魚釣りが大好き

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年寄りといると、いろんな技術なんかが脈々とつながっていくわけですよ。
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Tokyo Foudation
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岩手県大槌町吉里吉里地区
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Interviewee: 平野栄紀さん, Interviewer: 大崎智子
Language
Japanese
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Japanese Title
魚釣りが大好き
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自己紹介

名前は平野栄紀(ひらのえいき)です。生年月日は昭和29年4月14日で57歳です。吉里吉里に生まれて、吉里吉里で小学校、中学校を卒業し、釜石北高校に行きました。仕事は保険の代理店業、損害保険業をやっています。自営なんですけれども、釜石に事務所があります。

自宅は吉里吉里1丁目にありました。国道45号をちょっと下りたところに、今ローソンさんが仮設で営業してるんですけれども、そのすぐ裏ですね。家は全壊しました。家族は両親と私と家内、娘の5人家族でした。大槌町の大ヶ口(おがくち)っていう地区に弟の家がありまして、今はそこにいます。家内と娘は仮設にいます。

鉄の町、釜石で働く

親父は外国航路の船乗りでした。やっぱり親父に憧れて、船の乗組員を養成する学校に入ろうかと受験をしたったんですけれどもその学校に入れなくて。それは諦めて、高校を卒業して8年はサラリーマンしてらったんでね。新日鐵構内の中の会社で、機械工業とかの営業をしてました。釜石は昔から鉄で栄えた町なんですよ、鉄の城下町。県外からも働きに来てる人たちがいたから寄せ集めの町だよね。

私が勤めていたった会社も、ほんとに景気のいいときにはボーナスが4回出てましたねぇ。みんな鉄の恩恵を受けてらったんですね。このへんでも結構働いている人たち多かったですからね。朝行った人は夕方の4時くらい、夕方の4時くらいから夜中の11時くらい、夜中の11時くらいから朝の8時くらいまで、って三交代で働くんです。私が小さい頃は、釜石の町は煤煙がひどくて洗濯物も干してらんない、車も真っ黒になってね。空気も悪かったし、釜石っていうとすごい煙の町だった。

保険の仕事は28歳のときからやってます。私57歳ですから今年で29年ですね。「30歳までには独立して」なんてことを考えてらったんで、資本金なくてできる仕事って言ったらこの仕事だったんです。当時自動車の需要が増えて来た時代で、自分も車の保険に入ってらったもんですから、こういう仕事あるからしてみないかって言われて。前と同じ営業の仕事して、給料が3倍くらいになったんですから、自分の力でお金が入って来るのがおもしろかった。

震災に遭って…

震災の日はお客さんのところで地震に遭いました。一日目は釜石で一晩。私の家内は職場が釜石の新日鐵構内にある企業だったんで、朝起きて見に行ったら家内は車のなかで毛布かぶって寝てらったんで、まぁ生きてらなぁということで。俺孫心配だからひとまず大槌に戻るからって、歩いて一日ぐらいかかって大槌町に戻って来ました。親父が親戚の家にいたんで「おふくろは?」って聞いたら、「見えない」。「あぁ、そうか」じゃあ、まぁ多分ダメだろう、って。親父は買い物に行ってたみたいで親父は助かった。おふくろが家におったんでダメでしたね。私には子どもが3人おりまして、長男夫婦、次男夫婦と孫3人、娘は無事でした。

仕事は自動車保険と火災保険がメインなんですけれども、この津波で自動車が流されたりしてますよね、すると保険の契約を解約しなきゃならない。だから仕事は忙しいですよぉ。とんでもなく忙しらった。当初電話も携帯も通じなかったし、お客さんにも連絡の取りようがなかったんですよねぇ。事務所も当然流されてないですから、会社立ち上がるまで約1ヶ月くらいかかりました。保険金を支払うのに調査をしなくちゃいけませんから、避難所とかを回って「どこだべな?」ってお客さんを探して。安否の確認にすんごい時間がかかりました。うちもおふくろが亡くなってますから「じゃあ、おたくも大変ですねぇ」みたいな言い方されたりですとかねぇ。5月末までで全部、火災保険、地震保険の支払い、口座への振り込みが終わりました。だいぶ感謝されらった。ただやっぱり保険を付けてない人もいますから。

町内会長として

吉里吉里には町内会が5つあるんですね。1丁目、2丁目、3丁目、あと4丁目が西側の金道育成会と北側の若葉会2つに分かれているんですね。この5つの町内会長さんが、結局みんな災害対策の副本部長だってことになって。私は1丁目地区の町内会長やってるんです。

ここは町内会っていうのがすごくしっかりしてまして、大槌の町でいちばん最初に災害対策本部を立ち上げたのがここの地区なんです。役場のほうは全然立ち上がってないような状態ですから。災害対策本部のメンバーは、毎日朝と夜に避難所に集まって会議やってました。朝会議は7時半、夜会議は16時くらいからですね。朝はその日の段取りの確認をして、夕方は行方不明だった人を発見したとかの報告ですね。

当然道路がなきゃ物資の搬入もできないわけですから、とにかく道路を作ろうってなことで、地区の建設業の方にまったくのボランティアで重機を出してもらって。当初避難所は吉里吉里小学校で、そこから国道までの主要道路を確保しようって、震災の翌日から動きました。重機の油もないってことで車から抜いたりですね。

あと食料の確保。この地区の流されたローソンさんの食料とかをもらったり。盛岡のほうに紫波(しわ)町というところがあるんですけれども、そこの地区と30年近く「ふるさと交流会」という事業をしてるんです。小学校の5年生が、夏は海水浴に紫波町の子どもたちが来て、それぞれの家にホームステイする。秋には吉里吉里の子どもたちが稲刈り体験に行くんですね。そこの地区の人たちが心配してくれて、いちばん最初にお米なんか届けてくれたり。水はこの地区に沢水みたいな湧水が結構あるんで、それを溜めて沸かして飲んでました。

それから安否確認ですね。そんなに広い地区じゃないから地区の皆さんの顔と名前はほとんど分かります。1丁目地区では132戸あったうち残ってるのが50戸あるかないかですけど、当初はそこに180人くらいいました。この在宅の人たちへの食料配布も自主的にやりました。組織がちゃんととしてるから、すぐ在宅の人の把握ができたわけです。6月24日に町の食料配布が終わるころには、在宅の避難者は100人弱に減りましたね。

子ども時代の思い出

子どものときは自然を相手にした遊びをしてましたねぇ。このへんの木に登ったり日が暮れるまで外で遊んでましたよ、ちっさいころは。夏は男の子は海水浴行って、素潜りでウニとかアワビとかとってそのまんま食べたり、焼いて食べたり。女の子はしないけどね。みんなそれぞれちゃんと泳ぎはできてらったし。

親父は大阪商船ってところで働いてらったんです。私が小さかった当時は仕事が忙しかったんで、親父が日本に帰って来るのは半年に1回ぐらいでとかいう感じで。おふくろは親父が帰って来れば子どもたちを連れて親父に会いに行くわけですねぇ。兄弟は、私、弟、妹、妹の4人です。電車なんてない時代ですからね、一晩かけて夜行で。横浜、神戸、大阪、名古屋…日本中どこでもおふくろと行きましたよ。それこそこっちから見れば都会です。だから都会には全然憧れなかった。

あとは休暇で1、2ヶ月、親父が家にいるわけです。だからほとんど母子家庭みたいなもんで育ちました。小さい頃は、「なんで家は親父がいない…」「たまに帰って来るこの人、どこの人なんだろう?」って思いましたよぉ。

少し大きくなって親父の仕事に憧れたのは、ただで世界に行けるでしょう、それこそ世界の海を回れるんです。台湾、香港、シンガポール、ヨーロッパとか、立ち寄った港から手紙をよこすわけですね。それからお土産をいろいろ買って来てくれまして。私が小さい頃はバナナなんてなかったですからね。親父はこっちを出るとき木箱にりんごを詰めて行って、帰り台湾でバナナを入れて帰って来る。当時は宅急便なんてないですから、駅から駅に送ってよこすんです。そして私がリヤカー引いて、ここの村の駅に荷物を取りに行くんですよ。だから缶ミルク、チョコレート、日本や外国のおもちゃ…地元にないものがけっこうありましたねぇ。一口チョコみたいなのをポケットに入れて遊びに行って、自分より小さい子どもにやったりしました。

おふくろは水産加工のお手伝いしたりもしましたけど、親父は給料取りで毎月決まったものが入って来るわけだし、そんなに働かなくたってよかった。だからうちは恵まれていたんです。

吉里吉里の魅力

私も漁業権あるんですよ。おじいちゃんが漁師だったんで、おじいちゃんが亡くなっておじいちゃんの漁業権を親父に書き換えて、親父も85歳ですから親父の漁業権を私に。漁業権ってのは、家族にしか譲渡できない。自分の船もありました、当然船も流されてますよねぇ。ほんとに小さな(両腕を広げて)このくらいの船。16尺ですからすごいちっさい船。私みたいなのは仕事の合間に趣味でやるんですけど、もちろん海好きだから。

今ちょうどウニの時期なんです。ウニ漁は5月から8月の初めまでの月木って決まってます。

朝の3時くらいに起きて漁に出て、6時、7時くらいまで漁をして。帰って来て、ウニの殻を剥いて身だけ出して、それを選定して吉里吉里漁港の組合に出荷するわけです。その作業をうちのおふくろと二人でやって。私は自営業ですから時間関係ないですからね。ウニの値段はその日の入札で決まってるんです。その日の水揚げに対しての金額が、だいたい1週間から10日くらいで自分の口座に振り込まれるんです。体のいいアルバイトです。

漁のやり方は、小さなときからおじいちゃんや親戚の人に連れて行ってもらって、身についてるんです。昔船にエンジンがない時代には、櫓(ろ)で漕いだりしました。それも好きでなきゃできないですけどね。兄弟のなかでも漁に連れて行かれたのは私だけでした。うちの親父は次男なんですけれども、親父の兄貴が船で遭難して亡くなったんで、親父が跡継いでおじいちゃんと同居してたんですね。年寄りといると、いろんな技術なんかが脈々とつながっていくわけですよ。

漁業はまたやりたいですよぉ。すぐ船を買おうと思ってます。保険が下りただけでは船買えないんで当然借金してね。漁業は趣味ですから、趣味にはお金かけなくちゃ。そのために今この仕事でがんばってる。今の時期だとカレイやアイナメが釣れますよ。土曜日とか日曜日に釣りに行くんです、朝早ーくから。いいですよぉー、すごく。冷えたビールとか飲みながら魚釣りして、それで1週間のストレスを発散するんです。

今度秋になるとサケだねぇ。筋子からイクラを作って贈り物にしたり。イクラは醤油漬けか塩漬けにします。醤油漬けは醤油を1回沸騰させて少し冷ましたところに漬けてね。どっちもご飯で食べます。

冬場は海が荒れるねぇ。11月、12月のアワビ漁ってのは気温は氷点下になってとっても寒い。5時か5時半、6時、夜明け前に行きます。自分の場所ってもんがあるからね、人より先にここにいそうだって漁場に行くわけですよ。ウニとアワビの漁場はおんなじです。アワビは棹の先に鉤(かぎ)がついたもので獲るんです。箱メガネで海中を覗いて、アワビに鉤をかけて引き揚げるんです。アワビはキロあたり8千円か9千円くらいで買い取ってもらえます。1回の水揚げで10キロとか20キロとか獲れます。ただアワビは、11月に3回、12月に3回って年6回しか獲れない。組合が明日天候良さそうだってときに口開けですよ、って放送をする。当然天候が悪くなりさえすれば、口止めですよ、って放送をする。だから勝手には行かれない。

春はねぇ、漁業の人たちはワカメの収穫ですよ。ちょうど津波のあたりからワカメが採れるんです、ワカメの養殖してるんで。たった1ヶ月の間ですよ。あと1週間から10日で収穫というところで津波が来ちゃったんです。うちも本家はワカメの養殖してらったんで、手伝いに行ったりするとワカメもらえたんです。

吉里吉里は、趣味で漁業をやってる人が結構多いですよぉ。みんな魚釣りが大好きなんですよ。漁業権なくても魚釣りはできるからね。漁業権があるとその魚を出荷できるんです。やっぱり吉里吉里のいいところって言ったら景色がきれいだったし、海岸だってきれいだったし。

あと1年に1回なんですけれども、秋に5地区対抗の大運動会を吉里吉里小学校でやってます。子どもから大人、お年寄りまで何百人参加するんでしょうねぇ? そういうなのに燃える地区なんです、なんかわかんないけど。また夏にはお祭りがあって、各々の町内会で山車が出たり踊りとか郷土芸能をしたり、結構一年のうちに地区を網羅したような行事があるんです。

ここの地区には、神楽(獅子舞)、虎舞、鹿踊り(ししおどり)の3つの郷土芸能の団体があるんですね。私は神楽―獅子舞の会長をやっています。虎舞は佐藤さん、鹿踊りは芳賀さんが会長してます。私はそれ以外に神社の役員、お寺の総代もして、そして町内会長でしょう? そのほかにも大槌町の交通安全指導隊の隊長、釜石警察署管轄の岩手県交通安全推進委員の会長もしてまして。子どもたちが小さい頃はPTAもしてましたでしょう? みんなには趣味だって言われるけど、趣味じゃないです。

そしてこれから…

この仕事は身近な地元の人たちと密着してるわけですから今の仕事で十分です。60歳まであと3年ですから、ゆっくりのんびりとやればいいんだし。ただ自営業ですから、年金が国民年金でしょう? だから将来年金が6万くらいしかもらえないからねぇ。我々の仕事は70歳くらいになっても仕事している人がいっぱいいますから、体さえ丈夫で動ければ死ぬまでこの仕事できるからね。それから津波で家がなくなってるからね。建てて10年だったから、あと15年くらい住宅ローンが残っているわけだし。あとは息子に期待するしかないね。息子に家を建ててもらって息子の家に入れてもらう。やっぱり息子には「お前は長男だ。いずれは親の面倒を見ねばなんねぇんだよ」っていうふうなことでしつけをしてらった。私も長男で親と一緒に暮らしてるんだし、息子もそういう考えでいるわけだし。ただ長男は「親父も働けるうちは働けよ」って言ってます。

子ども育てるときはやっぱり結構お金かかりましたから、昼損害保険の仕事して、夜タクシーのアルバイトしたりね。そうやって3人の子どもたちを育てましたよ、寝ないで働いて。若いときにはがむしゃらに仕事ができたよね。で、今がね、子どもたちも大きくなったし、自分の趣味の魚釣りもできるし、これからはほんとのんびりとした暮らしをね…。だからもう、津波が来たっていうのは、すごーく悔しくてねぇ。来るというのは分かってらったけどね。ここ何年以内に絶対来るよって予想ができてらったんで、来るのは分かってらった。そのためにいろいろ会議もあったんでね。大槌町の防災会議もあったし、地区の防災組織みたいなの作って立ち上げたり、各地区の防災倉庫に発電機、非常食、毛布とかを保管してたり。すぐ来るとは思ってなかったけれども、いずれ来るっていう意識はありましたよ。それがあんまり早く来たもんねぇ、あんまり早く来過ぎた。

明治29年と昭和8年の津波は地区のこの辺まで来たとか、そういう話は聞いてた。だけど当時は防波堤とかそういうようなのもなかったし、今は防波堤があるから来ないんだって意識の人もいた。だけど今度のは堤防も壊して来てるし、予想を越えるとんでもない津波だったんで。来るとは分かってたけど、こんなおっきいのとは思ってなかった。

そして地震ですぐ停電になったでしょう? 町の防災無線も2回聞ごえたか…。だから逃げるときってのは、車のラジオだけが頼りですよ。何メートルの津波が来るとか、全部逃げる途中の車のラジオだけの情報ですよ。もし自家発電装置があれば、もっといっぱいの人に広報できたでしょう? だから町自体がね、我々には防災対策をしろと指導する割には、危機意識が欠けてらった。自分たちの足元っていうのが全然お粗末だった。

この避難所の隣に給食センターがあるんですけれども、これなんかも今年できたんですよ。オール電化で立派なものができた、津波が来てもみんなに食料配給できる、って触れ込みだった。オール電化って地震になればどうなります? 自家発電の装置すらないんですよ。電気がなくなったら自家発電て考えがないとダメでしょう。そういうようなところが悪いんです。これがダメならこうするこれがダメならこうする、っていうね、次の手次の手、ってのを全然考えてないんですよ。ちょっと考えれば気が付くことでしょう? これ作ったからいいだべって。立派なもの立派なもの、ってだけ強調されたけど、実際には大事なものが欠けてらったんです。

ただこれからはそれじゃあダメですね。こういうふうにしたほうがいいんじゃないかって、こっちから提案はしようと思ってます。

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