変わっていかないと、みんな幸せじゃなくなっちゃう

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今まで人と比べたり、自分自身の変なものがあって、それに対して勝手にストレスにしていたのが、関係ねんだなって思ってきた。
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Tokyo Foudation
Geolocation
38.4344802, 141.3029167
Location(text)
宮城県石巻市
Latitude
38.4344802
Longitude
141.3029167
Location
38.4344802,141.3029167
Media Creator Username
Interviewee: 末永勘二さん, Interviewer: 瀧野芳
Language
Japanese
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Japanese Title
変わっていかないと、みんな幸せじゃなくなっちゃう
Japanese Description

風まかせ社長

末永勘二(すえながかんじ)です。1950年4月9日生まれの61歳です。家は石巻市の渡波(わたのは)地区で、育った実家も近くにある。牡蠣の生産をしてる養殖漁民の家で、6人兄弟の下から2番目だから、実家は兄貴が継いでる。

末永海産は自分が独立して作った会社。牡蠣のパック詰めや、牡蠣味噌とか加工品を作っている。子供は4人いて、長男は私の会社で働いて、次男は東京、長女は嫁いでいて、三男は大学生。

高校は地元の工業高校の機械科出て、その後いろんな職を転々としていたかな。3年間ぐらい東京に行っていたことがあるし、機械加工メーカーから、それから八百屋行って、新聞・牛乳配達、ちらっと飲み屋、土方。あと、商品取引か。だから、結局使われるのは好きじゃねかったんかな。んで、海苔とかワカメとか積んで、自分でライトバンで売りに行く仕事を始めたんだいな。それが独立の始まりだ。

会社組織にしたのは昭和61年だから設立25年。俺は風まかせっちゅうか、営業で社長になる人もいるし、数字が強くてやってる社長もいるし、社長にもいろいろなタイプがいると思うけど、こんな性格だから、人にやってもらったり、助けてもらっちゃうタイプじゃねんかなと思うよ。

幼少期~養殖漁民の生活~

渡波地区は結構気が荒い人たちが住んでる地区だ。というのも、石巻市に合併する前の旧北上川からこっちは渡波町で漁師の町、牡蠣と海苔の海の町だ。自然自然と漁師の気質になって、それは今も変わんない。やっぱり、潮で仕事してるからかな、満潮の時しなきゃいけねえとか、干潮の時しなくちゃいけねえとか、悠長なこと言ってらんねえんだ。

だから、兄貴と親父がしゃべっているのをよその人が聞いていると、喧嘩しているようにしか聞こえない。兄貴は、養殖漁民の長男の家業を継ぐ者として「なにが何でも6人兄弟の親分なんだぞ」って育て方をされていたから、高校の時には一丁前の漁師だった。だから、俺らなんかは「服従」だな。そうゆう感覚を持ってた。なんかあれば席順でもなんでもそうだし、自分で酒注いだりしないで誰かが必ず注いでくれたり、先帰る時も誰かが必ず送っていくとか、実家を守る人に対しての接し方を親父から子供の時に躾けられた。

子供の時はちょうど映画『三丁目の夕日』みたいな時代で、今みたいに隣に誰がいるかわかんないってことはねえな。隣は家族構成は知っているし、それこそ「塩貸してくださーい」「味噌貸してくださーい」っていう時代だったから。

兄弟とはあんまり遊ばなかったけど、近所の人たちとよく遊んでた。外で遊ぶしかないから、相撲、あるいは陣取りとか道具を使わない遊びかな。でも、ビー玉とパッチ(メンコ)は遊んだな。小学生の時だけとかじゃなくて、ずっとそうだったな。

遊ぶこともしたけど、仕事が結構あったわけだ。冬は、海苔の仕事を学校行く前にやった。木枠(横19cm×縦21cm)で紙漉きみたいな感じで漉いて、木枠外しして、畳みたいな網の上についた海苔を天日で干すの。それから朝ごはん食った。んで、学校から帰ってきたら乾いた海苔を1枚1枚はがす仕事をしていた。

年がら年中切れなかった仕事は、種牡蠣を採るための殻っこ刺しの作業がずーっとあった。針のついたトンカチみたいなので道具で穴を開けて、1セット70枚通す。通すひもは針金で、あいだあいだに隙間が空くようビーズみたいのを入れる。そのままになってると種苗つかないから空間作るわけだいな。今はホタテの殻だけど、その頃はホタテを養殖していなかったから、牡蠣殻を使っていた。

あの当時は機械も何もない手作業だから、子供の数が多いだけ仕事がはかどった。だから、子供たちが一丁前の働き手だった。親父自身もそれを前提にして仕事の量を計っていたと思う。当時はそれが当たり前だったし不思議に思わなかったな。作業は大変じゃねえけども、俺自身は大変だったわな、忍耐力がなくて。

親父には敵わない

最近思うんだけども、誰が親父に似てるかなというと、俺がたぶん一番似てんじゃないんかなと思う。その親父が92歳で死んで「葬式は何とか立派にあげてやろう」って俺たち子供たちは考えるわけさ。でも、あげてやろうって考えること自体が間違いだったし、なにより「すごい生き方した親父だったなぁ」って知ったんだ。弔辞で「末永さんが金を担保してくれて、そして金を借りて海苔をさせてもらった」って話が出てさ、そんなこと初めて知ったんだよね。

昔の漁師なんちゅうもんは、みんな小規模の経営者で、海苔やったり牡蠣もやったりしていたわけだ。それを親父が漁業組合長の時に海苔は海苔、牡蠣は牡蠣って仕事を分けてしまったのよ。時代の流れでそうせざるを得なかったんだけども。その時、たまたまうちの親父が組合長をやっていて、分けてしまったんだ。規模を大きくして他のところに負けないようにって、強引に進めたんだべ。

でも、牡蠣はそんなに金がかかんないんだけど、海苔っていうのは機械に金がかかる。海苔を選んだ人の中にはお金がねえ人がいたらしいんだよね。それで親父が、金を担保してやって、海苔やらせてやったみたいなんだわ。組合長は名誉職であるけど、戦いだ。結構、おっかねえくらいの自分の芯をもっていないとやれねんだわ。

親父と比べてみりゃ、あれも敵わないは、これも敵わない。年取ったけ、わかってきて。積み重ねた人生振り返ってみて、親父がどれだけ人の為にやってたっていうのがわかってきたわけさ。だから、生き方そのものが葬式に表れるっちゅうか「親父が亡くなりましたよと、だからこうしなくちゃいけない」っていうわけではなくて、親父が生きてきたとおりの弔問のお客さんであるとか、献花であるとか。葬式はそういう事だった。

兄弟の中で一番似ているはずなのに。敵わないな、親父には。

震災の日

ちょうど、新潟に女房と旅行行こうと思ってその準備していた時来たんだ。そんで、地震が終わって、家から歩いて10分くらいの工場行ったんだけど、みんなを帰すのか迷ったんだわ。余震で走っている間に逆にいろんなもの倒れて大丈夫かな、屋根飛んでこないかなとか、ここにいれば何とか大丈夫かな、会社どうすっかな?って。

そんな風に、俺が迷っている間に1人の社員が「おふくろが家で1人しかいないから帰っていいですか」っていうから、それで踏ん切りついて「みんな帰れ」って言った。

でも、その時は津波のことなんて頭の片隅にもなかったんだわ。われわれの年代だとね、チリ地震津波を小学生の時に経験しているんだ。チリ地震津波っていうのはものすごい大きい被害だったから、それ以上のものは来ないだろうとわれわれの中にインプットしてるね。だから、どんなに津波警報が出ても、あれ以上のものは来ないだろうと、勝手に決めつけてしまっていて、それで逃げ遅れてしまった。

まあ、でもそれで、1回家に帰ってきて、うちの人間を避難させて。また、工場戻って戸締りしようと思ったら波が来たんで、水産高校まで逃げた。高校行くまでに、丸太やらパレットやらなんやら丸ごと流れてきて「なるほど、こうゆうのさ当てって死んじゃうんだな」と思ったね。

翌日からは社員の安否確認に2週間。年末とかに挨拶に自宅に行っていたから、場所は全部わかっていた。でもなかなか行きつかねんだよね。もちろん車は出ねえし、自転車も行けねえし、時間がすごいかかった。結局、あの当時の石巻はどこが道だが全然わからないわけだし。

会社の復興状況

まだ俺が社長だけど、大雑把な方針決めて今は息子が主導権握ってやる。だから、会社には顔出す程度かな。

震災前は社員が47人いたけど今は3人で復興始めて、徐々に徐々に人増やして戻して行って、今売上は2割程度まで戻った。まだ、方向転換をやりはじめている段階だけど、原材料がねえし、機械がやられてしまったから。

牡蠣なんか今年1割しか水揚げがされないし、海がよくなって、まず漁師が生活できる基盤がなければ無理だ。がれきがあって、接岸できないでしょ。それに、地盤沈下で揚げれるものも揚げれないでしょ。だから、震災前に戻るには海の方が再開してもらわなあと、我々は海に頼った商売形態だから。それが一番じゃないかな。

これからについて

結局今回、常々考えてきたことを実行に移すきっかけにして、移しましょうってことなんだわ。俺、非常に優柔不断だから、なんかのきっかけがねえと転換できなかった。頭の中では本当の幸せはこういうんだろうな、と考えていながらも変換できない男だったから。

何が起きたちゅうと、震災で三陸のワカメが採れなくても誰も困んなかった、牡蠣が採れなくても誰も困んなかったんだわ。ワカメなんかはほとんどなかったんだわ、今年1年間。でも、誰も困ってねんだわ、消費者もスーパーも。だって、韓国から入るわ中国から入るわ。んで、三陸のワカメがなくて真から困っているのは三陸の漁師と加工業者だけだった。

牡蠣もそうだ。牡蠣は10分の1の生産量でとりあえず復活したんだけども、それがねくてもよかったんだわ。広島の牡蠣があるし韓国の牡蠣もあるし。今まで、消費者は宮城の牡蠣を美味しいと思って食っていたけど、ないからしゃあない次のもの食ってたけど、次のものでも十分間に間に合ってしまった。

まあ、人だもん、人間だもん、そりゃしょうがない話だ。逆の立場になったら俺もそうする。三陸のワカメが仮に100グラム300円で売ってました。震災でなくなりました。なくなってしょうがねえから中国のワカメを100グラム150円で売りました。別に自分が財布開くのであれば、150円の韓国・中国でも同じとなれば、そうなんなきゃおかしいもん。人だもん。

実感したのは、震災だから許されるもんじゃねんだなって。今の日本では、震災はごく一部だ。三陸の浜の一部。日本全体の震災じゃねんだ。そのごく一部の被害災害で、日本全国に「震災だから高く買って下さい」が通用するもんじゃねんだ。当然だと思うよ。

だから、我々は自立していきますよ。なんかあったとしても、せいぜい来年の「3月11日来た、あれから1年」っていうようなイベントかなんかがあるんじゃないんかな。でも、「我々自身が自分の足で立たねえと復興できるはずはねえ」と、若い人たちや友達とかとは話はする。

あとね、自衛隊さんとボランティアさんはありがたかった。他にいっぱいの補助もありがたかった。けども、40、50年前なら、がれき撤去も地域でやったと思うよ。今はボランティアさんとかに頼るしかなかったけど、俺が子供の時代だったら、地域の人で間違いなくやっていた。

だって、昔は10歳15歳になれば一丁前の大人で、今みたいになにもしなくていいちゅうのはまずないもん。それに、地域社会のコミュニケーションもあったからな。今みたいな、他人の生活に口挟まないって雰囲気ではなかったから。

だから、昔と同じことやっていたんではダメだろうなって感覚かな。会社の商品提供の仕方を変えていかないと幸せになれないんだろうなと思った。だから、方向転換していきましょうって。もっと食べ方とか加工とか別のものを別なものを提供していかないと、結局どこも単価競争に入っちゃう。もっと楽しんで、みんなが幸せになる方向にして、量だけ求めたってしゃあないし、それじゃ震災前と同じになる。そこは変えていかないとみんな幸せじゃなくなっちゃうことなんだろう。

末永海産の大雑把な方針ていうのは、もっと楽しんで幸せになろうと。震災前にただ戻っちゃダメなんだ。だから、もっともっと付加価値をつけるための方法が必要じゃないかなと思ってる。

まあ、俺の残り寿命が20年かなと思っている。んで、前は老後の心配をしてたけど、今は息子とか次の世代が頑張ってくれるかなって思ってきたな。俺も、俺の親父もその親父も、生きてきた中ですべてが積み重なっていくわけよ。そうゆうもんの積み重ねっていうのを子供たちが、俺らの後ろ姿だけを見ているわけよ。災害がありました、時代が変わりました、何か子供たちに残しますかって、そうゆうもんじゃねんだな、全部が積み重ねだから。葬式の話もそうだし、この地区の気が荒いのもそうだけど、生き方が自然と醸し出されるわけだ。

だから俺、考え方が固まってきたのかな。今まで人と比べたり、自分自身の変なものがあって、それに対して勝手にストレスにしていたのが、関係ねんだなって思ってきた。だから、被災した後に不謹慎かもわかんねえが、61年間の人生で、今が一番心が穏やかじゃないんかな。

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