親父のかたみ「金衛丸」に乗って

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海を復活させて、若い人たちがな、やっぱり早く収入得られるようにしていかなくちゃな。
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Tokyo Foudation
Geolocation
39.3698337, 141.9411843
Location(text)
岩手県大槌町吉里吉里地区
Latitude
39.3698337
Longitude
141.9411843
Location
39.3698337,141.9411843
Media Creator Username
Interviewee: 芳賀衛さん, Interviewer: 代田七瀬
Language
Japanese
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Japanese Title
親父のかたみ「金衛丸」に乗って
Japanese Description
海を復活させて、若い人たちがな、やっぱり早く収入得られるようにしていかなくちゃな。

自己紹介 -親父もおふくろも俺も吉里吉里人-

名前は芳賀衛(はがまもる)。昭和22年、12月16日生まれで、今は63歳。岩手県大槌町の吉里吉里で生まれて、一人っ子だ。親父もおふくろも吉里吉里人。俺も吉里吉里人。兄弟はいないけれども、親父もおふくろも10人ほどの兄弟。それが全部地元にいるから、俺のいとこたちいっぱいいるけど、全部吉里吉里人(笑)

俺は会社員だったのさ、新日鉄の。63歳まで働ける権利はあったども、職責は十二分に果たしたと思ったので、60.5歳で退職して。そのあとも岩手県釜石市の港の安全保安要員しながら、半分漁師して。亡くなったけんども親父が漁をしよったから、親父の遺産の船も組合権もあったから、会社を辞めたんで、そのまま大槌町漁業協同組合の正組合員にしてもらって。

子どもは、長男と二番目は娘。長男の子どもが二人、娘の方には子どもが三人。家には息子夫婦と女房と住んでる。今回の津波(2011年3月11日の東日本大震災)で、家は一階が全部浸かったんだ。家族は幸い私の娘や子どもたちも全員無事で。家の二階がもったから、今は二階の方に住んでんだ。

あの日 -吉里吉里に戻ったら、はぁもう瓦礫の山だった-

地震当日は、16時から0時までの勤務だった。ぼちぼち釜石の港で保安要員の遅番なんで、会社に行こうかなと思ったら、すごい地震だんでさ。昼番の8時から16時までの人間がそこにおるから心配でよ。行かなきゃなんないなと思って、車で釜石まで走ったの。

全ての信号が遮断してて、ローソン大槌バイパス店の信号も遮断しておったから、町から車が、どんどん出てくるわけよ。20台くらい通し、少し車が切れたんで、今度は俺がトンネル抜けて隣町の鵜住居(うのすまい)片岸(かたぎし)付近を通ろうとしたら、波が見えたのよ。慌てて急ブレーキを踏んで、Uターンして、また大槌に戻ってきたのよ。だから、俺がバイパスで先に出した車が、全部流された。ローソン前に戻ってきて、第一波が来た。這い上がってきた何人かに手を貸して掬いあげてさ。必死でな。でも助けようがないんだもんな。その後、第1波が引いたので家に戻ろうとしたけど、大槌城山トンネルで通行不可能となって。そこで第2波から第5、6波まで足止めとなって、それで夕方の5時半過ぎかな。波が引いたから、家に帰った。そしたから、はぁもう瓦礫の山だったもん。吉里吉里は、全部で750戸あるうち、約300戸が全壊と半壊だ。

俺もさ、チリ津波と十勝沖の津波と、二回経験してるんだよね。チリの時は中学校一年生だったな。もちろん、堤防もなかったしさ。その二つの津波の予想をはるかに超えたもんな。すんごい力だもんな。自然の力には勝てない。

震災後のガレキ撤去 -なあに、当たり前だって思ってな-

膝が痛いのは、津波の翌日からガレキの片づけをずっとやってきたからだ。震災当時は、現役の消防団はな、津波警報が発令中だし、隣の大槌が火事で何度も招集かかるし。だから地元には消防団員がいないんだもん。OBがやっぱりしきんなきゃってことで。俺も昔は消防の分団長もしたし、二丁目の町内会の会長もしたし、中学校のPTA会長もしたしさ。消防の分団長をやったのは、50から52歳の時。昔から吉里吉里は若い人に任せてたの。そうすると、もうOBになる。そのOBとかが津波の翌日から作業したんだ。

瓦礫の撤去では、避難した人たちがアクセスできる道路を確保したいし、救援物資を運んでくれるヘリコプターのヘリポートが家の近くにあるの知ってたから、それを確保したいと。と同時に、90名近くの人たちが見当たらないってわかってたんで、どっかの瓦礫の下にいるはずだと。ならば、少しでも早く、1時間でも早く救出したいという想いでもって、瓦礫の撤去して、道路をつくっていったと。もちろん、生きて救出された人はいなかった。そこにも、あそこにもって、日がたつたびに見つかっていったんだけどね。特徴も知ってるしな。太っているとか、頭が禿げているとか。どこの誰だか、だいたいわかるわけだな。自衛隊から「どこに遺体が上がってる」って連絡きて、すぐにかけつけて、「あ、これはどこのだれだって」言って、すぐに遺族に連絡して。吉里吉里は、55人の遺体があがっているの。33名がまだ見つからない(2011年7月9日現在)。一人でも生存して救出したかった。

今は45号線が通って隣町の大槌まですぐだけど、昔の旧道っていうのはずっと沿岸沿いを走ってて、何かあると孤立すんだもん。それで、自分の地域は自分で守んなくちゃいけないと、消防団で先輩たちに言われてきたし、同じことを後輩たちに指導したからな。自分たちで瓦礫撤去したりするのは、「なあに、当たり前だ。」って思ってんだけどもさ。

新日鉄の仕事 -家にいても海だべし、会社に行っても海だ-

もともとほら、俺は会社員さ。昭和41年の釜石南高校卒業と同時に新日鉄(新日本製鉄株式会社)の釜石製鐵所でサラリーマン。42.5年間。新日鉄に入ってからも、地元から通ったからな。ずっと釜石に。

新日鉄での仕事は、輸送業、特に海運。家にいても海だべし、会社に行っても海だ。会社が決めた配置だったんだけどな。たまたま配属されたのが海だったし、私だけがどこにも転勤しないで、ずっと同じ職場におって。もちろん、出張はあるけれどもな。

輸送は、関東以北はトラック、関東以西は船がベース。一番南の方では、九州の小倉。その方がコストがかからないんだよ。その関係の仕事をずっとしとった。輸送業一本。

釜石の専用桟橋から、船をつけてもらって、そこから製品が送られるんだ。納期に合わせて。一旦製品ができると、倉庫に保管して、出荷に合わせて物を揃えて、船が入れば、その船に一気に積んで、船を出すわけさ。疵とか、錆びとかのクレームがあれば対応せねば。トラックの方もやったけども、トラックはあんまりクレームないんだよ。今日積んで明日着くから。

だから、俺は海岸の方の生き字引。どこに何が入っているかわかんだもん。地下の中までよ、どこに配管や水道管が入っててって。皆聞いてくるんだもん。「どこに配管が入ってる?」って。お前らプロだろ、俺に聴く必要ねぇべって。それがほら、この震災で会社もやられたべ。あぁ、涙がでたったな。うわぁー、こんなにやられてしまったかって。

新日鉄を退職して -海での安全を管理せよって。あとはウニとか採りながら-

親父が漁師だったけど、継がないで新日鉄に就職したわけ。で、新日鉄で42年も働いたから、もういいだろってことで辞めたんだ。して、たまたま私が辞めた時にさ、SOLAS条約ってわかんないか? 9.11のアメリカの事件以来さ、テロの対策のために、外国船が一年間に12隻以上入る、定められた港に関しては、私設桟橋であろうが、公共桟橋であろうが、全て保安要員をたてて、テロの防止をしなさいという世界条約なのさ。Safety of Life at Sea いわゆる海での安全な生活を管理せよってこと。

俺は、新日鉄の桟橋に船が入った時に保安要員にいくわけだ。一日座って、船員の出入をチェックすると。多少英語を言えばいいんだからさ。外国人に、どこにいくとかさ、何買いに行くんだとか、何時に帰るかとか聞いて。中国人とフィリピン人が多い。毎日その仕事があるわけでないから。月に半分くらいだ。

あと半分は地元にいる。ウニとかアワビとかを採りながら。

遺産を受け継いで -船の名前は金衛丸(きんえいまる)だ-

漁に出たのは最近だよ。61歳から。ウニやアワビを採ってる。ま、漁自体は本業でなかったからな。船にのってアワビ採ったりするのは、気持ちがな、せいせいして。趣味半分、半分は、あんまり家計の足しにはなんないかもしれないけど。

親父は遠洋マグロだったの、若い時はな。神奈川県の三浦三崎にいってたの。それから親父はワカメやホタテ、ホヤ、カキの養殖もやってたな。アワビやウニも採ってた。

3、4月にワカメ、4月から7月にウニがとれて、11月から1月がアワビ、その間にも、ホヤとかホタテやカキの養殖の水揚げがあるわけさ。それは年中水揚げするんだ。だから、年がら年中忙しいんだよ。ウニとかアワビだけだったら、何にもなんない。ワカメ、ホタテ、ホヤ、カキをやって、なんとか生計を立てる人が多いわけ。

漁師の生計でもって飯を食わされてたからな。漁師の生活は分かっているからな。漁民ちゅうのはどういうものかって。親父も、自分の息子には、できれば継がせたくないと、サラリーマンであった方がよいんでないかという想いがあったんじゃないかな。ずいぶん前の話だから、忘れてしまったけどな。

親父が漁を辞めた時には、まだ俺が現役で会社で働きよったからな。養殖施設とかはさ、親父が辞めたらもう組合の方に返すんだって、組合の方に返した。平成14年に親父が亡くなって、俺が会社退職したのが平成20年で60.5歳の時。親父が組合の出資金証書あるからな、兄弟がないからそれを受け継いで。アワビやウニは養殖でないから、漁協の組合員であれば出漁する権利もあるし。たまたま、親父が残した船もあったんで。親父が金次郎という名前だ。俺の名前が衛。だから、船の名前は金衛丸だ。親父の遺産でもあるし、その船を使ってやっとったの。

瓦礫の撤去とか行方不明の捜索しとった時、ある人から「お前の船が、向こうにあるぞ」って言われてね。形が残っているばっかりでもね、嬉しかったね。でも塩水が入っててな。もう廃船だ。

技術の習得と時代の変化 -門前の小僧だったからな-

アワビやウニを採る技術は、小さい頃から親父といっしょにな、小舟に乗って、どう採ればいいかわかるし。門前の小僧習わぬ経を読むってな(笑)吉里吉里の地元の人間なら、だいたいできる。まぁ、たくさん採れるかは腕の差だな。俺か?腕はあんまりよくない(笑)でも、楽しいじゃん。楽しみながらやってるの。

最初に行ったのは小学校かなぁ。高校時代までだべ。新日鉄で働いている時も、休みがあえばね。採り方を忘れたりはしないよ。自転車の乗り方を覚えるのと同じなんだ。死ぬまで自転車に乗れるだろ。

高校生までは、アワビでもウニでも、最低三人一組で行ったんだよ。ウニとかアワビは、海底の5mも10mも下の方にいるの。一人は櫓を漕ぐ人。一人は鏡、箱メガネみたいなのと長い竿で持って、先端に鉤がついていて、バンって弾いて海の中に落とすわけよ。竿は一本3m50くらいで、最高で5本つなげるんだ。だから重いよ。腕力ねば。だんだん海底が深くなるからな。すると、海底20mくらいかな。一本2万5千円だな。もう一人はタモってな、チョウチョを採るような網がついた。あれを海底に入れて鏡で採った人のを掬う。そうすれば、採る度に一回上に挙げる必要ないから楽なわけよ。長い竿だから。俺が拾う方の役目をやったりしてな。親父が鏡を覗いて採っているのを見てっから、「あー、こうしたら採れるな」ってわかるわけよ。自ずとして。

今はさ、設備もよくなったんで一つの船に一人だ。みんな、いっぱい船が出んだもん。船外機、スラスターがあるからな。バッテリーで、前さ後ろさ行く。それでもって船を操りながら、自分で鏡見てかがんで、見つければ、長い竿を降ろして採るわけさ。口も足も手も使うの。仕組みが変わったんだよな。10年くらい前からだ。

定められた日、時間、量を守って -震災がなければ、今のウニが一番-

ウニとかアワビは養殖できないから、稚貝を放流すんだけども。三人で採っていた頃は、決められた量じゃなかった。腕次第。アワビもウニも。採る場所は、今の船で5分か10分いった所だ。場所によってさ、4月頃はこの辺がウニの実入りがいいよと。7月頃になるとこっちがいいとかあんのよ。4、5、6月と、岸から離れた方にずれていくんだ。そっちの方が深いんだ。親父から教わってきて、あ、なるほどなと。ま、でもみんなで情報交換もするからな。

今は、アワビはいつも採られるわけでねぇの。口開けがあんの。アワビは11月から1月だ。漁協で、明日アワビの口開けをします、出漁してもいいですよと。操業時間も決められてんのさ。午前7時から10時までとかさ。

ウニもそうだよ。ウニは4月から7月な。一週間に月と木。日の出から午前7時まで。ただし、決められたかごがあんの。一杯だけとかな。腕が良ければ、5時とか6時にいっぱいになって。俺ゃあもう、ぎりぎりいっぱいまで。「おーい、7時だぞ!」って言われんの(笑)だから腕が良くて、早くいいウニが採れると儲かるの。箱いっぱいにならない時もあるからな。一個か二個ってこともあるし。あー今日だめだって思ったら帰ってくるのさ。

アワビみたいにさ、日和をみて、凪がいい時揚げるというのとは違うんだよな。ウニは決まった日だから、雨が降る時もあるし、波の時もあるし、時化(しけ)があったり、海中の透明度がよくなかったり。震災がなければ、今ウニだ。今のウニが一番おいしいんだよ。

ウニは箱で、作業場に持って来て剥いて、実洗って綺麗にして売るんだ。品質が厳しいから、水温10度以下に保って持って来いと。持ってきて、「衛さん、水温高いよ。もうちょっと下げて。」っていわれる場合もあるわけよ。鮮度を保つためね、自分の家の冷凍庫に海水を汲んできて、凍らせて、凍ったのを船に持って行って。だから、手がかかるんだよすごく。集荷は11時までだ。業者が取りにくるから。箱一杯でだいだい5キロ~6キロくらいになるかな。一キロ9,000~一万円だ。アワビは手がかかんないんだよな。採ればそのまますぐ集荷だからな。

子どもの頃よりは、ウニも採れなくなったな。でもあの頃はさ、サケマスとかさ、サンマとかさ、大型漁船に乗っている人の方が多かったんだよ。

帆待ち銭 -へそくりって、方言でなんて言うか知ってるか?-

東京ではさ、へそくりあるだろ。ここでは何で言うか知ってるか、方言で。教えるか。帆待ち銭。なんだかわかるか?

昔の船は、帆で走ったべ。風で。風がない時は船が走らないから、風を待つわけよ。これはもう、自然の条件で航海ができないから、本来なら航海していないから一銭もあげなくてもいいんだけども、お前たちも大変だろうから、何銭かあげると。一銭でも二銭でも。それを貯めといて、無駄に使うなと。へそくりとして持って、何かの時の為に使えと。まさに、帆を待つことで頂戴したお金がへそくりになるんだ。

帆待ち船の語源は、前川善兵衛さんだという話があるんだ。1600年代におった人で、彼は三陸の海産物の行商の先駆者だな。干しアワビとか、三陸の俵物をな、関西、関東方面に千石船を駆使して運んだと言われ、西の紀伊国屋文左衛門、東の前川善兵衛と言われたんだ。財力があったのさ。そして、人を大事にした。そういう風土が、吉里吉里に根付いてるっていう人もあんの。

願うこと -海の底を見てみたい-

海もさ、復活して欲しいし。なんたって1次産業がここはやっぱり海なんだから。それなかったら、景気がよくなんないからさ。明るくならないからな。海を復活させて、若い人たちがな、やっぱり早く収入を得られるようにしていかなくちゃな。

俺は、そうだな。海の底を見てみたい。箱メガネでな。早く。どうなってっか。どんな状況かな。遺体がいるかもわかんねぇな…。だけど、ウニがちゃんと生きてるかってな。

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