自己紹介
私はね、芳賀廣安(はがひろやす)といいます。61歳になります。昭和の25年生まれ。寅年です。1月の28日生まれ。きょうだいは兄貴いまして、私いまして。弟、弟、妹、妹だったんだけど。弟が一人亡くなって、妹も一人亡くなっています。子どもはね、3人いました。長女がね、大船渡に嫁にいったんで。次女は嫁さんになって神奈川に行ってます。3番目も勤めで神奈川に。3人とも娘です。
定年退職は2年前でした。仕事は普通。営業マンです。52歳までが釜石勤務。60歳まで気仙沼。油とか、ガスとか、建設資材とか、いろんな物を取り扱う商社だった。2年前退職になって、吉里吉里で、うちの家内が料理屋さんしてたもんだから、お料理の準備ていうんだか、座敷のお膳なんか揃えたりやってました。家内は23年間ここ(吉里吉里)で仕事してました。それまではね、別の場所。浪板海岸で、やっぱり同じような料理屋さんやって。海水浴客も含めての店ですから、宿泊施設もあって。そっちをやめてしまって、こっちに来てもう23年になります。
生まれも育ちも吉里吉里
生まれてからずっと吉里吉里です。61年間。おやじは漁業してました。兄貴とは一時一緒にいた時もあったんだけど、途中で別になって。事情がちょっとあってね。兄貴は会社に勤めに出て、私のほうが、継いだんです、跡を。
小中は吉里吉里。同級生は100人ちょっとだと思いますよ。小学校も中学校もね。今残ってる人たちは、男女合わせると20人までいるかいないか。割合的には、残ってる方だと思いますよね。高校へ行くのは全部が全部じゃないな。残ってすぐ仕事を始める、漁師もあったし、東京まで集団就職ってのもあったしね。
高校は釜石北高等学校。普通科です。A、B、C、D、E、F、G、Hまで、8クラスあった。40人ずつとしても、320人くらいいるんじゃねえかな。津波で流されましたけどね。大槌入って、次が片岸って、全部流れたとこあって。その奥のほうが釜石北高等学校のある鵜住居(うのすまい)って町なんです。その釜石北高等学校に3年間。無事に卒業しました。汽車で通ってた。その当時はみんな汽車しかないんだもん、ね。
家業の漁師を継ぐ
高校卒業して、最初は家のお仕事を始めました。船の機関士さんの免許持ってるし。定置網で、場所は5ヶ所くらいあったんだけど、浪板前、金ヶ崎、仲網とかあって。ほんとに近いところの湾内で、吉里吉里からもう見えてます。我々小さいとき、まだ小学校中学校のときはね、鵜住居に近い方、大槌にも網あったんだけど。それがこっち(吉里吉里周辺)だけになっちゃって。
春はね、しょっこって言ってね、ブリの小さいやつ、イナダつうんですか、標準語ではね。あとは小さいマグロみたいなのを獲ったり。あとはイワシとかサバとか。スルメイカは夏ですね。いろんなのを多種多様に獲ってました。秋はサケ。海から上がってくる川のほうじゃなく、我々は海で、まだ新鮮なやつ獲るんです。イクラもある。我々小さいときはイクラを丼で食べてた。ここの漁師さんたちはね、定置網の場合は、サケ漁終わったら休むんです、春まで。まあサケ漁終わるってもう正月過ぎますけどね。1月になってから休みます。で、3月4月辺りになって春、漁が始まります。
定置網だと、まあだいたい1ヵ月1回くらいずつ網の入れ返しって言って新しい網入れて。草つくから。1ヵ月つうときもあったしもっと短いときもあった。草のつき方多いときは、早く上げるし、取り替えるし。そんときの水の加減なんだね、水のねえ、綺麗なときはそんな草つかない。水が汚いときはほら、草がつくんです。その加減によって、早く取り替えたり。
海は毎朝3時4時に出てって、網上げて、5時前の市場に持ってくんです。車で大槌の市場に行くか、釜石の市場行くか。量が多いときは、買い人が多いところのほうが、値段もいいじゃないですか。量もさばけますから、釜石まで行きます。俺が高校卒業してまもなくの時ね、120キロくらいのマグロを、2本釜石まで運んだこともあります。この湾で。ここ、金ヶ崎で。
うちは人使ってたから。船頭さんいて、船方さんいて、従業員の方々が何人かいて。まあ少ない時でも5、6人はいるわね。あと、網上げんのにお手伝いが二人から三人だか来て。獲れない時もあったけどね。獲れたときは大槌の魚市場に上げ、釜石の市場に上げ。ないときは、今日はごめんなさい。はっはっは。
十勝沖地震
十勝沖の津波のときも、釜石の市場まで。ええと、あんときは何獲ったんだ? ブリと、それからメジマグロ。あんなのが結構入って、船から上がって、魚売りしてた。釜石の市場に売り行って、帰ってくる途中だった。車も揺れましたよ。で、吉里吉里に着くあたりにはもう津波が見えましたから、あんときは。波引いてくの見えました。戻る手前で、海岸にはもう来るなって言われて、途中から引き返したんですけどね。堤防閉めましたからね。船は沖に出して助かったような記憶があるなあ、うちの船方さんたちが。ただし、資材はもうダメになった。
今回もまたいろいろ、沖に出して助かってる人あるじゃないですか。宮古の観光船なんか。もう、出れば大丈夫なんですよ。そういう教訓は昔からあるんです。ただ、逃げ遅れてしまって波かぶる人もあるから、危ないんだけど。今回はけっこう時間あったから、出せば助かったかもしんないねえ。ただ、今回の場合、揺れがひどかった。地震があってから津波まで時間があったあったってみんな言うんだけど、その間にも2回ぐらい地震来たから、揺れが収まるまでやっぱり余裕っていうか時間なくなったかもしんないねえ。だからもう、船は出さないほうが安全だっていう。船は仕方ないんだから。命が大事だね。
今回このくらい津波が来るっていう意識はないと思う。こんなに意識無いでしょ。このへんも絶対助かるって思ってるんだもん、みんな。十勝沖のときは、うちらは逃げてると思うけど。ただ、今回のやつはこのへんのエリア(吉里吉里2丁目)は来る場所じゃないと思ってるかもしんない。ここは昭和8年の津波のときに上がってきた人たちだからね。それが来てしまって、けっこう犠牲者が出てるんですよね。だからこれでもまだ足りなかったかなってのはあるでしょうね。
料理屋を開業したものの苦労の連続
網をどこへ割り当てるっていうのが、漁業権というのがありまして。そのときは、漁業権を組合が持ってまして、入札みたいなので取ったら仕事できる、取んなかったら仕事できないという形だったんですね。最初からでなかったの。途中から組合の権利になってしまって。入札で、今年は仕事できます、今年は仕事できませんっつう年が出てきたわけ。入札は昔からあったことはあったんです。ただ、昔からずっとうちは仕事してたんだけど、高校生の最後あたりにくじに外れたんですよね。離れてしまったんです。
その頃、岩手県では、観光開発公社の計画で、県内の主なところに16ヵ所、レストハウスなるものを観光地やらに作って、各市町村に経営を委託したんです。大槌町では、一般の人達にそれをまた二重に委託したんです。そのときにじゃあやらせてくれませんかって入札に参加したんです。また入札だったんです。それが21か22のときなんじゃないかと思います。たまたま私たちが当選しまして、それから始めたんです。浪板海岸レストハウスって名前だったの。で、素人だったんです(笑)。だからあのときは、釜石の調理師協会にお願いして、腕のある人を調理師さんに迎えて、それから始めたったです。
ただ、このへんの海水浴場ってのは、7月8月しか商売になんねえのさ。それもさ、7月の20日から、8月の10日ころまで。お盆過ぎちゃうと寒くなって海水浴客いなくなんだよ。大変だったんです。そういう仕事だったから、私が外に金稼ぎに出たわけさ。運送会社の仕事で、魚を東京築地まで運ぶとか、商社の酒類部門でビール運ぶ仕事に従事したって感じ。そのうちにその商社に入っちまったんだ。それが32、3歳か。
浪板の商売は、17年間苦労した。ダメでダメで、やめましょうと。たまたま吉里吉里に、料理屋さんやってる、別の大槌の方がいたったんですよ。やっぱりダメで、やめてる人があった。色々聞いてて、折衝したらね、とりあえず貸しましょうってことで、じゃあお願いしますってことで借りて。その人が買ってくれないかっつう話になって、じゃあ売ってくださいと。その建物買っちまったんです。23年やってきて順調だったのに、流されちまった。あと十何年は仕事したかったよねえ。
家に下がるって気持ちにならなかったよなあ
大船渡に嫁に行った娘の会社が鵜住居だったんです。そこも津波でやられてしまったんだけど、おかげさまで山手に逃げて助かって。4歳の孫はね、地震のときは、堤保育園に行ってたんです。私は、店の2階で座敷の方準備してた。家内は下の調理場で。次の日か、その次の日の仕出しかな。吉里吉里町内で出すやつです。お客さんいなくてよかったよかった。
で、揺れたわけですよ。すごかったからね。家内が、いつまでも下がってこないってびっくりして。飛んで下がってきて、火なんか消して。津波警報すぐ出ましたからね。店は海近いじゃないですか。だからとりあえず逃げようって。こう、公園のほうを通って行ったのかな。家までとりあえず逃げたんだ。家の周り見て、ああ、地震では壊れてない、大丈夫だあって。で、鍵かけて。鍵かける必要なかったんだけど。ここにいれば危なかったんだ。
すぐ上に上がったんです。孫迎えに、保育園まで。20分ぐらいかかったかな。そこにずっといました。ていうのはね、ここだと海が見えるんです。あ、津波来ないのかなって。家に下がるって気持ちにならなかったよなあ。今になってみればね、家が流されるって気持ちもねえんだよ。店は危ない。ただ、最初3メートルって言ったんです。3メートルだと助かるんですよ、防潮堤あるから。だけど津波警報だぞって言って、とりあえず避難したんだ。そこで、自分の店が流れるのを見てる。ああ、つって。防潮堤超えた時点のところは見えなかったけど、お店がずうっと横に流れてくるのは見えた。
家のあたりに波が来たときには、線路の上に避難してる人たち、住人かなあ、上に上がれ、上に上がれつう声だったんで、線路越えて、上まで逃げました。保育園の園児も上がったはずですよね。その後私は、たまたまお寺の方に避難しました。危ないから下がるわけにいかない。で、家内と私と孫連れて避難したんです。そのうちに、大槌にいた娘の旦那も吉里吉里の方まで逃げてきて、いっしょに合流して。
ここに住みたいですよねえ
この町にはね、やっぱみんな住みたいと思うんです。出ていきますよって人はちょっと少ないと思うんですよねえ。この町には残りたいんだけど、このままだとやっぱ怖い。だからそのためには、国道を嵩上げしてもらって、高くしてもらうとか。ある程度海岸に近いところは、漁業施設でも、なんかの施設でもいいじゃないんですかね。住宅地は少しでも高いところに作っていくっていう考え方ね。完全な防災は難しいんだけど、ある程度の人命は守れるように。今回だって、津波が来るまでに時間がかかるし。吉里吉里駅から上はもう全然なんともないですからね。だからやっぱり、下に住んでても上に逃げる、高いとこに逃げなくちゃなんないっていう意識で。だけど、やっぱ渋ってしまうんでしょうね。私のおじだって、家に来ないと思ってても来たんだから。
何メートルとか数字はわからないけど、ただ、少し嵩上げしてから、この場所にはやっぱ住みたいですよね。来なかったところと同じぐらいの高さにして。ただ、自分のところだけそのわけにはいかないから、みんながどうなっか、によってですよね。家は親父の時代からです。私が生まれた年からだから、61年、61歳。ここに住みたいですよねえ、住みたいけども、そこは計画がどういう風になるか。だけどこの町、みんな、住みたくなると思う。町が死んでしまいますからね。だから、やっぱり、人が住めるように配慮してもらいたいですよね、何とかね。