、どこでもいいから耕したんだよ。

そばもね、開墾して取ったりしたね。今はよくそばって食べるけど、私たちそば一番おいしくないと思ってる。結局ね、だしも悪いんだ。だから、なんていうの、すいとんみたいにして食べたって、おいしくないの。今ならこんぶだしとかいろいろあるけど、何にもないんだもん。

あと、雄勝では終戦直後は海から塩水汲んで、おっきな鉄板だのそういうので窯作って、で、塩水入れて、どんどんどんどん火焚いて煮詰めて塩にして生活の糧にしたの。でもこっちの原地区は海がないから、木を売るのね。ほんでこの人(義雄さん)なんかもずっと山仕事してた。林業。石巻にはほら、パルプの日本製紙あるから。頼まれて木伐ったりして。それで生活してたんだね。

昔の生活

(啓子さん)昔はほら、ここの生活っていうのは山仕事だとか、大きい土地いっぱい持ってる人は桑畑作って、養蚕やってたようなんですね。私の家は、昭和の三陸津波の後から来たから土地もそんなにないし、そんなことできなかった。周りの家は養蚕とかそういうのしてたけどね、私たちはお手伝いする方。忙しい時にね。1年に3回か4回くらいやったんじゃねぇ? 養蚕を。ここ部落小さいから、部落の人みんなで一緒にやったべね。

雄勝町最盛期 ~スレート~

(義雄さん、啓子さん)雄勝が一番賑やかだったのは、昭和5、6年くらいかなぁ。石山で、スレートがどんどん出てきた時が一番栄えてたんじゃねぇべか。

雄勝はね、昭和8年の津波でできた町なんだって。昭和の津波で流されて、ほんでまたここさ町作ったんだって。最初は何軒かしか家なかったんだけど、それがどうしてあんなに人がいっぱいになったかって思うとね、雄勝には職場があったわけ。それがあの石山、スレートね、屋根瓦のね。それがどんどん取れたの。東京駅にはここのスレート使われてるんだべ。

だからその石山の社長さん、こっちでは檀家っていうんだけっど、あげ奉られてね。木村さんていう人だったんだけっど、なかなか学のある人でね。「長屋」っていうのを明神地区に建てたんだけど、今でいう社宅だよ。木村さんのとこで働いてる人を入れてるわけ。私は最初長屋っていうのわかんねくって、学校さ入って遠足行くとき、遠足っつうのは昔は必ず歩くから、明神を通って行ったの。そしたらね、長屋2つも3つもあんの。長屋ってこういうのなんだぁって思ったよ。

それで、そこ株式会社なんだよね。だから明神で、石山で働いた人はね、ちゃんと厚生年金かかってるんだもん。あれはたまげたよ。当時は厚生年金なんて誰も考えてなかった。かなり優れた人だったのね。自分の金儲けの為だけじゃなくて、働く人のこともちゃんと考えてやってたんだね。だから明神っていうところはそっちこっちから人が集まったんだべね。あそこの部落はいろんな名字があんの。やっぱり働いてた人がそこさ住み着いたからだね。

雄勝町最盛期 ~漁業~

(義雄さん、啓子さん)漁業もあった。私たちの同級生はね、卒業したら男の人はだいたい船に乗ったね。ご飯炊きからさせられて。大型船なんだけどさ、雄勝の町と、水浜と、ずいぶん船あったんだよ。それさみんな乗って行って、漁ですね。でも雄勝には市場っつうのないから。だからほら女川とか石巻とか、そういうとこさ売りに行ってね。ほんでも船にも保険ていうのあったんだよね。年金。だから船乗った人は、今この年齢になったら私たちの同級生では一番安定してんの。まぁお金持ちの人は高校さ入って別だけっども、当時はほとんどの人が船さ乗ったの。

今はあんまり船なくなった。大型船つうの、なくなった。みんな倒産したんだね。今は1軒、1艘だけやってるんです。船持ってるのは7軒くらいあったのがね。

雄勝の復興

(義雄さん、啓子さん)けど雄勝は、浜から立ち上がるんでねぇべか。漁業から。お金のある人はあっち、石巻とかに土地買ってうち建ててる人もいますよね。漁業に関係のない人ね。けど漁業やって食べてた人たちは、やっぱり漁業さ復帰してっからね。今、浜で活気づいてきてんのはホタテの養殖。津波の前もやってたからね。漁師さんたちはね、石巻の方の仮設さ入っても、浜さ来てるみたい。ここに仮設のちょこっとしたもの建てて、作業場にしてね。ほいで漁してるの。やっぱり海の人は海で生活立てねばダメだって。水浜でホタテやってた人たちもね、全部流されたけど、またホタテやるって。うん、今もうやってるとこはやってんの。ワカメも11月からね、種付けするって。だぁから大丈夫。立ち上がるね、浜の方は。

雄勝は働く場所がねぇから、若い人たちはみんな石巻やら働きさ出はってるね。やっぱりあっちの方はいいみたいな話も聞くけっど、年寄りたちはやっぱり雄勝がいいんだと。ただここも石山は残ってっから。工場は津波で全部流されて、ないんだけっど、山は残ってっから。それで機械とかなんとか入れれば石さ採れるわけ。だから硯とか、そういうものは組合がもう再開してんの。少しずつだけどね。復興のきっかけはなってんだね。

日本人て強いんだと思うよ。東京の空襲で犠牲なった人もいたんだけどさ、やっぱり立ち上がって今の東京にしたんだもんね。ほんっとに大したもんだよ。今回も大津波で大変だったけっどさ、大丈夫、復興するって信じるより他、ねんだね。復興はすんだけどね。焼野原にだってうち建って、何十年か経てば今の東京みたいになんだから。ただまぁ時間はかかるでしょうね。私たち生きてるうちに何軒うち建つんだかわからねぇ。

大津波 街をがれきの 山にして
我が小集落 陸の孤島(こじま)に (啓子さん)

大森の 集落見えぬ 仮設たち
部落の絆 仮設をめぐみ (啓子さん)

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