私は釜石稔(かまいしみのる)といいます。生まれは昭和21年12月13日。ここで生まれてな、離れたのは4年間だけさ。大学さ行ったんだけど、そん時だけさ。帰ってくるのが条件で出してもらったから仕方ねく。
今はそこの出光のガソリンスタンドを経営してんだけどさ。ガソリンスタンドを始めたのは俺が大学2年のときだから、昭和40年10月1日。前は中の通りでやってたから。前は国道が無かったからさ、これは45年に開通したから、国体のために。国道沿いでの営業は、俺が帰ったときからさ。
家族はうちの女房が18年前にお星様になって、いまは長女も嫁ぎ先のほうに、釜石市小佐野の学童保育やっててさ、もうそっちに嫁さんに行ってるからさ、孫も。そっちも皆元気で。次女も仙台で、そっちも、それなりに相手がいる。後は長男だけまだ、末っ子だから、いま28だか、9だか。仙台にいる。
実家と生家-家をつなぐということ
おやじはひとりっこで、一族の総本家さ養子にいって、そこは子どもが無かったからさ、俺はもとのうちさ戻ったのさ。両方を継続しなきゃなんねからさ。兄弟は5人だけど、実際は俺はもう生まれた時からよそのうち入ったからさ。よそのうちったって実際は本当のおじいさん家さ。昔の家はさよくそういうことやったんさ。つないでいくためにさ。おやじの弟として、戸籍に入ったの。生まれた時からさ、戸籍はおやじの弟になってっけど、実際じいさんばあさんと一緒に暮らしたのは小学校5年から。あどはずーっと兄弟と別れて年寄りと。
じいさんは高校も反対したんだから。自分がさ早稲田、かっての東京専門学校ていってさ。自分が学校さ1日もいかねえで、金送れー金送れーってさ。で客船でアルバイトみたいなことやって世界一周やってみたりさ。そんなことばっかやっててさ、東京さ行くとロクなもんにならねえって。で、実の父親が、かわいそうだから俺がやっからって、金のかかる入学金だのなんだかって。金のかからなくなると、俺の方さ戻ってこいってじいさんが、だって皆親子なんだからさて。ずるすけなんだ。いまは一族の総本家は弟が継いでる。それも流されたんだ、ローソンの後ろだったからさ。
実家の生業:戦前
実家は戦前は漁業やってた。吉里吉里では戦後はもう船は復活したったけどさ、うちでは乗る人もいないし、皆全部徴用で戦争に行ったからさ、そいでハ、やめてったの。戦後はもう一切海から手えひいたから。それでも、それなりに海岸さ遊びさ行くと、昔じいさんに世話になったのが、これ持ってけっていろんなもの、魚をさ、家族で一日食べる分ぐらいは、ちっちゃこいバケツにくれた。
戦前はね、全員雇ってた。一人も乗組員は家族からは出てない。じいさん自らも乗ってもいない。船は3隻あって、それぞれに10何人ずつ乗って、信頼できるやつを一人ずつ船頭にして、やったらしんだけど。俺は話でしか知らんから。それが運が良かったのは、上手くあたったらしんだ。その頃はスケソウダラ、北洋サケ、マス、イカ、そういう感じでなかったんでねべか、話にしか聞いたことねえからな。
そして、戦争で乗組員みんな持ってかれた。徴用ってやつで持ってかれた。それでもう、全部船を離して。それで50年ぐらい資産を切り売りしながら、生きてきた。それでも50年生きたからまあまあ、それでも困んないようになってたから、もっともっとあったんだ。
そして戦後、みんな戦地から帰ってきても、もう漁業に手え出さなかった。やっぱ心境の変化でしょう、おそらくね。昭和38年を境にして船は自分の家から家族が兄弟たくさんいてやった人だけが成功した。あんまり漁もよくながったからね。どうだったかな、人の運勢だからね、わがんねけど。
実家の生業:戦後
昔は現金収入ってそんなにねえんだ。うちでは豆腐。それだってほんのちょっとね。お店でその日さばける程度やる。あとはうちらは現金収入てのは、にわとりの卵売りさ、店さ卸す程度で。
田畑は、うんまあ、一応ね。内陸からみればはずかしいアレだけれど。一応、私が生まれた家は、それなりに、一番二番くらいの田んぼ持っててさ、ここではね。内陸さいぐと、ばかばかしい、いやほんとにそうなのよ。うちらは一切売らない、うちの分。ただしよそからも買わないぐらいなわけよ。そして、働いてくれたひとに秋に日当を。そのくらい。
畑はあちこちにあって。麦、野菜、大根…みんな作ってたよ。農作業に関する物はそうそう買ってないから。ただ出荷はできない、家族を賄うぐらい。手伝いもしたした。いまは全然横着でなんもしねえ。
子どもたちの遊び-獲ったり、盗ったり?
遊びっていえばさ、戦争ごっこ。あとは、海に行けば皆は、上手な人は、素潜りでそれなりに。みんなそれなりに。今みたいに1個5万円とかの罰金でもねえしさ。当時から規制はあったんですよ。だけど周りの大人もさ、「よそもってかねで食べる分だけ獲れよ」ってさ、皆おおらかな状態でさ。俺はふつうにね。泳ぐ程度でね。悪さはとにかくあまりしなくても、ものは手に入る立場だったから、身体が弱かったから。でも周りはちゃんと、今みたいに意地悪するものもいなかったし。それに自然のものはみんなでわかちあい。
あと一番子どもの頃、よく同級生はみんなやったんだけど俺経験のねえのは、りんご泥棒だけねえんだ。ここら辺はりんごはどこでも作ってた。小学校の通りにある果樹園なんかちょうどね、あそこのおやじなんかいつも怒鳴って、だって手の届くところハ、収穫にならねんだ。昔はね。そういうのを俺の同級生はとるわけだ。だけど、俺はうちにもう食べきれないくらいあるし、親戚は皆どこのうちでも果樹園やってたから、だまってても「ほれ、勝手にとって食べろ」って。
体の弱かった子ども時代 ―生死の境を彷徨ったことも―
子どもの頃はどうしようもなかった。生まれはきちんとしてたんだけどさ、満一歳の母親の免疫がなくなっとき、あの当時急性感冒っていうのが全国的にはやっててさ。大事にされすぎてさ、なにしろ50年ぶりの男の子だから、両方のうちのさ。高熱で目もやられたしさ。そのとき頭さ上がったりとかいろいろあったのさ、あちこち。だけどま、運良く助かったような形だ。
だから小学校5年までは、午前中具合悪くて、今の大槌小学校のすぐ前の、あそこの病院にいてさ、今日午前中調子いいなーと思って学校行ってもお昼頃になると、具合悪くなって。ずーーっと小学校4年生までそういう暮らしをしてた。1歳の頃なんか、いま死ぬところだからって、医者なんて相手にしない。まだ生きてたのかって。お医者さんたちがよくスクーターで山道をトコトコトコって。
ようやく元気な子どもになって…
生きてげるような形になったから、小学5年から祖父の家に入った。生まれる前からの約束だから。別に疑問も感じなかったけどな。ただそういう運命だと。ただいい気分では無かった。だからおふくろは俺に対して申し訳なかったとか。おふくろが最期になって病院で看病されてる時にさ、俺が看病につくと遠慮して静かになんだけど、あとの連中がつくともう暴れ放題暴れたらしんだ。俺に対しては申し訳ないという気持ちなんだべと。蜘蛛膜下だったからさ。俺に対してだけ、遠慮があったのかもしれない。おふくろは満で言えば74歳だった。女にしてはちょっと早かった、ちょこっとね。たくさんだていえばたくさんだけどさ。
家族:妻と娘二人、息子一人 ―妻の闘病―
うちの女房みたいに、それこそ44、5歳で逝く場合もあんだっけ。こっちもまた大変だったからさ。蜘蛛膜下じゃない、もっとひどいんだ。膠原病ていうやつで特定疾患だったんだから。だから…どうしようもねぇ。
女房は、最初は、風邪で間違って治療やって。普通はほとっど、似でる症状らしんだっけな。最初は風邪のぬけない、長引く感じから始まるらしい。なんか身体が重っくるしく、そういう感じ。風邪だ風邪だ、本人もそう思ってるし、医者もそう治療始めるから。で、ちょっと進んでくっとリュウマチに間違われんだ。リュウマチだって結構ひどいらしんだけどさ。治療の薬を間違って、劇症肝炎起こしてしまって。それで医者が慌てて、医大で検査したら、いや違うと。だから、一年半ぐらい間違われて治療したった。それが見つかってからは7、8年ぐらいは生きだったけど。今は少しはよくなってんだけど、あの頃だって2割の人はちゃんと回復して。
釜石流子育て
うちの女房が亡くなった時、末っ子は小学校5年だったからな、大きい子は高校2年かな。私は反面教師。俺は甘く育てられた、甘く育っどこういうふうに結果になるからってさ。いや、息子は小学校5年から2人の姉ちゃん、私の分の食事をずーーっとさ作って。小学校5年の男の子が毎日、特に冬の水、おとうさん手ぇつめてえって泣いたときは代わってやっかなーと思った。いまは日本は母子家庭に援助はあるけど父子家庭ってやっと最近出てきたけど、当時考えらんなかったわけださ。一週間に一回、町で4人分の食事運んでくんねかなと何回も思ったった、やっぱり。
息子にはこればっかし教えたんだ。人間にはバイオリズムがあって、おまえはいま確かに大変だけど、いつかこう(上向きに)なっからって。で、父さんはちやほやされすぎてだから今こうなってやんだって。これが要するに死ぬまでにプラスマイナスゼロになってりゃいんだから、だから35歳まで遊ばせるつもりだったのさ。こんな震災で予定狂ったのさ。
早い話、震災があって、億までいかねけどさ、約億に近い金を借金すんのに、あんたにはもう歳がなくて貸せないからって、あんたの資産は全部おさえてっから、保証人になって、弟さんか息子さんに社長替えろと。これはすごくスムーズな。そいでハー、早くするにはその方法しかないからさ。弟さ言ったっきゃー、なに、息子に言えばいいっておらそんな責任取りたくないって。んだから、息子がいいよって言うから。あっちのすぺとぺ(後始末)全部やってから来いよって、きちんと仕事とか何か次の人さ迷惑かかんねえようにしてから来いよって。
人生なにが起こるかわからない、わからないからいんじゃない
本来、こうじゃなかったからさ、もっと理想的なのはさ。本人もさ、どっちみち帰ってくるつもりだったのさ。だから、うちを出すとき、18のとき、とにかく35まで遊んで来いよって、出したのさ。そのつもりだったのさ。そうすっとバランス的にあうからさ。
だから、結局、人生こんなもんですよ。だって自分の思い通りにいったらおもしろくも。その通りになんねえのが人生。だって女房失ったり、そういう風なとんでも、国の面倒見るような病気になって、予定外な。それで最初っから分かってて、一緒になる?そりゃ恋愛だったら別だけどもさ。だから、そんなもんですよ。だがらおもしろいんじゃない。
ただ、息子には申し訳ない。ちょっと、なんぼだ、7年ぐらい早かったのかな。おれはばかちょん(息子)にはさ、いよいよ一人で帰ってこられてはまずいから、彼女はいらないから、孫をペリカン便で送ってよこせって、一人ぐらいなんとかなるからさ、って。したら、ばかおやじ、彼女がいねえのに孫だけ出るわけねえだろって(笑)。
大所帯と一人暮らし
18年一人でいだとこさ、私の兄弟の家全部流されたために9人兄弟たち、子どもたちら来たけど。今回さ、津波で、人は誰も全兄弟、子どもたち、孫、全部助かってるけど、家が全部ながされちゃって。で俺の家だけが残って、だから奥座敷は合宿状態。で、しかも皆それぞれほれ、いいとこ見つけてハ、皆勝手にいなくなって。また結局さ18年間とおんなじ、一人に戻された。ある日突然。もともと俺のいだった家は9人家族でさ、一挙に3人暮らしで、そして結婚したってそういうふうに、女房はお星様になって。
あの日 3月11日 ―弁当が―
自分とこのガソリンスタンドにいて、ああまともな地震じゃねえな、と。昼飯いつも15時だから、あぁこりゃやばいな、飯食べとかねばねぇなと思って弁当開いてさ、二口食べたっけさー、前から「津波だー!」ってさ。もう、あの時の弁当、いまだにさ惜しくてさ。
そっで外さ出たわけだ、国道のとこさ。そしたらちょうど公民館からちょっと上に、2月頃引っ越してきた新築した家があるんですよ。それがね、ふあーっと浮いたのさ。ローソンと公民館の間ぐらいに家がある。だからローソンよりほんのちょっと下だよ。それですらさ、うちのスタンドにさ来るっつー気持ちはぜんっぜん無かった。さらっさら。うあー気の毒になー、あの子だち、若いもんだからさ、気の毒になーって見ながらさ、静かに走ってて。で、消防が下から俺んとこさ「釜石さん何してんの早く逃げろー!」ってさ。そいでハー、あとは一目散にそこの上山商店ていう、今はもう店やめたけど、あそこに酒屋さんの看板があって、あそこの側さ行ったら、人が全部こっちを向いてて、で、あ、ここまでは来ないんだなー。で、後はゆっくり走って。それで見だどきは、振り返った時は、うちのスタンドはキャノピーって、屋根があんでしょ。あれがよその家があだって、そのまま20mぐらい国道塞いでしまったわけだ。ほしてあど、立派な家が3軒さその下さ、ドンドンドンてハー、おさまってしまってさ。んだから相当の破壊力なんだね。 あどは下からきたのは、下の壁にそのままぶつかって、うちのスタンドの上に、よその2階がドンて一挙にのっかっててさ。ハハハー、ハハハー!
そして、そこの中学校から降りたところから5、6m下が最高到達点になってるからね。それも国土地理院の打ってった杭があるけど。
まさか来るとは
だけど正直ぃ、地震がおぎたときはスタンドにおったんだけども、あそこまでぇ津波が来るっていう、ゆめゆめ思わなかったす。昭和8年のときも35年の時も、あの下だったからさ、しかも私は2m以上土盛りしてる。前の地盤でさえ来てないからさ。さらに2mも国道の高さに合わせて作ったからさ。ゆめゆめくるとは思わなかったわけだ、あそこまで。しかも当時は今みたいな立派な堤防があるわけじゃなしさ。
商売道具のローリー車
あの日たまたま3kl灯油頼まれてさ、うちのローリー1klしかはいんないからさ、2kl配達終わって3回目の計って180ぐらいの辺りで、津波だーって言うんでハそのまま。それこそ古いローリーばっかり助かって。新しい方のローリーは海に持ってかれてしまって。ハハハハー!
あどは、個人の車はみんな、従業員の車も、やー気の毒してさ。俺だけのって思うと仕方ないけどさ、従業員の車もみんなハ、どこさかいったか分からない。だからまったく一番最っ高古いローリー1台だけ。ハハハハー!案の定ハー、このまえ故障してさ(笑)。あのローリー、使えなくなって。前は車5台あったんだけど。いま仕方ねえ、ポリ缶で配達して、ポリ缶配りながら。
自宅が沼に
いつぐらい行ったのかなー、だいぶハ薄暗くなってからだけど。こっち(スタンド)の方、大体の目途つけてから行ったからさ。まだ手元はきちんと見えてる時間。で、家どうなったべかなーと思って見だときはもうハー、通常の道は通れなくてさ、駅の方からぐるーっと廻ってさ、私の家は駅からすぐ下だけどさ、うちさいったらもう、ちょうど庭がさ、くるぶしのあたりまで沼になっててさ。ほして、その時乾燥しておったから、「水が湧くように」の逆さ、水が浸透してやったの、ぶくぶくぶくぶく音してさ。そして石垣は破壊、ブロックは破壊、あとは付属の建物も1箇所だけ破壊したった。あとはよその家が3軒うちの庭さ飛び込んできたった。瓦礫も。それらは後で自衛隊の方から降ろしてもらったけどさ。
住民が感じる吉里吉里の地盤
ほいで、うちは堤防の、海側にも数カ所、戦前は船かけておった関係で土地があんだけどさ、もう今は完全に波の、ハハ、波打ち際で、無価値だ。あれは規定で、波打ちの何mは自動的に国のもんになって。だけど、それを売買しないかぎりは、新潟沖みたいに隆起して、太平洋側が下がってきて、新潟が上がってきて、それで昔の所有者が復活してるの。そういう形になっかもわかんねの。
ここも国土地理院の発表では78cm地盤沈下したって発表になってっけど。俺が聞いた漁師だちからの、うちのスタンド来てお客さんで来てる人だちの話では、「いやハー、どう見たって1m30cm以上は沈下してる」て話が専らなの。ま、素人だからさ、国土地理院のは正しんだろうけどね。ただ、生活感つの、要するに肌で感じる人だちの話しぶり。「なん…どう見たって、あそこの堤防の波の水面はここだったのに、(今は)ここだ」とかさ。生活感からいえば1m30cmはここは沈下してんじゃないかなーと思ってるんだけどね。
被災したスタンドからの営業再開まで ―震災直後の混乱―
とにかく町内全店が閉店、破壊したからさ、ガソリンスタンド。9件あったけど、もう全部…。まあ1件だけ金沢地区の農協さんの、ただそこは灯油が専門で、ガソリン・軽油は春先と必要な時だけドラムで三本ずつ持ってきて、600リッター。
震災にあったときはさ、金沢農協に油があるって噂になって、それがほれ今はインターネットだの早いから、皆困っててさ、全部行ったの。なに、600リッターなんて、すぐだからさ、二時間だか三時間で、パア。灯油はさ、きちんと持ってるんだけど、地下タンクに。だけど、そういう車に関しての方は無がった。だから結局町内全部供給ストップしてさ。一時的だけど。
そして、セルフスタンドのあれが、弘前の方が経営されてるんだけどさ。その人はお利口さんだった。岩手県の対策本部にすぐ電話した。在庫も施設も無償で貸すから、復旧してくれって。なかなかなー、それなりの規模の会社のスタッフは考え方が違うんだね。いろんなどこの情報も入ってくるでしょ。我々は被災そのものだから。彼らはただ3人4人だけさ、雇っておるから。もちろん、ここだけでなくあちこちに店舗を持ってるからさ。んだからぁ、お利口さんだなって。我々も無償でやるって言ったけども、県が、全部押えてしまったからさ。輸送基地がある、釜石に。あれを岩手県が押えてしまった。それで各市町村に無償でやったから。だから、うちのなんかいらんわけだ。んだからぁ、しょうがねえからうちらは自力でやることんなったのさ。
ガソリンスタンドの40年50年問題
今回の震災は抜きにして、ガソリンスタンドがいま40年50年問題っていうのがある。地下タンクが40年経てばこういう設備しなきゃだめですよ、とかさ、50年たったら一切こういう事しなきゃだめですよとかさ、そういう消防法が今年の2月の1日から施行になった。私んとこは38年間。あと2年。そうすっとあと280万かければあと10年間やれるんだ。そして50年になれば1000万かけなきゃ、だめなんだ。あとは50年過ぎれば解体して、面積にもよるけど、ちょっと大きすぎるからさ、この辺のスタンドにしては。それなりにさ、かけなきゃだめですよって、いろいろ段階があったんですよ。
営業許可はあっさり
だけど、そんなのを抜きにしてさ、消防の連中が「はい、合格です」って持ってきたときにはさ、いまのスタイルでさ。「おまな!こんなので合格なんて人をばかにすんな!」って俺。
春と秋の火防週間ていうのがあるんですよ、いま全国指定ですから、消防庁の主催だから。その時ちゃんと立ち入り検査ってあるわけだ。その時はちょっとしたぁひび割れでもなんでも始末書書かされて、40年間。こんなのの合格だったら今までのスタンドは優等生だべって、大笑いしてさ。いやいやとにかく合格ですから、どうぞ3年間がんばってくださいってさ。
スタンドはハ全壊だから。も何もない。キャノピーから計量器から一切。たまたまうちの場合、地下タンクが健在で、検査したら生きておったから。ま、それでも多少あれだったけど。
普通はだいたい箱形のさブロックの高さが2mで、消防規制法で囲った形でやってるわけだ。消防法も周りには何もないのが条件。4m以上建物が無いのが大前提で、特殊な形で認めてるわけだ、今んとこのやり方は。4mどころか、なに、100m以上何もねんだもの。ハハ。
キャノピーも、うちが問題で国道45号塞いだとなっと、あどあど良ぐねぇからさ(笑)。震災の次の次の日、自衛隊が岩手県から10人入ったのさ、で部落の人たち20人ぐらい募って、エンヤサー!エンヤサー!で、キャノピーを下の畑に降ろしたのさ。あどは立派な家だったけど、3軒は、重機で壊して、国道は開通。インフラ整備ていう形で。
営業再開、お客さんは…
営業再開は5月中さ、比較的早い。いまはブロックも何もさー、塀も何もなく、そのままのさSPっていう簡易計量器って特殊な計量器で営業してるけどさ。発電機を使って一端地下からそれに汲み上げて、そっでそれから販売って。簡易計量器もいろいろ様々あってさ、特に新潟の大きい地震以降でさ、まったく緊急のやり方でやったスタイルらしい。
日曜は定休日じゃなかったんだけど、もう震災以降さ、ほれSPでやってるから手書きなんだよ全部。疲れんだよ。昔みたいなコンピューターでハ、給油終われば全て無断で東京の中央センターで処理してやるやり方じゃないから。んだから、しばらくの間日曜休みにしようということで。
営業は日曜以外毎日。金がねえから品物切らしてさ、おかげ様で結構みんなに助けてもらって、売れすぎて。ただ悪いことに、金さ入ってこねんだ。みんなツケで。顔でやるもんだから(笑)。で、仕入れるときはタダじゃ誰もよこさないから。品物しょっちゅう切らして、恥ばっかしかいて。
復興までの壁、「規制」
自宅はほら日本建築で、私の家は高床式だから。下にはほら瓦礫は入ったっけども、うちには一滴も入んねんだよ。んだから、全然援助の対象外だ。自宅のさ石垣もブロックも、あどは付属の建物もやられたけど。とにかく住んでるとこが1階が浸水すれば、半壊。あどは2階がいわゆる全壊とかね。もちろん1階建てが1階であれば全壊。そして、あくまでも住居に関してだけ、出しますからって言われて、そういう商売の物とか付属の建物は出せないっていわれてさ。だから、われわれは一銭もハ。行政から見放されたような形。ま、べつに金くれじゃねけどさ、けなくてもいから、けね人には規制かけんなっての。だって生活するためにはさ、もらった人どかはそやって生きていけっけども。俺はもう収入がねんだから生きていけねんだからさ。だから自力で復活するほかねんだ。だけど、いっぱひとからげに、津波が到達したところまでは、新たに建物を建てるのはご遠慮下さいって。
おそらく堤防は最終的には20年はかかっと思うね。元のか元よりは高くしなきゃなんね。
その前に、国道の一番低いどこ1m30cmに上げて、水平にそれで盛ってく。そして、それより水平よりともかく50cmでも1m以上でも高く盛った人にはさ、民間もさ、建築許可を許した方がいい気がするけどな。そうでなきゃさ、いつまでも、いつまでも進まねんだっけ。早くあれだな具体的な数字だされるとこっちゃやりやすいんだっけな。規制するならさ、3年はだめだけど、いつになったら解除するんだかさ。
自分はたとえば今ここで、タダでないわけだ、ものすごい金使って本格的なスタンドに直そうとしたけど、もし直した後にさ、国道が1m30cmも上げられたら、もう。全面的にまたやり直すとなったら大変な話。いまさらこの歳で商売替えも無いしさ。
我々営業再開のために一応直したけどもさ。ここまではいんだけど、これよりやると、あと本格的なスタイルになる。2月に施行された法律に基づいたスタイルでやるんだ、そうなれば生半可じゃないわけだ。その間2重ローンになってもさ、いざ始めようとしたとき、国は国道は2m上げます3m上げます、堤防は20年後に完成です、って言われたら話になんない。だから数字でさ。お金の援助はもういいが、こっちも諦めたからさ。