故郷の役に立ちたい

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私は好きです、自分の故郷が。やっぱり人かな。「おーい」って声かければ「おーい」って感じ。
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Tokyo Foudation
Geolocation
39.3698337, 141.9411843
Location(text)
岩手県大槌町吉里吉里地区
Latitude
39.3698337
Longitude
141.9411843
Location
39.3698337,141.9411843
Media Creator Username
Interviewee: 松村美代子さん, Interviewer: 市川薫
Language
Japanese
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Japanese Title
故郷の役に立ちたい
Japanese Description
私は好きです、自分の故郷が。やっぱり人かな。「おーい」って声かければ「おーい」って感じ。

松村美代子(まつむらみよこ)といいます。52歳です。吉里吉里生まれで、吉里吉里に嫁いだんです。旦那もここの人です。子供は上の子は24歳で小学校の方で臨時教員をしています。2番目の娘は岩手の大学の2年生で普段は盛岡にいます。主人は、船乗りなんです。商船乗りをしています。

地震そして津波のとき

地震のときは家にいたんです。家の中にいて、最初はものを押さえたりもしたんだけど、揺れがすごかったもんで、私は家の裏の方に逃げたんですよ。子供たちは家の前の畑に逃げたようで。地震がくれば、常に家の前の畑の方に、逃げるという形にしていたから。娘は、たまたま盛岡から帰ってきていて、家族全員そろっていたから良かったんですけど。 電信柱も家の後ろのエコキュートも、ものすごく揺れていて、これはただことじゃないなと思って。4丁目の方に私の実家があって、85歳の母親と、足のちょっと悪い兄の嫁さんの2人暮らしだったので心配だったから、車で向かいました。うちはお父さんいるから大丈夫だねって。実家が大丈夫なのを確認してまた家に戻ると、子供たちは荷物を背負って、ワゴン車に避難していました。その時点でテレビもついてないし。

主人が国道の方に出ていたから、私も行ってみたらば、海の方へ走って来る車がいっぱいあって。海をみていると、遠くの白い灯台をこえるようにして立つような波がわーっと来ていたの。だから旦那と2人で道路の真ん中に立って必死で車を止めました。津波来るからって、必死で止めたんですけど、振り切って行ってしまった車も何台かいるんですっけ。そうしているうちに、ローソンがあるんですけど、そこのところまで流れた家がきたもんで、家も危ないなと思って、すぐ家族で実家の方に避難したんです。実家の方が高いところにあるからって。

逃げていくときに、ちょっと高台があるんですけど、家が横に、線路の下に横に流れていく様子が見えて。土ぼこりで町が一瞬見えなくなったんです。実家からは船着き場あたりに家が流れていく様子とかが見えて、ショックでした、すごく・・・。でもこの時の記憶って、もうぽつんぽつんって所々しかないんですよ。自分の行動の全部は分からないって感じですよ。

翌日に、避難所に手伝いに行こうと思って、小学校から下を見たときの、瓦礫にはすごくショックでした。何これ、って。前の日には家が流れていったのを見ていたんですけど、実家からは下が見えないし、まさかこんなに、全体にこうなっているっていうのは想像もしませんでした。

実家での避難生活

今は電気が点くようになって家に戻っています。うちは大丈夫だったんですけど、全部電気だったから、実家に行った方がよいなと思って。実家はガスだったから。母さんと姉さんも心配だったし。ストーブは残っている灯油を持ち寄って焚いていました。

だいたい20何日に電気がついたんですよね。それまで、ろうそく一本の生活でした。最後には、「結婚したときのキャンドルサービス用のろうそくがあったよね」って言って、家から、ちょうど25年前のろうそくを出してきて灯しました。娘たちに、「これね、お父さんとお母さんが結婚した時のろうそくだよ」って言って。役に立ちましたよ。助けられた感じね。でも、ろうそく一本ってそんなに長くはないんですけ。だから毎日明るいうちにご飯食べて、暗くなる夜6時から7時とかにみんな寝てしまって。夜が明けるのがまだ遅くて。

もちろん水道も来なかったけど、実家のそばには井戸もあったから、それで米をといだりしていました。お風呂は、10何日ぶりに、山田にある温泉に行きました。髪洗っても最初には泡が全然出ないの。それに、体をこすってお風呂はいっても、上がるとまた白く垢が浮いてしまって、本当にもうびっくりしたのよ。その次は1週間後に遠野の温泉に行きました。お風呂入れない、髪を洗えないというのはすごく苦痛に感じたわね。お産したときも風呂に入るなって言われて、そういう経験をしているのにね。

実家には、うちの家族の4人のほかに、私のいとこやその家族なんかが避難していました。全部で13人。子供が6か月、1歳、5歳と3人いました。大人はある程度我慢できたけど、子供たちはかわいそうでした。場所も違うし、夜は寝れないし。一番大変だったのが6か月の赤ちゃん。ミルクも、おむつもなかったし。おむつは、タオルを使って、買い物袋をおむつカバーにして。あとは食べ物はごはんをつぶして、食べさせたりしました。3日くらい経って、別のいとこが盛岡から来るときに、ミルクを持って来てもらいました。

それから、大体この辺りはどの家でも、大きな冷凍機があって、刺身でも小魚でも長く食べられるように、そこに保存しとくんです。あの頃は3月でしょ、12月くらいになると荒巻を作ったりするから、それが残っていたりするんですよ。だから食べ物はあったほうかなと思うんだけどね。あまり蓋を開けないようにして、買い物袋に雪をいれて冷凍機に入れたりしました。ちょっと昔みたいね。いろいろとあの頃は考えましたね。震災のときに、いかにうちらは贅沢をしてきたかって、食べ物も無駄にしてきたかってことを感じましたね。今はお金出せば何でも買えるし、多目に作って、食べないからって捨てたりとか、よくあるでしょ。こういう時ってもったいなくてそれができないもんね。子供たちに言ったかな。いかに贅沢をしてきたかが、今分かったでしょって。子供たちはこういう生活をしたことがなかったからかなり苦痛だったと思う。でも、家族一緒だったのが一番良かったかなって思うんですよ。一番下の娘は普段、盛岡にいるから、地震のとき離れてたら、それが一番心配だったかなって。

生い立ち

私は7人兄弟の下から2番目なんですよ。兄たちは、みんな船の関係の仕事なんです。昔はみんな漁船だったんです。二十歳のときに亡くなった父はイカ釣り船に乗っていましたしね。長兄は仕事の時は千葉に行っていて、2番の兄は、焼津でマグロ船に乗っているんですよ。3番目は川崎の方に陸の仕事に行っていて、油を積んできた大きな船から陸の方に接続する仕事をしています。4番目の兄は北海道の方でトロール船に乗っているんですよ。兄貴たちはみんな地震のときはいなかったんです。私のすぐ上は姉で田野浜に嫁いでいます。7番目の妹は、盛岡の方に嫁いでいるんです。だいたい2歳くらいずつ離れていて、長男とは12歳違います。小さいころは、特に4番目の兄や、5番目の姉に、くっついて一緒に遊んでいました。今になって兄弟はいっぱいあって良かったなって思いますよ。兄たちは普段はいませんが、誰かが帰って来れば、どっかの家に集まって宴会なんですよ。

小さいときからもちろん海で遊びましたよ。いま瓦礫がいっぱい積まっているところが岩場だったんですけど、そこの近くでよく海水浴をしましたし、生き物をとったりとかね。うちらの小さいときは、プールっていうのが無くて、中学校の3年生頃にできたんですけどね。自分では海で泳いでいるのが「泳げる」っていう意識だったんです。でも、プールで25m泳ぐっていうのは、こんなにつらいのかなって思った気がします。

小学校のとき、5月5日の子供の日になると、兄貴たちについて、紙で国旗をつくって木の上にぶら下げて遊んだりもしたったんですよ。それから、山で木の実を食べたりもしました。地主さんに怒鳴られるから、見張りをつけて、あんた今度見張りしてろよって感じで。それから、牛小屋の上の、屋根裏に藁を敷くんです。そこで隠れ鬼ごっこをして、藁の間に落ちたりとか。うちの近くの畑とか、学校とかで、石けりとか縄跳びとか相撲とかね。遊びには困らなかったですね。

地元を離れたことはあります。高校卒業してから、盛岡の方で病院の看護助手の方をしていました。交代制もあったし忙しかったですね。それに、最初の方はやっぱり苦しかったですよ。ここでは常に海を見ていたから、盛岡で建物がごちゃごちゃしているのを見ると息苦しかったんですよ。実家に汽車で帰ってくる時に海が見えてくると、ああ家に帰ってきたなあって思っていました。海で育ったもんだから。

5年ほど勤めましたが、やっぱり地元がいいと思って帰ってきました。結婚するまでカメラなどの部品工場にお手伝いに行っていたんです。旦那とはね、旦那の伯父のところに、私の叔母が嫁いでいるんです。私が盛岡から帰ってきた後、そろそろ結婚した方がよいんじゃないかってなって、伯父様がうちの甥っ子といっしょにならないかって。親戚だし、旦那の方が年が2つ上で、姉の同級生だからもちろん知っていました。旦那は仕事に行っている時期が長いから、子供たちが小さいときは、お父さんにいてもらいたいって思ったんだけど、今は楽かなっていう感じ。いるといないのとでは生活が全然違うしね。休暇のときは4か月くらいですね。結婚してからはそうやってずっと主婦をして、41歳頃から8年間、近くの老人ホームでホームヘルパーをしていました。それから、じいちゃんも年取っていたし、みなきゃいけないなと思って仕事やめました。でも2年前に亡くなったんです。これからみなきゃいけないなあと思っていた時に。

吉里吉里

町内会は1月7日にどんど焼きをします。その準備が各丁目の当番制です。それから、10月の第一日曜日に、吉里吉里地区の運動会があります。子供から大人まで、年齢で種目を作ってやるんです。本当に面白いですよ。障害物競争とか、年齢別に代表を決めて丁目対抗リレーとかね。8月の第3週目の土日には、部落でお祭りがあるんです。鹿子踊り(ししおどり)、神楽、虎舞とか踊ってね。山車は4団体、手踊りも4団体が出ます。手踊りっていうのは、各丁目ごとに振りを付けて踊るものです。競うってことはないけども。その年によって振りが違うのよ。これらが、神社から繰り出して、まず、海の方まで行って、それから住宅街をぐるぐる歩いて、午後に4丁目に上がって降りてきて、最後にお神輿を神社に納める。一日がかりでまわります。みんながお祭りに出るから、見る人が少ないの。以前はね、8月16日が宵宮で17日がお祭りだったんだけど、踊るのに平日にぶつかると大変なので、第三の土日に決めたんです。他の行事? 町内会の掃除があります。海の日は小学校から大人まで一斉で海岸掃除だし、お寺の掃除は4月ごろから月ごとに各丁目の当番制で行って、8月のお盆前は一斉にみんなで草取りしたりするんです。

こういう行事が多いから地域のまとまりがすごくてね。この地域の人たちはね、だいたい保育園から中学校までは、一つだからね。割とまとまっている。電話一本で、「今度ここに行かないって」いって、「じゃあそうするが」、とかって言って、集まりやすい感じ。ほとんど同級生は、地元にいれば気軽に声かけてお茶飲んだりして。私の同級生が今度の津波で亡くなったんだけどね・・・。まだ見つかっていないんですよ。見つかったらお線香あげに行きたいんだけどね。それから、地震のとき、2丁目お茶っこの会っていうのをやっていたんですよ。65歳以上の人たちを対象に、2か月に一度くらい消防の屯所に集まってお茶飲みをしたり、料理やゲーム、話を聞いたりという会があったんです。そこに来た人たちはほとんど亡くなったんです。それを思うとね、すごく悲しい。町内会で自主防災とか組織も作ってやったし、いろいろやってきたんだけど、なんで逃げなかったのかなって思うし。消防の屯所に、お祭りの道具や半纏とかを保管していたんだけど、それも全部流されてしまってね。1枚でもあったらなと思って探したけどやっぱりなかった。ちゃんと衣装ケースにいれてしまっていたから、そのまま流れて行ったんじゃないかな。まるまるないもの。小物とか全部新しくして3年しか経っていないかな。今年はお祭りはないんでしょうね、もちろん。またいつかできるといいわね。

地域の役に立ちたい

私はたまたま町内会の2丁目の役員なんですよ。だから、3月11日の後、町内会の安否確認をしてほしいっていうことで、全戸歩いて、娘たちにも手伝ってもらって避難者の名簿を作ったり、在宅の方用の、物資の仕分けをしていたんです。自衛隊さんは注文用紙を持って来るんですけ。それに、在宅の方で何が必要なのか、考えながらチェックするのも大変でした。まず食べ物はあるものは受けるからって自衛隊さんに言いました。それから、例えばシャンプーとか、ラップとか、ごみ袋、洗剤は1か月おきに、こちらで考えて注文して、ケースに分けて。各家の方に取りに来てもらって、その時に出入りとか聞いて。在宅の方でも出入りが多かったから、人数確認しないと、注文数が変わるでしょ。それが大変だったんですよ。

途中から、だんだん店が出てきて、6月頃からは車があれば行ける状態になりました。だから、自立しないといけないねって話になって、お店に行って買えるものは頼まないで、在庫であるものだけでいいです、って形にしました。自衛隊さんは遠慮しないで言ってくれたけど、うちのほうは家があるから、まず食糧だけあればいいですって。ほんとうに自衛隊さんってありがたいもんですね。配給が終わったときに、ある人が涙流して、「本当にありがたかったよね」って言ってくれた。自分たちは何気なくやっていたんだけど、受け取る人にすればそうだったのかなって思って、「ああやって良かった」って、すごくほっとして、うれしくてね。

それから、炊き出しの窓口になって、ボランティアセンターさんから「○○さんから炊き出しがあります」と連絡を受けて、地域の人たちにポスター貼って知らせたりもしていました。結構いっぱい来ましたよ。うどんとか、浜名湖のうなぎとか、長野からも来ました。あとは、お弁当屋さんも来たて。3、4回やったんだけど。ありがたかったです、本当に。「映像で見るよりすごいですね」って必ずみんな口にしていくんですっけ。

町内会の運動会に使っている鉢巻が、たまたまうちに保管していたから、残ったんだけれど、それに一本一本、「支援ありがとうございます」って書いて、ボランティアの炊き出しに来てくれた人たちに、渡しました。何もお返しできないですけど、記念にとっておいてくださいって。212本あったのかな。

やっぱり必死でした、この4か月間。この先も何かしたいって思うんだけど、何ができるのかなとも思う。ただ、何か声をかれられれば、行けるような状態にしているんです。子供たちも手を離れているし、みんなの役に立ちたいなと思って。最近ね、人が町を歩く姿がみえてきました。今まではボランティアの人の姿が見える程度で、誰一人歩かなかったもん。だから炊き出しの時とかに、「しばらくぶりだね」ってにぎやかになったんです。炊き出しが来てくれることによって、みんなが来るでしょ、そこで震災後初めて会ったっていう人たちが泣いたり笑ったり。それで、「受けてよかったね」って感動しました。早く元の通りになってもらいたいし、にぎやかな街になってほしいです。何といっても自分の故郷ですから。私は好きです、自分の故郷が。やっぱり人かな。昔からいるから。「おーい」って声かければ「おーい」って感じ。いい場所よ。

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