家を建てて、ここさ住みてえな

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元いたところが大事っていうかさあ。みんな、前にいた土地さ、その地域さ集まってするって感じになりてえと思うね。
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Tokyo Foudation
Geolocation
39.3698337, 141.9411843
Location(text)
岩手県大槌町吉里吉里地区
Latitude
39.3698337
Longitude
141.9411843
Location
39.3698337,141.9411843
Media Creator Username
Interviewee: 芳賀藤一さん, Interviewer: 吉野奈保子
Language
Japanese
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Japanese Title
家を建てて、ここさ住みてえな
Japanese Description

丁稚奉公して大工になった

芳賀藤一(はがとういち)です。昭和22年4月17日生まれ。64歳。家族はオッカアと娘二人です。娘は二人とも嫁いでる。一人は盛岡で、もう一人は小槌の保育園さ、勤めています。

職業は大工だね。最初は家、建てる仕事だったの。そのあと、どうせ自分で建てるには、基礎もやった方がいいだろうって感じで。20年ぐらい前から、基礎もやった。最初は機械が高いくて買えねえから、手で掘ってなんてなあ。

盛んにやっているときは、年がら年じゅう人がいて。一番忙しいときで、大工さん、20人近くいたなあ。人数が余れば、よその仕事、下請けで入ってみたいな。でも、だんだん仕事が少なくなった。

昔は、吉里吉里は漁師が多かったんだね。親父も漁師だった。金もとれた時代だったし。

なのに、なぜ、大工になったかというと、最初、船に酔ったんだなあ。酔うてはあ、腹の具合悪くなって。車に酔ったみたいに。それで親父が、おまえは大工になった方がいいでないかって。

で、中学校終わると、隣の浪板の大工に丁稚奉公さ、入った。俺の場合は丁稚奉公っていっても、うちから通っての丁稚奉公だから。車ある時代でねかったから、冬場でも自転車で通っていくわけだ。仕事終わって、うちさ戻ってくれば、とにかく夜のうちにノミさ、研いでおかねばなんねえ。次の日、朝行って、とにかくちゃんとなってねえば怒られる。夜遊んで何もしてねえべっつう感じだからね。

古い家ほぐしたやつから材料集めれば、釘が入っていて。こんだ、刃がこぼれたりするわけだ。それを研ぎ方、悪ければ、親方、ツチ持って、わざわざ歯欠かれるのさ。それ、刃がつくまで研がねばねえわけさ。そういうのが大変だったわけね。

今の弟子はそういうのしないで、既製品で売っていれば、道具、取り換えればいいけども。昔はノコも、ノミも研ぎ方悪ければ怒られる。とにかくはあ、怒られるわけさ。

津波が来た日

津波のときは、仕事で岩泉さ行ってた。岩泉さ行く道路、そっちの方さ行ってたっさ。地震があって、津波警報だっていうんで戻ってきた。山田の大沢口ってとこ来れば、海が近いから、通ってこれねえなあと思ったから。小国さかかって、土坂峠を下って金沢、で、大槌まで来た。あと少しでバイパス通り、何キロか手前ぐれえ。そこに、もう波は来てったんだね。前に水がいっぱいあるわけさ。

走ってきたときはさ。電波通じねえし、津波きたと思っていなかったの。大槌川って大きな川あるから、川沿ってなんぼか、津波がきたんだなあっていう感じだったんさ。だから、もう少しいけば、道路、開通になるんでねえかって。わからねえから、簡単なほれ、そんな考えだった。で、30分ぐれえ待ってて。そしたら今度は火が見えたきた。火事だって。道路さ、ふさがれてっから行かれねえわけさ。で、車は置いて歩いていくべしって、山沿いさ歩いて、安渡小学校のあたり出はったんさ。それからずーっと歩いてはあ、疲れたんだなあ。ちょうどタクシーあったから。タクシーで行かれるところまでって乗せられてきた。

で、吉里吉里さ出たら、がれき、あるわけさ。なんだこれはって。これは駅の方、回るしかねえって。駅さ回っていきながら、ああ、おらいの家さ、ねえんだなあって思って。

小学校さ着いたらば、オッカアが避難していた。小学校は人いっぱいで。おら、入れられねかったもんねえ。校庭にバスが停めてあって、そこで一晩、明かした。

翌日は作業場が山の方だったから、作業場行ってみるかなあって。そうしたら作業場も全部、機械もはあ、ひっくり返って。バックホン2台、それに軽自動車さ、4台いたったんだけれども、全部ひっくり返って。山さ土崩したとこに、バックホン1台だけいたった。で、道路つけっかって。自分でまず、がれき片付けて、道路つけやったわけさ。それから20日間ぐれえかな。毎日、作業。とにかく道路つけねえとって感じだったからね。

男たちは、がれきを撤去した

最初は、ヘリで物資でもなんでも来ると思ったんさ。だからヘリポートから小学校まで道路をつけようと思ったんさ。一日ぐらいで小学校までついて。それやって、「次は国道をしましょう」って。こんだ、沖さつながる道路、車で物資運ぶ道路通さねばならねえ。それで国道通したの。

道路つけは、まず、みんな協力して。避難所にいる人たち、100人は出はったんでねえかね。ダンプさいっぱいのせて、あとは歩いていくって感じだったからね。

年のいった人もみんな出はったんだよ。みんな男は、とにかく、がれきさ行って、機械つけられねえところは長いロープさつけてひっぱって。重機は小さいのが1台か2台、その程度さ。

自衛隊が来たのは1週間後ぐらいかな。そのときは、あらかた国道も通したからね。今の漁業組合のところ、あのへんだけ残ってたんでねえかな。あとは細いところも、とにかく車1台でも通れればいいっていう感じで。ほとんど除けてきた。

まずね。吉里吉里は、これをやるなら、いざっていう感じで、みんなまとまっていくからねえ。今回もそういった感じ。他は頼れねえし、まずは自分たち出て。それしかできなかったね。

で、いつもだいたい4時頃だな。学校さ戻って、まず関係した人たち、みんなよって。衛(まもる)が「今日はここまできたから、明日はここからしましょう」って感じで。

現場さ、遺体があれば、衛が警察さ届けた。出すまでが早かったから、顔みればだいたい、どこの人だってわかるわけだ。衛はあっちさこっちさ呼ばれて、一番大変な役してしまったんだね。まずは道路つけながら、遺体探しだったから。

俺は兄貴が夫婦で亡くなった。あと、叔母様もすぐに亡くなったからね。でも作業さ出て、歩くことはできねえわけだ。重機、ずっと一日。手でも足でも見えたら機械の方はストップして。全部ガツっとつかまれねえわけさ。ちょこっとずつ、どこやっていけば崩れるか、見ながらせねばならねえからね。邪魔になるところは手で除けて、そして遺体出してっていう感じだったからねえ。

お米もガソリンもみんな分けあった

食事は、最初のあたりは、朝、おにぎり1個かな。まあ、腹も減ったどもね。まずね、吉里吉里は、みんなで分けあったから、良かったんだね。

最初の晩、藤本君がおら家さいって、米持っていけって。米、何人か行って、かついできた。それさ、翌朝、おにぎりになったんだべね。そうやって最初は個人で持ってきたんだ。おれしか食べねばねえとかって、持っている米さやられたら、みんな大変だったんだ。

小学校では、最初から炊事、女の人たちやったからねえ。女の人たち、朝4時だのなんだの起きて、200人近え人たちの食事、準備した。3月っていえば、まだ寒かったし、暗いときだもんね。発電機まわさねばならねえ。灯油なり、燃料がねえば、何もできねえもんね。

吉里吉里にはガソリンスタンドあるんだども、そこに正彦さんが働いていた。それで、タンクに油が残っているっていう話になって。まず灯油を出した。最初はバックホンさも、灯油積んだのさ。軽油がないから。あとから軽油もあっからって話になって、ガソリンから軽油から灯油から、全部使っていいって。金額にしたら何百万か出ただろうね。あと、川勝商店からもガソリン使っていいって。

タンクから油、吸い上げねばならねえから、若い人たちも手伝って。何人か交代で昔式の手押しポンプで吸い上げて。ポリ容器さ入れて現場まで運んだ。あとから、町からも「詰めてください」って来たんだけれど、「あくまでもこれは吉里吉里で使う油だ」ってことで、正彦さん、絶対、よその人にはやらねえ。そのおかげで吉里吉里は早く道路がついたね。

若い人は「復活の薪」に取り組んだ

風呂はね。最初は県やボランティアの人たち、小学校に薪風呂設置して、やったわけさ。でも、自分さは20日ぐらい入らなかったもん。おにぎり小さいのでも食べれば、車さ行って寝てしまう。だから、朝早く目が覚める。着替えもないし、シャツもないし、着たままだから。真っ黒なわけさ。そういう状態だったねえ。

初めて風呂さ、入ったのは、雪の日だったな。雪なんぼか降って。で、はじめて、シャツだの下着、なんぼか兄弟からもらったのあって、それ風呂さ入ったんで着替えた。とにかく休んでなかったから。なんでかんで道路つけねばねえから。

俺は、たまに時間あれば、がれきの中から廃材さ積んで、薪風呂さ焚くために置いたんさ。だんだんに若い人たち、それ伐ったり、割ったり。そうやってるうちに「復活の薪」って話になったんだね。薪を米袋さ詰めて、外に売るようになったの。注文もたくさん入るようになって。若い人たち、一所懸命やっているから。みんな仕事ねえから、いくらかでもお金にさせたいと思うよ。

昔は、ここらへんも、薪風呂、薪ストーブだったわけよ。だから秋口になれば、山さ行って、雑木を倒して短く伐って、うちさ持ってきた。まず冬休みなれば、子供たち、山さ行って。俺は大工で刃物研いでたし、薪割ればいいって、そういう感じでやったもんね。今の子供たちは山さ、行かねえからね。薪ストーブも、せねえけどな。

今は、自分たちで山に杉苗植えるってこともねえ。全部、そういう関係の人さ頼んで、山を掃除してもらって。伐っても、代わりに植えてもらって。そういう感じだんねえ。今は自分のうちでやるのは、本当にないんでねえか。

だから、「復活の薪」で廃材使うんでなくて、山の間伐やるっていったらば「おらいのもやってくれ」って。「山は全然手つけてねえから、やってくれねえか」とか言われたり。だから、うまくやれば、若い人も手間賃、出てくるんでねえかなって思うよ。

山を持っている人は、結構あるんだ。でも、それで家建てるっていうと、今はほとんどねえから。何年前だろうねえ。小学校の下の芳賀博典さんって。あの家は、自分の山から伐って、製材して建てた。あれが最後だね。

元の場所に家を建てたい

まず、大きい津波は何十年に1回だからね。チリ地震も十勝沖地震のときも、今の堤防が強かったから。まず来たって、堤防越えるような、こんな大きな津波は、そうはないはずなんだ。

昔は堤防自体も低かった。昭和8年の津波は、沖から入ってくれば四十八坂にぶつかって、その跳ね返しがまわって、今の金毘羅様あるあたりまで来たっていうような話なんだね。金毘羅様から、道路に沿って、ちょこっとした川があったったのさ。それで津波がのぼってきたんじゃないかと思う。昔は、雨が降れば、川いっぱいになった。今は側溝深くなって、ちょろちょろ流れるだけだけどね。

そんな話、聞いていたから、まさか2丁目の住宅の方まであがってくるとは思っていなかった。あれは、昭和8年の津波の後、造成して。俺の親父が養蚕組合のとき、携わって、分譲はじまったんだね。今回は、そこまで津波来た。まさか住宅までとはね。

国道の端は、今度の津波来ても、ぬさってねえわけだ。これを高くすれば、ひとつの堤防がわりにもなる。まず、盤をつくって、しっかり整地して。国道から内側は一般住宅。作業場とかは浜の方に、そういう感じでもってけば、いいんでねえかなと思う。

次また、どういう津波が来るかわからねえけど、国道を堤防代わりにして、海にも堤防やれば、かなり違ってくると思うけどね。

そうするには大きな山崩して、どさっと土入れねば、おっつかねえ。ここ1年、2年でやれる仕事でねえと思うんだよね。それに対して、町も果たしてどこまでするのかがわかんねえ。

できるもんであればね。元の場所さ、家建ててえのが、やまやま。俺の家は、神社の下の方だから。神社の近く、自分の元のうちさ、あったとこ。

元いたところが大事っていうかさあ。みんな、前にいた土地さ、その地域さ集まってするって感じになりてえと思うね。道路もついてきて、賑やかになってくれば、みんなそうだと思う。俺だけでねえ。そう願っている人たちもあっこったし。

俺は大工だし、みつけた古材でもいいから、家建てえと思っているんだ。小さくてもいいから、自分が元気なうちに建てて。また、ここさ住みてえな。

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