自己紹介―幼少時代―
柴田憲一(しばたけんいち)です。1951年12月6日生まれ。ちょうど60歳。生まれたときからずーっと雄勝町の原に住んでる、先祖代々。
俺で6代目。初代、二代と刀差してっから。何年なっかなあ。山形がら落ち武者で逃げできて、最初は、こごの山の裏に真野峠ってあんだけっども、そごさしばらぐ間借りしてだどこで、婿さ入らねがって言われで、柴田家絶やさいねっつごどで、そんで山越えでこごさ住みついだ。300年位にはなんだべな。
こごさ来たとぎは、家3軒しかながったんだって。今の家はまだ新しいさな。平成なる前、昭和の最後。その前から古い家はあったよ。100年以上なる家だ。
ちっちゃい時は、この辺で遊んでだ。なんも無ぇがらこの辺で遊ぶしかねえ。川で魚採りとが。おっきい声で言わねっけど、山行って鳥っことったりとか。鳥っことって飼ったのは中学校の時だな。
昔は30cmも雪が降ったごどもある。今は10cm積もれば大雪だがらね。雪遊びもでぎだよ。ソリっこだのスキーだのは、自分で作るんだ。お金ねえがら。丸竹っていうのがあって、親指ぐれえの太さがある。それ4本が5本集めて針金通して、そんで先、曲げでそれで滑ってだ。ソリも作ったよ。あどさ、車っこってさ。木の車でハンドルもちゃんとつけてそういうのも作ったよ。クリの木にタイヤ刺すんだ。あの車っこは結構遊んだな。海のほうに遊びに行くっつうのは俺達はあんまりねがったな。歩けば30分以上かがるさ。だがら、あんまりそっちまでは遊びに行がないって感じだな。小学校は歩いで30分のどこ。海までなんぼも離れでない。中学校は小学校よりちょっと手前だったんだ。
家での仕事―休みの日は家の仕事しなきゃなんね―
中学校終わって、学校落第してしまったがら、最初っから高校に入る気なくて。家の手伝いで、田んぼとが養蚕やってだ。養蚕はもう1軒あんだけどさ、だいたいのどごは辞めだ。山っつが家の目の前に桑畑があっがら。でも、採算取れねえわげさ。だがら辞めっぺしって言うんだけども、親父が桑畑あっからやるって、平成4年くれまで養蚕やってだ。桑は親父が作った。キリグワってさ、切ればまだ次の年、おがる(生える)。雑木系統だがらな。けっこう大きくやってだのさ。トラクタとか耕運機はあるよ。畑もあっから。畑は今もやってる。白菜とが大根、豆、小豆。野菜は色々だな、なんだりかんだり。
昔は牛もいだ。俺は見でねっけども、馬もいだみだいだ。おらいの親父の親父のその前の人達が馬さ乗っていだがもしんね。牛は肉じゃなくて、仕事するために。親父は、山仕事してだっちゃ。だがら木、出すのに牛使ってだした。昔、よぐ牛とか馬で出してだっちゃ。ソリ引っ張らせで。
山は国有林がら払い下げした山とが。うちの山もあるよ。杉山とかもあっけども。面積的になんぼがって言われでもわがんねな。でも、1町歩ぐれあるのがな、全部にすっと。今も木おがってる。手入れもしてる。手入れする時期終わったどごもある。家の裏も60年以上になってがら。搬出はまだする気はねえがな。20年30年の木もあっから。竹藪もあるし。この辺の地主だね。
あとは田んぼも2反7畝くれてやってる。今年は、震災で苗っこが用意できねくて、それプラス俺がちょっと田んぼをやる気力が失せでしまって、休んだのさ。そんで正解さ。今年の台風で、田んぼさすっかり砂利入って。やってれば、収穫前にもう、みんな終わりさ。あと近くの沢から水取ってだんけっども、それがもう氾濫して、田んぼさ来た。田んぼはもう、辞めることにした。なんぼが砂利は取ったけどさ、入った状態のままのどごもある。それが震災後に市がら来て、畑が平らだっちゃ、あんまりでこぼこがねえがら、そごさ住宅建でたいっつう話を言われて。もし建でんだったら協力すっからってこどで。はっきりはまだ決まってねえよ、打診あっただけ。そいで田んぼもストップしたのさ。
休みの日は家の仕事。親父亡ぐなったから、家の仕事しなきゃなんね。ミツバチの世話もしねばねえし。養蜂っつうほどでもねえけど。昔はやってながったよ。平成21年ころがな。面白ぇよ。自然の蜂を捕まえで、巣箱作って、その入り口さ蜜蝋ってのを塗っておぐと、蜂が来やすいわげさ。女王蜂も働き蜂も全部、団体で。分封(ぶんぽう)って言ってさ、子別れっても言うんだけどさ。必ず、毎年くらい巣箱の中では分封するわげさ。新しい女王が巣に残って、古い女王は出でいぐんだって。古い女王が入るわげさ。良いところ見っければそごさ入るわげさ。入りやすいように巣箱を何箇所か置いで。まだ2年ばりだ。一昨年から始めで、一昨年はひとっつも入ねくて、やっぱ難しいんだなって。でも去年5つも入ってさ。こりゃあ良いなあってなったら、3つ逃げられでさ。逃げるごどもあるわげさ。「こご気に食わね」って。そごはスズメバチに襲われで、もう逃げでいったの。今年もオオスズメバチ来て、箱さ1匹入ってさ。でも網やって入られねえようにしてなんとか。
あどは管理、餌足んねぐなったら砂糖水をがけねばねえがら。箱を持ってみで、軽いなあって時は餌与えねえと。蜂はニホンミツバチ。箱は24cm×24cmを組み立てる。重箱式に重ねでいぐのさ。蜂っつうのは上がら巣を作ってくるわげさ。そして上がら蜜を溜めでくるわげさ。その蜜、20kg近ぐまで溜まれば一番上をピアノ線で切って上をいただくわげさ。俺は17kgくらいで搾る。搾るっつが自然に垂らすだけ。金網でゴミ濾すやつかげで(かけて)やれば、ゴミを入れないで蜜だけ採れる。蜜はその辺の自然の花。今はもう花の時期じゃねえがら。今はセイダカアワダチソウとお茶。お茶は今花咲いでっからそれ無ぐなっと、あど蜜集めらいねえがら、あどは重さ見でたまに砂糖水をあげる。だいたいは蜂が自分で今年の冬、間に合うくれえ集めるわげさ。でも、それをたまにいただくっちゃ。だがら、いだだいた分は砂糖でお返ししねげねっちゃ。蜜は販売するくれとれねえもん、家の人達で食べる。でも、こごは花足りねえ。花があればな。もう少し増やしても。
山での仕事・昔と今
中学校終わって、家の仕事しながら、雄勝町有財産維持会ってあって、そごに入って山さ泊りがけで、下刈りやったり。1年ちょっとやったのがなあ。そごさ入って。そごは雄勝の財産の山。共有地。んで、途中で6月頃に国有林の苗畑ってどこさ入ったのさ。向かいのおじさんが苗畑主任やってたのさ。そんでその人に言われて。急に今まで働いでだ人が何が面白ぐねがったのが辞めるって言い出して、男いなぐなったのさ。そんで俺さ白羽の矢が立って、来ねがって。そんで良いよって。苗畑には中学校卒業して1年半くれえで。16、7くらい。苗畑は苗を育てるための周りの除草、草刈とが。種からやってだんだ、最初は。でも、向かいのおじさんが辞めでがらは種からやる人がいなぐなって。ポット苗とかそういうの始めたのさ。苗畑は昭和44年から昭和52年くらいまで。
それで、今は石巻になってけど、旧牡鹿町の鮎川ってとごさ行ったのさ。鮎川では山仕事なった。木伐ったり。鮎川に7年半いでそのあと河北町ってとごさ行った。行ってるうちに職場の統廃合があって石巻に勤務になった。今は、昔みたいに木を出したりしないがら。測定っていって境界線の調査とか。あとは除伐する箇所の調査がな。収穫って言うんだけど。そういうのが主だな。石巻は最初から測定って仕事がメインだがら。統廃合してがら、とにかく国有林の境界分がんなければ将来的にどうなるが分がんねがらって。今だってそういう状態になってきてっちゃ。現職が誰もいなぐなったら境界も分がねぐなっちゃ。やっぱ境界ははっきりしておがねえば駄目だっつうごどでその時点で、石巻はあまり下刈りとがそういうのやんねがったの。震災の後、仕事はしばらく待機だったな。だって、行げねんだもん。油もないし。しばらく待機してで良いがらって。半月以上待機してだな。今は通常っつが、ぼちぼちだな。ちょこちょこ仕事してだ。直接山さ行がないで、雑用みだいなさ。そんな感じだな。
来年の3月で退職。希望として仕事は続けるかな。まだ聞がれでないけど。臨時で。こごにいだって何も仕事ないがらさ。
震災当日の様子―言葉も出ねがった。もちろん涙も出ねえし―
びゃーっと水さ、道路がら5m以上上がったな。道路の両方さ。噴水みたいにさ、道路脇ずっとだど。道路沿いに堀みたいなのあってそれが吹いたのさ。押されて上がったのかなって感覚だな。もう車で走らいねがら、そのまま止まってででさ。何秒がもうちょっと行ってで橋の上で止まるようだったら、橋の両側落ちだんだがら。渡らいねぐなんだもの。でもその手前だったがら。
俺、ラジオかげでだけど、俺の感覚では地震の速報来る前に揺れだがら。で、橋ドンっと落ちでだがら回り道して帰って来ようとしたのさ。でも、その日は帰って来れなかったの。河北町で足止め食ってあそこから先、進めねがったがら。あど、部落の人たちの公民館さ一晩泊まったのさ。そごで、炊き出ししてもらってオニギリご馳走なって、コーヒーご馳走なって、ストーブ炊いでもらって暖かいどごで、テレビ見せらいで。そいづで、名取だの気仙沼の様子を何回も同じの繰り返しでだ、津波の。あれ見で、ああ、かなり雄勝もやらいだなってその時思ったんだけどもさ。そんで次の日、峠越えで帰ってきた。人乗せで。たまたま一緒になったがら。俺の車さのってさ。
行ったら自衛隊いで、峠のてっぺんの方さ雪あったんだっちゃ。20cmくらい。そごで自衛隊もストップさ。でも自衛隊はチェーンかげで上っていったのさ。だがらその後、俺追っかげでいって。結構道路も壊れでんだよ。今は通行止めなってる。んで、帰って来てまず家さ寄ってみんな無事なのを見でがら、集落の最後、海よりの方さ見に行ったのさ。あそこまでいったら、あど車行げねっちゃ。瓦礫の山で。見だ時はこう口開いだまま、なんだこいづって。言葉も出ねがった。もちろん涙も出ねえし。なんでこうなったんだいってしか思えねがったな。バスも見できた。公民会の上さ乗ってるの。結構ネットでも流れだんだ。あれは下ろさないで、そのまま残すんだ。津波がここまでこう、こういう状態だったってことを知らせるために残すようなごといってるけど、詳しくはわがんね。
これから―浜の人たちは一所懸命だ―
本当はさ、もし津波来ながったら、定年退職して妹がホタテやってるから、そっちさ手伝いさも行げるなあって思ってだっけ、工場も何も全部流されだがらさ。何もねえがらさ。妹達はやるがやらねえが分がんねえけど、今年もうホタテの稚貝入れでっから。来年からはホタテいぐらが取れるんでねえがなって。浜の人たちは一所懸命だ、とにかく。海でやっぱ生活立でねげねっつうこどでさ。だがら、海の仕事やる人達は雄勝さ戻ってくっけども、それ以外の人達ははっきり言って分がんねな。