変わりゆく漁業、育ててきた漁場

Submitted by Tokyo Foundation on
Item Description
漁で若い世代が働いていく場とか、漁業組合の組織とか、それこそ変わっていく必要があっと思うね。
Translation Approval
Off
Media Type
Layer Type
Archive
Tokyo Foudation
Geolocation
39.3698337, 141.9411843
Location(text)
岩手県大槌町吉里吉里地区
Latitude
39.3698337
Longitude
141.9411843
Location
39.3698337,141.9411843
Media Creator Username
Interviewee: 東谷寛一さん, Interviewer: 代田七瀬
Language
Japanese
Media Date Create
Retweet
Off
Japanese Title
変わりゆく漁業、育ててきた漁場
Japanese Description

自己紹介 ―漁師は俺で三代目―

名前は東谷寛一(あずまやかんいち)。昭和18(1943)年9月15日生まれだから、67歳。早いもんで、はぁー70になるってとこ。生まれも育ちも岩手県大槌町の吉里吉里だ。子どもは、兄さんと妹。家では、90のばあさんと、孫3人の息子夫婦と入れて、8人家族だったの。4世代。

漁師は俺で三代目なんだ。うちのおじいさんは、途中から漁師になった。明治の時代に。他の仕事してやったんだけど、やっぱり浜に座ったら海の魚や漁の姿が好きだってなぁ。その辺から漁師になった。

今回の震災で、家も流されて、働く場も奪われて、二重苦がうんと肩にのっかかって。せめて家だけでも残ってれば、浜の復興も簡単に踏み出せっと思うんだけど。やっぱり、両方失うというのは本当にショックだもん。

みんな無事だからよかったのさ。今仮設にね。当初は内陸に移動も考えておった。今は移ろうとは思ってない。やっぱり、震災から時間もたって、ある程度の心の座り方っつうのかな、今になってやっぱり、ここさいいなという気持ちの方が強いと思うんだよ。そういうことで、これからがんばんねばなんねぇなと思って、心を決めつつあります。

避難所の本部長として ―みんなに感謝だ―

地震にあったのは、軽トラックで会議に出るために漁協に移動してて、安渡地区の路上にいた時だった。ラジオのスイッチを入れと、大津波警報が出て、岩手県沿岸3~5mと流れてたな。すぐに家に戻って、妻を降ろして避難しろと言って。オラは海岸の仕事場、加工場、倉庫が心配で見に行って、津波に遭って、軽トラックで高台にある三陸園(特別養護老人ホーム)へ避難したんだな。津波が吉里吉里全土を丸のみにする状況を目の当たりにして、吉里吉里は、もうこれで終わりかと思ったな。

津波が落ち着いてから歩いて、途中、消防ポンプ車に乗せてもらって、避難所になってる吉里吉里小学校へ向かったの。着いたのは、午後5時30頃。グランドや体育館に500人を超える人がいたんだ。グランドは震災を免れて。バス3台が体育館前にあって、体育館と校舎へ、バスから電気配線が引かれて、電灯と電気ストーブの準備がされていたんだな。だから震災の日の夜から光が灯されていたんだ。それに、あの時は雪が降ったからね。2日目からパソコンが住民の協力で持ちこまれて、避難所の事務体制が出来てきて。地元の人10名が食糧班で炊き出しをして、看護師5名で救護班をして。学校の先生方は避難所の夜の使用方法の段取りをしていたの。

震災の日の夜に、グランドでは、みんなが火を焚きながら「おい、明日からどうする」って話になって、校舎に入って、みんなで相談したんだ。消防団関係者、町内会長、地域有志20名ほど集まって、組織立ち上げたんだな。本部長を誰にということになって、一番年長で、消防の分団長やってたので、「おめいさん、本部長をやってけろ」と。それで、避難所の本部長ということで、できることからやっぺってして。うちの家内も、避難所で炊事のチーフやったの。

そうして、道路がねぇと物資も医療もこねぇから、道路をつくろうと。それには、重機が必要で。住民が持っている3台の重機の協力を得られて、それを中心に、消防団、住民の50人がトラックなどを持ち寄って、町道、国道、町指定のヘリポートまで瓦礫の撤去作業を始めたんだ。それから、行方不明者だの、生存確認したところ、あの人もいねぇ、この人もいねぇとなって、捜索はそのまま続けることになったんだな。

自衛隊と警察の機動隊も捜索に入ったんだけど、重機を持ってないと捜索できない所もあって、地元は重機持ってたから、一緒の捜索は2週間ほど続けられたんだな。捜索期間中は、ただ無我夢中だった。住民の方々はいろいろな面で協力してもらったし、自分の培ってきた知識と技術を提供してくれて、がんばってもらいました。みんなの協力と努力に感謝しています。

震災には、地域住民の協力と努力、そして、電気、水、食料、燃油の確保をいち早くすることが、一番大切ではないかと感じたな。

家族と一緒に暮らし、働くこと ―40年かけてつくったものが流された―

今までの昭和35年のチリ津波だの、十勝沖地震の津波の状況と違うからね。その時には養殖とかは全然やってなかったからな。磯漁、刺し網とか延縄とか、回遊している魚を追って漁業をしている時代だったの。

だけども、地元の沖で魚が獲れなくなったから、地元で資本を投入して、地元で収入を得られる養殖という漁業形態をね、みんな望んできて。遠洋漁業にいって3カ月も沖に出て、家さ帰れなかったのが、やっと家族と一緒に生活しながら仕事ができる、そういう環境がようやくできたという地域の人たちの喜びがあったんだよね。

今回の震災前まではね、オラも現役で漁師やってたの、養殖の。ワカメは昭和41年頃からやってる。ホタテ、ホヤ、カキもやってね。昭和40年頃、ワカメの養殖やったのは100人もいたの。それくらい魅力的だったのね。今はみんな高齢化してって、震災前までには26名に減ってしまったけど。

それが今回の震災で打ち砕かれたから、一番ショックが大きいの。家も、船も、倉庫も、施設全部流された。中学校の頃から、40年もかけてつくったものが全部。時間とお金とかかったの。それが1時間で打ち砕かれたから、不安も大きいと思う。人間はこのようにやろうと思ってもできることでねぇから。オラの所も規模拡大しようかなと思って、2年前に変えたばりだった。船と施設で1200万くらい。それ、そのまま流された。船は5隻あったのさ。残った船は一隻だけ。第五稲荷丸。3tだ。それも修理しなきゃなんねぇ。

漁師になったわけ ―選ぶ余地がなかったからな―

そもそも漁師を継いだのは、選ぶ余地がなかったからな。小学校3年生から、アワビ採りだの、天然ワカメの採り方の、船を支える仕事さおじいさんに連れていかれて。嫌でもそうしねば生活できなかったからね。手伝ったのはオラだけ。7人兄弟でも、弟はみんな10くらい離れてっからね。オラは長男だからね。兄弟の中で漁師になったのも俺だけ。自分がやった辛いことを弟たちさやらせたくないなと思ったりもして。いやー辛いと思うよ。朝5時頃から起きて行くんだもん。アワビ採りにね。昔は船外機もねがったから、1時間30くらい櫓で漕いでいくんだもん。

でもオラ、小学校の6年生終わっ時、文集に書いたのがあんの。船長さんになりたいって。だけども、それが高校入試の時に、はぁ頓挫してしまったんだ。高校入試の時、船長になりたくて、水産学校行の学科の入試さ行って、目の検査で「あなたは色弱ですよ」って言われたんだ。昔はね、色弱は運転免許も取れなかったしさ、船の船長さんにもなれなかった。色が間違うのさ、遠くになると。赤と緑が遠くのものが区別がつかないの。近ければいいんだけど。今はレーダーとかGPSとかあっから、衝突とか避けられるけど、昔は全部目視だったからね。昭和60年かな、運転免許が誰でも取れるようになった。だけども、船長さんの免許は取れねぇの。だから、おっきい船の免許はあきらめた。この辺は、10トン未満の船で、漁をするにはそんなに遠くさいかなくても漁できっから。だから、北洋のサケマス漁業が盛んで、危険だけど儲かった時期があったんだけど、オラは北洋漁業にはいかなかった。

オラたちの時は、集団就職の時代。高校卒業した時には、東京に出ようかなと思ったりもしてた。高校卒業して、大槌の魚市場のスルメの冷蔵庫さで働いたことあったんだけど、給料安いし、親父ひとりじゃ漁できねかったもんね。親父は傷痍軍人で体が丈夫でなかったしな。シナ事変に行って、銃弾の破片を受けて、ちょうど心臓の脇と右の肩のとこさ破片が入ってたのずっと。だから、1年半で辞めて家さ戻ったの。その方が高収入得られたし。

イカを干すお手伝い ―寝ている暇がながったね―

親父は人を雇って、イカ釣漁船やってたからね。20tくらいの。それで、時期が空けば、アワビとかワカメ採りするの。イカは6月末から11月いっぱいぐらいまで。夕方出てイカ釣りに行けば、夜の10時ころに満船にして帰ってきて、それを陸に揚げて、また沖さ出て行って釣ってくるくらい採れやったの。

だからはぁ、オラたちも小さかったけど寝ている暇ねがったな。5時頃から叩き起こされて、スルメを天日で乾かす作業手伝ったの。干す期間は、7月から11月までだ。一枚一枚開いて、きれいに平らにする作業して。この辺では生半端っていうんだけど、ちょっと水分が取れたくらいに乾燥させてんのさ。二日くらいで乾かすの。ちょっと水乾きがしたような感じの時に、全部今度は足と足一本ずつほぐすの。一本一本離れて乾燥しないと、商品価値が下がっから。何千枚もやったね。

それを冬に売った。オラたちは金持たせられなかったから、なんぼだったのかわかんなかったけど。冬は仕事できねぇんだ。西風が吹いてね、魚もいなくなんの。だから、アワビ採り以外は12月から3月いっぱいまで漁は休んであったの。その間は、スルメイカを乾かしたやつを、家の中に積んでんのさ。うちの八畳間の部屋さ、梁までそれこそ3部屋か4部屋ぐらい積むんだもん。それくらい大量だったの。冬だし、干してっから匂いがねぐなるんだ。少しづつ生活しねばならないから、全部一回にさばかないで、12月から3月にかけて売ったのさ。10枚ずつ束ねたのを、100枚を一束にして。昭和35、6年頃までかな。

イカが漁立つと学校が休みにもなった。学校単位で手伝いに来てほしいということで。だから、イカがいっぱいとれねぇかなぁと思ってたね。勉強しなくてもいいし、みんなに負けたくないという刺激が生まれんだから、楽しかったのさ。物がねぇ時代だからさ、手伝いして、おやつもらったり、お駄賃をもらって修学旅行の資本にしたりしたてなぁ。

昭和35年頃からね、イカ釣りも干さないで、生で売れるような時代になっとったね。冷凍保存はその後だ。でもうちはそうなる前の、オラが中学校三年生(1958年、昭和33年)の時にイカ漁辞めたから。

ワカメを育てる ―農家と同じだよ、ワカメの養殖は―

その後はワカメ、ホタテ、ホヤの養殖はじめたの。昭和40年頃から国の構造改善資金っていって、これから養殖事業出なければ、安定した生産ができないという国の方針もあってな。それに、その辺り(昭和40年頃)から、化学繊維が出て、ロープの強度が強くなったから。前は天然繊維のロープ使ってたから、養殖はできなかったの。海に入れておくと一年で腐ってしまうから。

養殖ワカメは収穫する時期が、3月中旬頃から4月の下旬頃まで。準備で、ワカメの採苗ね、種採る作業。それが6月から始まって。種はメカブから採っから。養殖の錨のロープに天然が付着するのを使うようになったの。成熟したメカブを採って、24時間陰干しして。それは胞子をより成熟して、刺激を与えて種をいっぱい出させるためにな。

24時間後に、そのメカブをまた海に戻して。そうすっと種がいっぱい出るから。で、それを最初は箸より細いロープに付着させる。そういうのをいっぱい暖簾のように作って、その作業が7月下旬からされんの。延べにすっとね、2,500mくらい。一本、200mだから。そのロープを、国から許可もらってる養殖漁場に入れんのね。

そして、種が発芽する前に、保苗期間が2カ月か3カ月。10月にそれを軽く掃除して、10月の末頃になっとワカメの芽が出てくるの。11月の初めには種まきっていって、その芽が付いてるロープを、太いロープに巻きつけるわけ。直径24mmくらいのロープ。それを2cmか3cmに伸ばして。それで収穫するまでに、自然に海から栄養をとって成長すっからね。

それから3月の収穫までは、雑草が生えれば手入れして、ワカメだけ伸びるように手入れするの。農家と同じだよ、ワカメの養殖は。畑と一緒。あとは時化(しけ)が来た時に絡まってないかどうかとか見に行ったり。

3月になると、1m50くらいまで成長すっから。平均すれば、一本4tくらいになるかな。4tから5tくらいね。だから、50~60tの収穫ができるの。

親父の代は養殖できても加工の環境がまだ整ってなかったから、一本一本、稲を干すようにして乾燥ワカメにしたの。天気に左右されっから、乾燥が進まないとワカメ採る方も休まねばならんだ。

昭和60年頃からかな。加工技術が進んで、ボイル加工塩蔵になってから、収穫を多くしてもこなせたから、数量も増えたの。合わせて船も大型化して。ワカメの加工では、10人くらい手伝ってもらってる。

箱詰めにして組合に出荷して、漁協の共同販売で県漁連で大手に入札されて、後が消費者に出回っているって感じ。ブランドで回ってっから、岩手県産のワカメは、普通のワカメよりも高い値段だね。

ホタテを育てる ―ホタテは2年かかるからね―

ホタテは、6月から2月頃まで出荷するのね。ホタテはワカメと違って、野菜のようにその年植え付けて、その年収穫できるというスパンでねぇから、2年かかる。ホタテは、家族労働で。それに出荷の期間も長いの。15tから20tくらい出荷すんのかな。ここのって日本で一番高いの。でっかいしね、貝柱が高くて。津波前は、10k5,000円してる。

岩手で養殖ができるようになったのが、昭和45,6年頃からでねぇかな。ホタテは北海道から種を、稚貝を買ってくるの。3㎝くらいの。地元で稚貝を採苗するには、採苗袋に付着させてね。4月の末頃から5月の中旬頃の間で、母貝から出た種が海の中を浮遊すんのね。その時期になると、中さ網を入れておくと、浮遊した種が回ってきて袋にくっついて成長する。そういう習性があんの。それが、8月頃までにだいたい20㎜から30㎜くらいまで成長するの、2か月くらいで。

それ取って、小さい真四角のネット入れて。一つのネットに10個から12個くらい入れてネットを海底に連結させて、13から17段くらい。水深10mから30mに沈んでいくのね。だから、一連の中には200個くらい入っているんだな。12月から翌年の6月頃に7、8cmくらいになるから。

そうしたら、貝の耳に穴開けて合わせて、テグス(アゲピン)で100個から150個くらい繋げて、海に吊るすのね。それこそ、穴開けるのも連動の機械があんのね。それが700~800連くらい吊るすの。その作業は一カ月半くらいでやる、家内や息子と一緒に。一日に5千個~8千個。この作業やってから、一年半か二年くらいで、出荷できるような大きさになるの。12cmから、大きいのは15cmくらいまで成長する。1年の収量数が10万個から12万個くらい。全部機械導入して。

春を待つ -息子たちがワカメを再開するってことで―

漁で若い世代が働いていく場とか、漁業組合の組織とか、それこそ変わっていく必要があっと思うね。オラの勝手な悩み。でも、これからサケが順調に採れるようになれば、浜も活気づいてくるんじゃないかな。みんな期待してっと思う。

うちの息子たちがワカメを再開するってことでやってるけどもね。息子は漁師をやって20年くらいになるな。来年から、少しでも収穫できればってことで。順調にワカメが成長してくれれば、復興につながっていくとおもうんだよ、来春。

old_tags_text
a:3:{i:0;s:6:"漁業";i:1;s:5:"60代";i:2;s:36:"岩手県大槌町吉里吉里地区";}
old_attributes_text
a:0:{}
Flagged for Internet Archive
Off
URI
http://kikigaki101.tokyofoundation.org/?p=1327
Attribution URI
http://kikigaki101.tokyofoundation.org/?p=1327
Thumbnail URL
http://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11174889/kikigaki101.tokyofoundation.org/wp-content/uploads/005-top1.jpg