日常の何でもないことから繋がりを。そして感謝を

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震災前から町内会がかっちりこまめに連絡取り合ってたから、災害があってからの物資の配給とかも頑張れた。
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Tokyo Foudation
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岩手県大槌町吉里吉里地区
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Interviewee: 前川成江さん, Interviewer: 高橋あゆみ
Language
Japanese
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Japanese Title
日常の何でもないことから繋がりを。そして感謝を
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私は前川成江(まえかわまさえ)です。昭和22年1月24日に吉里吉里で生まれて、吉里吉里で育ちました。学生時代は東京に出ましたが、昭和46年に吉里吉里に帰ってきてからはずっとこちらにいます。今は夫と2人で住んでおりますが、それぞれ大阪と千葉に娘と息子がおります。3年ほど早く退職しましたが、ずっと助産師の仕事をしておりました。現在、吉里吉里地区の婦人会の会長をしています。

震災という非日常から見える吉里吉里の人々の繋がり

地震が起きて、車も置いて、携帯とトランジスタラジオとお財布だけ持って走りました。しばらく大きな給湯器とかが揺れてたから、抑えたりして転ばないようにしてたんだけれども…もしかしてこれって大変なことなんじゃないかなって気付いて、高台の小学校に走りました。結局、うちはね、全壊。全部流されました。郵便局の隣だったんだけれど、郵便局も無い。何もない、あそこには。何も残っていなかった。

私、婦人会の会長をしているんですね。やっぱり婦人会っていう立場もあって、いつもは警報が出たりすると、来る訳ないぞっと思っても、デモンストレーションみたいに率先して、学校に行こう行こうって皆をね、先導して逃げる格好をしてたんです。今回もそんなんでいいかなって思って、何も持たないで逃げたんですね。でもこの震災があった。

幸いなことに家族は誰も失いませんでした。ただね、ちょっと思ってることがあるんです。私は看護師、助産師の仕事をしていたんですけれども、退職してから去年までずっと寝たきりの夫の母を家で介護していたんです。去年の3月に亡くなったんだけれど、もし、あのままおばあちゃんを看ていれば、私も亡くなってたかもしれないなって…。

私はこんな時の為に婦人会をやってたんじゃなかったのかな、手伝いしなくちゃって思って、次の日に私が一番最初に避難したお寺さんに恐る恐る行ってみたら、皆炊き出ししてましてね。それで、婦人会として参加した訳ではないんだけれど、婦人会員だったお母さんたちと一緒に50日くらいお手伝いしてきました。私も看護婦さんになってしまってね。まかないと一緒にお勤めさせて頂きました。他の人も、明日から委員を作ってこう運営していこうって避難所で組み分けをした時に、自分に出来るところは手を挙げて。私は保健面のところで『ここだったら出来ます』って手をあげて、保健の係にして頂いたんです。皆、自分で出来る事をしなくちゃっていう気持ちがありましたよね。

津波の被害にあわなくて大概の家が無事だった4丁目の人達は、被災にあった人達を受け入れていました。だから4丁目の班長さん達はどの家に誰が何人いるかを、全部把握して救援物資を渡して歩きました。救援物資が来るまでにはやっぱり2日間くらいかかりましてね。その間はお寺さんと吉里吉里4丁目の町内会の人達が、自分たちの家にあるお米を出してあるだけのおにぎり握って、あっちにもこっちにもって全部に配達してくれました。あと3軒くらいのお魚屋さんがね、電気が来なくて冷蔵庫がダメになっちゃったから、ダメになる前にこれ食べてって持って来てくれたの。そうこうしてるうちに自衛隊がお水を持って来てくれてね。繋がりました。ひもじい思い、しなかった。すばらしいでしょう、吉里吉里は。それはね、いつも日頃からお付き合いしてるから、ほとんど知らない人はいないっていう感じで、いつもの世帯構成もきちっと把握してるから出来ることよね。助け合うんです。老人ケアセンターも2つあるんだけれど、そこのスタッフは自宅にいた老人たちが避難して来た後も何度も見に来てくれて、これはまずいなって思う人は施設に連れて行ってくれて、ちゃんとしてくれてました。

お寺さんは無傷だったから、お骨とかもどんどん上がってきたんです。和尚さんはね、宗派を問わず、きたお骨は全部預かって下さったの。そして49日の法要は私たちが手伝っていた50日の間に行われました。その時は避難している人たち皆が、お寺を草とって掃除して全部きれいにして迎えてね。大変だったかもしれないけどね、皆、こんな一世一代の、歴史的なお葬儀に参加させて頂いて嬉しいことだよねって言うんです。本当に、嫌だと思わないでやろうねって。朝早くから色々手伝いしてね。和尚さんもね、お寺さんにいる避難者達も全部参加させてくれた。ちょっと感動的な49日でしたよ。あと、お寺で卒業式した子もいました。お寺さんに大槌の学校に行ってた卒業生がいて、先生が学校から証書持って来てくれたの。避難所から皆で送ってねぇ。盛岡のほうへ旅立っていきました。他には高校が始まってしまった子もいたから、私、孫に作るような感じで1週間くらいお弁当作って持たしてやりました。その子もおばあちゃんが見つからなくてね、未だに見つからないんだけど…。

私が感じた人の役に立てることの素晴らしさ

看護師であった為にね、お寺さんでも看護師さんって言って皆私のこと頼りにしてくれて。私、百人もいる中で伝染病が起こったら大変だって思ってね。保健の仕事はきっちりやって、ここからは感染者を出さないようにしようって一心だった。毎日うがい薬を作って、コップを滅菌消毒して、皆のペットボトルに1人ずつ名前書かせて。毎朝のミーティングの時にね、私の出番を作って貰って、「運動少ないから運動してね、いっぱいお水を飲んでね、うがいと手洗いをしてね」ってお話する時間を頂いて。そこを取り仕切ってた人がね、私を厚生大臣って呼ぶようになって、私も調子に乗ってみたりして。トイレのお掃除もね、私ももちろんやるけれども、皆にも協力して頂いて、良い時は褒めたりとか。保健所のチェックが入るんですけれど、保健師さんから掃除を褒められたよって皆に言うと、私より年上の人ばっかりだったけれど、良かったって喜んでねぇ、すごく協力してくれました。

赤ちゃんもいてね、お風呂入れたり。瓦礫の中からお腹のおっきい人が救われてきて、それでお腹が痛くなってね。満期産の人ならね、産ませればいいけれど、9か月の妊婦だったから、産まれたらもうまずいからね。ちょっとビビってしまったねぇ。それで急いでお医者さんに運んで貰って。今はその人無事に出産してますけれどね、お役に立ててよかったなって。勤務してた時よりもね、すごく看護師になってよかったって、心の底から思いました。勤務の時には得られないような充実感だったよねぇ。ほんと。

私ね、皆何が必要かなっては考えることは出来なかったけれど、自分が出来る事はしようって思ってたんです。避難所にいた時は、大勢の人達から励ましの手紙がいっぱいきました。だから、住所が解った人達には全員にお返しの手紙を書いたんです。そしたら『被災地からお手紙を貰うなんて感動しました!』っていう逆の感動のお手紙がいっぱい来てね。本当に幸せでしたよ。切手を送ってくれたりして。助けて頂いた人達には何かあった時には私たちも何かの形でお返ししたいなっていう気持ちでいっぱいなんです。

千葉市とか、大阪のお医者さん達が避難所に定期的に来て下さってね。色々愚痴も聞いてくれるんです。皆、大切な人をなくしたり、病気になったらどこ行ったらいいんだろうとかって色々と不安を抱えていましたから、すごく助かりました。

自衛隊の人達にも物資の配給ですごくお世話になりましたよね。私がお寺から帰ってきた頃には吉里吉里全体に物資が来ましたので、私、3丁目の物資の係にさせて貰って、居住状況のリスト作って、全部配布しました。自衛隊の人達は、激務だったと思うけれどね、ほんとにすっごく優しくして貰ってねぇ。だから帰ってしまう最後の日に、『吉里吉里の人達はみんな生まれかわったら自衛隊になりたいと思ってます』ってお礼状を渡して貰いました。自衛隊の人、感動して泣いて下さったみたい。その日、自衛隊の人達が帰るので皆さん道に出てお見送りして下さいって放送があったんです。雨が降ってたんだけれど、子供からお年寄りまで皆沿道に出てた。吉里吉里の子供達も自衛隊を希望する人が増えると思います。それくらい、すごく良かった。こういう感謝の言葉を伝える事は自分で出来るから、私はしました。だから繋がりってすごく大事ですよね。たくさん亡くなって、かわいそうなこともあったけれど、何だか心温まる事が多かったように感じますね。

日頃から繋がりあうことの大切さ

震災の後も皆しっかりしてましたよね、お互い様だから。いっぱい物品失ったけど、それは買えるもの。話しててもね、無事でよかったがねって。皆、『生きたんだから、お役に立たなくっちゃ』って思ってるんじゃないかな。皆のお蔭でここまで来れたって。吉里吉里のチームワークはね、日頃の何でもないようなことでも、例えば婦人会の会員になって頂いているとかね、そうやって手を繋いでいるからなんです。震災前から町内会がかっちりこまめに連絡取り合ってたから、災害があってからの物資の配給とかも頑張れた。それに、塩わかめ作るとかの人手がいる時期には、家庭にいる吉里吉里中のあらゆる人が、1ヶ月くらい芯裂きとかのお手伝いしに働きに行くの。漁業者じゃなくても。だから、常に交流がありますよ。地元の人は小中までが皆同じだから皆知ってますし、他所から来てる人も誰々のお嫁さんとかって分かります。こんな風に吉里吉里では、知らない人はほとんどいないの。だから1人ぽっちになる人っていなかったと思う。特に私は助産師だったから、吉里吉里の子供たちは実際に取り上げてなくたってほとんど関わっていて皆知ってるし、今は婦人会長として学校の卒業式とかにお呼ばれするようになって、取り上げた子の成長を知って涙が出たりしてね。吉里吉里の人の繋がりが良くわかります。

時代と共に変わるもの、残したいもの

今年もね、あと1週間したらわかめの収穫が始まる時期だったんですよ。始まってたら、もっと被害は大きかったかもしれないから、良かったのかもしれないけれど…ワカメの棚は全部流れてしまった。わかめとホタテは本当においしくてね、自慢だったんですよ。また再生したら是非食べて下さい。でも、吉里吉里ではお勤めが多くなっていて漁業者が随分減っているんです。これでまた減るよね。立ち直すには3, 4年かかるらしいし、年取ってる人が多いから、ここで止めたいって思ってる人もやっぱりいる。私が子供の頃はね、天然ものを獲ることしかなかったから、養殖はなかったの。スルメがたくさん取れて、イカを干したり伸ばしたりする作業は漁業関係の一家全員でやってたと思います。育てる漁業は何十年か前からですね。

東京と違って、吉里吉里で各家庭はほとんど鍵開けっ放しだったんですね。戸を開けておくと、お野菜とか、山菜とかを置いていってくれてたり、冷蔵庫の中に魚が入ってたりするくらいオープンだったんですよ。遠洋に行ってた人が魚を持って来てくれたりとか。皆知ってる人ですから。でもここ5年くらいかな、鍵閉めなくちゃいけないって言われるようになったのは。

婦人会も50年も前から続いているんです。私のかあさんたちも婦人会の会長だったりしてね。昔は情報を得られなかったから、皆婦人会を頼りにしてて。旅行とか、研修、料理教室、生活改善のこと、習い事とかも、全部婦人会が主催してやっていたんです。まぁ、以前は全戸加入制で700人もいた会員はどんどん減って、今では約400人くらいなんですけれどね。それでもずっと繋がってきたんです。吉里吉里婦人会の中には地域係と漁協係の2つの係があります。地域の係は学校の行事に来賓として呼ばれたり、交通安全週間に声掛けしたり、全国の婦人会から来た連絡を皆に広めたり。漁協の係は漁業協同組合からの要請で救命胴衣の促進のPRをしたり、海に害の無い石鹸とかが全国の漁協から来た時に販売したりする。お祭りの役員になったり、お寺の護持会の役員になってたり、警察の連絡協議会の会員だったり、町にある各種団体の中の会合の時の一員に参加させて頂いているの。そうそう、ここのお祭りはね、丁目毎に屋台作って、それぞれの丁目の人達が小踊りを5曲くらい覚えて踊って見せて歩くんです。1週間、19時から21時まで練習して、当日は朝の8時から16時くらいまでずっと歩いて回る。私も毎年でているし、かあさんたちも皆出るんだけれど、若い人達はなかなか出ないからねぇ。

今は情報も手に入れやすいし、ほとんどの人がお勤めしてるし、若い人はご近所付き合いしたくないとか、無縁社会を望む人が多いでしょう。私は退職してるから、今は婦人会の仕事してますけれど、勤務している時は婦人会行事はお願いばっかりしてましたから。お勤めしてると行事参加は難しいのは解るんです。でも、普段の時は何でもなくても、こういう災害が起きた時にね、やっぱり組織がなくちゃいけないんじゃないかなって。存続させなくちゃって思うんです。実はこの津波でね、預かっていた50年も歴史のある婦人会の資料も全部流れてしまって。その悔いが残ってるんです、私。後で取りにくれば良いと思ってたから。

常に、前向きであれ

婦人会は、資料も失くしてしまってね、これからどうしてったらいいのかな、ってちょっと思います。出来る事をしたいんですけれどね。3丁目は150軒くらい住宅があったんだけれど、今は在宅してる人は50軒くらいしかないし、お家があっても仮設に行ってる人、花巻の方に行ってる人もいて。仮設が出来て順次帰って来てるとは思うけれど、仮設だって3丁目じゃなくて4丁目になってしまったから、どうなるのかなって思います。会はあった方がいいと思うんだけれど、どういう形がいいのかなって色々考えて悩みますね。

でも、私、自分は超前向きって思ってるんです。自分で自分を褒めるくらい。暗くなったりしない。それは基本的に常にお役にたちたいっていう気持ちがあって、あとちょっとくらい無理しても出来る事はするっていう気持ちがあるからかしら。そういう気持ちでいることって大事なんじゃないかと思うんです。でもこういう奉仕の気持ちっていうのは、他人から言われてするんじゃなくて、自分から。これはね、私は母さんに教えられたと思ってます。だって母さんと同じ通りになってるもの。言われた通りにする訳じゃないけど、そうしている。私の母も助産師で、私の娘も助産師なんですけれどね、私の子供も私を見て、そうなって欲しいと思ってます。そうやって繋がっていく。

吉里吉里の人達もね、皆元の所に家を建てたいって思ってるんじゃないかと思います。でも、何にも建物がなくなったら、海がこんなに近かったんだ、怖いなって思う。それでも嫌いになった人はいないんですよ、海を。一日も早く漁に行きたいって言う人もいる。皆好きなんでしょう、海が。

それに今は、誰かにお礼をしたい気持ちでいっぱいですよ。吉里吉里の人達は多分みんなそう思ってると思います。こんなにいっぱい助けて頂いて。だから出来る事をする。家の前にね、お父さんと2人で感謝の看板を立てたんです。『ありがとうございます。私たちは忘れません』ってね。すぐ復興するような気がします、吉里吉里は。皆前向きだもの。助け合って。外から来た人達もね、私たちが頑張ってる姿を見て、元気を貰えるって言うんですよ。励まされましたって。これからも頑張ります。復興のために。

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