今は避難所のお手伝いしています
藤本俊明(ふじもととしあき)です。昭和24年の9月28日、吉里吉里生まれ。今年62歳になる。自宅には私、家内、母親、あと娘。息子は結婚してるので、別に暮らしている。
家が代々天照御祖神社(あまてらすみおやじんじゃ)の宮司。大学卒業後2年ばっかり盛岡の民間企業にいた。その後、役場に入り35年つとめて、去年退職しました。
父は8年前に亡くなった。役場を退職したので、神社のほうに専念しようかなあと思ったら、今年こんなんなったでしょ。それで役場に勤めていた関係上、震災の3月11日からずっと避難所のお世話係している。家はね3丁目で、被害は床上浸水の半壊。今は家を直しつつ避難所の方に行っている。避難所にはいろんな人が来るでしょ。お医者さんや保健師さんが来たり、自衛隊の物資が来たり。最近では網戸とかハエ捕りリボンとか衛生管理もする。
みんな参加の神社の祭り
天照御祖神社は江戸時代前半からある神社。社殿の壁にヒビ入ってて、下の鳥居が倒壊した。はやく本来の神社の仕事をやんなきゃなんないとなあって。うちの場合、氏子は約720。吉里吉里のほとんどが氏子です。
祭りはね、8月の17日に例祭やって、第4日曜日に神幸祭ってあって、お神輿さん、鹿子(しし)踊り、大神楽、虎舞(とらまい)とか。それと女の人たちの踊りだとかが町内を練り歩くんですよ。みんな一緒に。だから見る人より参加する人が多い。鹿子踊りとか大神楽とか虎舞は、江戸の中期あたりから営々と受け継がれてきた郷土芸能なの。小さい子は練習を重ねてきて小学校の運動会や中学校の発表会でちょっと発表したりする。だから後継者育成はあまり心配ない。それで夏のお祭りやって、そこに全部エネルギーを使う。
他にも観月祭や勤労感謝祭なんかあるけど、今年の祭りは例祭だけ。瓦礫のなかでね、まだ仮設に入って落ち着かないときなので、大変なときです。だからお宮で震災早く復興するように祈願して、あとは来年に向けて一歩ずつ前に進むことだと思います。
気心知れてるうちらの世代
ここは小中学校がひとつなんでね。同学年は90人くらい。ここでちっちゃいときからずっと一緒に遊んで気心知れてるでしょ。海で遊ぼうが山で遊ぼうが畑で遊ぼうが結構遊びがあったからね。小学校の高学年あたりでテレビがぼちぼち入り始めた。
昔はね、半漁半農が多かったんだ、ま、漁業が主だけどね。戦中戦後は釜石製鉄所に勤めるような人が多くなった。その後、釜鉄(釜石製鉄所)の合理化で、多くの人が東京や名古屋方面に転勤して、高校の同級生も卒業時には一クラス分ぐらい減っていた。私どもの同級生も製鉄所関係に勤めた人が多い。ただ、一番人数が多い世代だから、残ってる人も多い。
避難所の生活―みんな我慢をしているよ―
ここの避難所にはね、6月の18日まで大阪の緊急救急医療隊や日赤の人たちが来て午前中ずっと診てくれてたの。あとは千葉市から保健師さんがこの前まで毎日来てました。そのあとからは二日に一回になりました。そういう場合でもずっとこう診てくれるのでみなさんも安心です。
この避難所は4月の30日に合併して130名くらいになった。それから5月の末あたりにね、吉里吉里中学校の仮設が80戸できました。そこにね、避難所から約40人くらい行きました。ですからね、80人くらいで推移してきまして、最近また仮設の抽選があって20人くらい出て行きましたね。今60人くらい。
ここの夕飯もね、5、6人が台所で作ってます。冷蔵庫も台所にしかなかった。でも暑くなって「みんなの冷蔵庫」を増やしたの。自分のものに名前書いて入れて下さいってね。避難所にいる人は結構我慢していると思いますが、お互いの立場を理解しながら・・・・・・、一緒にがんばりましょう!という気持ちだと思います。
以前は町内会とかPTAとか、けっこう集まって飲んでコミュニケーションとってたけど、集まる場所、飲む場所がなくなったでしょ。だから飲みたいとか集まりたいとか、愚痴を言いたいという人が多分ストレス溜まってる。こういうときに自然発生的に始まるのが飲み屋。今は秩序もあるから始まってない。でも3カ月4カ月、積もり積もったものがあるかもしれない。小学校の避難所のときにはやっぱり20人30人焚火のまわりに集まってた。そういう点ではもうそろそろ吐き出せるところを求めているところがあるかもしれない。
ここが閉鎖したら私の役目は終わりです。
日頃のつながりが、いざというときの助けになる
避難所の診察には県外の市町村の保健師さんが来る。ここは千葉の保健師さんが一週間交代で二人で来る。これが1週間ごとに十数チーム来てる。千葉市の市長さんはね、結構ここが気に入ったのか、5月に入ってから、わざわざ来てくれた。
今までは連携はないんだけども、こういう災害のときはやっぱりアンテナを高くして情報を集め、支援を求めた方が良いですよ。要するに友達が多いほうがいい。いろいろなところで支援してくれる。職員が派遣されたり、職員が来なければものが届いたり。だから日ごろからどんどん門戸を開いていくといい。吉里吉里の場合は盛岡の近くに紫波町っていうのがあるんだよね。そこで小学校5年生同士がホームステイ交流を26年間続けてるんですよ。夏には、紫波からこっちに来て、一泊して海水浴したり地引網したり、遊覧船に乗ったりして。秋には吉里吉里の子が紫波町に行ってぶどう狩り、りんご狩り、稲刈りしたり。あっちは温泉もある。そういうつながりがあったんで、震災直後、2、3日したら紫波のほうから「100人、200人受け入れますからどんどん来てください」って連絡が来た。結果的にね、80人くらいしかいけなかったんだけどね。紫波町では至れりつくせりの待遇と聞いてる。
あんまり遠いと大変だけど、たまたま紫波のほうが海岸地区のほうとお付き合いしたかったの。吉里吉里に来たときに、んじゃあやるかって、当時のPTA会長さんが引き受けた。私もPTAの会長して、それから教育委員会にもいたので、都合26年のうち10回は私も参加した。そういう点ではこういうお付き合いしてれば助かるからね。千葉の市長さんにしても保健師さんたちが帰ってくると吉里吉里の評判を報告されるわけですよ。それで新聞とか送ると千葉の市長さんがここを見たいって言って、訪問されたんです。災害を通じて「助け合う」という気持ちが強くなったと思います。一人では生きていけないと思った。
ただ一方では、仮設に入れば自分でやらないといけないことも増えていく。だからね、私ら避難所生活でいろいろお手伝いして、避難所生活で不自由な思いをしないように工夫している。
昭和8年の教訓
昭和8年の津波の後に造成した2丁目の地域で亡くなった人が多い。ここは高いからこないだろうと。あとはお年寄りだからどうしても動けなかったんだと思う。昭和8年の経験から、津波がこないだろうと考えた場所に、実際に津波が来るかどうか検証できたのは80年後の今回なんですよね。結果、来てしまった。
今、昭和8年の津波を経験した人は80代なんですよ。昭和8年の津波の話を親から聞いている人はそこに暮らしていれば大丈夫っていう保障のもと暮らしてきたんですよ。この間、チリ津波でも問題なかった。こないだろうと言うところにそれ以上の津波が来た。地震だ津波だっていったならばすぐ逃げるべきだ。
避難訓練は昭和8年に津波があった3月3日に毎年やってんだよ。吉里吉里小学校が主会場で地区民のみんなで参加したが、寒いから高齢者は少ない。津波は防波堤や防潮林も大事だけど、まず逃げる。急いで高いところに遠いところにまず逃げる。これが最も大事なこと。
地域も人も、バトンをつなぐリレーなんだ
吉里吉里の町内会は若い人が中心だったんですよ。1丁目から4丁目まで5つ町内会がある。早い人はね40代で町内会長してるかな。動ける町内会長。われわれの代が一番層が厚い年代なんですよ。そうするとね、40代とかで町内会長やPTA会長やる人とか結構多い。おいって声かければ、集まってくる。だから避難所生活でも、いろんなことを解決するにはそれぞれ誰にお願いすればいいか大体わかるんだよ。そういうネットワークは町内会やPTAで培ってきたの。いろいろな団体が上手に絡み合って、それがコミュニティをうまくしてるのかなあと思うけど。だけど今の20~30代とかは人数も少ないし、これから大変だろうと思う。
次の代にどんどん引き継いでいかねば。復興計画も作るのは誰でも参加できるんですよ。でも、作ったものを実行するには2~3年でできるものもあるけど、ものによっては10年以上かかる。で、10年以上かかるものについては引き継いで。バトン受ける人がいなければ困るしね。
漁業の場合でも後継者だね。後継者って言えばリレーでバトン受ける次のランナーでしょ。バトン渡そうと思ったら次のランナーがいない。そうすればそこで止まってしまう。職業とか地域とか連綿と続くものはね、やっぱりバトンを渡さないといけないと思う。地域を引き継ぐって場合には、一人じゃ限界があるでしょ。マラソンの42.195キロ走るっていう一人だけの頑張りじゃだめなんですよ。バトンを引き渡すことによって、次のランナーが走る。で、次の人が受けてくれるっていうのがあるから走れる。引き継いでくれる人がないと非常にガクッと来る。職業によってはどうしても引き継いでもらいたい職業もありますよね。地域に根ざしている職業はやっぱり継いでほしい。そうなればね、われわれの世代も次の走者が走ってるのを見届けるっていう余裕のある状態でバトンを渡さないといけない。上手にリレーしていくべき。この美しい自然とか、震災でがんばってきた、難局を乗り越えてきた地域の歴史は引き継ぎたい。
乗り越えていこう!
震災直後、役場庁舎前にいた職員30数名が犠牲になったことを聞き、同僚の顔が浮かんできて、大きな悲しみと衝撃を受けました。
この震災で90人ちかくが亡くなったんだけども、明治の津波で大槌町で600人が亡くなって、そのうちの300人くらいが吉里吉里で亡くなった。私のうちも6人亡くなっている。昔は、仮設住宅も携帯電話もパソコンもない時代にがんばってきた。今はいろんな物資もボランティアも来る。仮設には冷蔵庫や洗濯機、日用品とかも用意してくれるから一応は安心。でも、仮設住宅での生活は2~3年と続くので精神的なこと、健康面で心配されることが多く出てくると思う。その対策を、みんなで考えていきたい。そして仮設住宅から出て、早く新たな生活が再建できるよう、願っています。