私が育った家庭
村田幸子(むらたさちこ)です。女性三人姉妹の長女として吉里吉里に生まれて、高校までここで育ちました。小学校の頃は目立つほうでもなかったし、お勉強もスポーツもあまり得意なほうじゃなかったです。まあ、ちょっと目立ちたがりやな所はあったかもしれない。妹はよく私に「姉ちゃんは太陽みたいなんだよね」って言ってました。姉ちゃんがいると何が起こっても大丈夫なんだな、姉ちゃんがいるから大丈夫なんだなって言ってくれていました。三姉妹は喧嘩はほとんどなくって、私が強いので、私に合わせるという形で、私がこうしようというと皆そうしよう、という感じですごく仲が良かった。
もともと父は代々続く船主だったけれど、娘3人なので跡継ぎがいなくて、わかめ・ほたて・海苔とかの養殖を始めました。とにかく父は一生懸命働いている姿しか浮かばない。それを母が支える。夫婦喧嘩もなく支えあって生きてきた、私達の目標というか、いつかはこういう夫婦になりたいと思って見ていました。
私達は親が毎日働いていたからお祖母ちゃんに育てられたんです。だからすごく躾も厳しかったし、言葉遣いにしても人への接し方も厳しかった。お祖母ちゃんが、幸子、稲穂と頭は下げるほうが良いんだよ。そして一歩下がって人のことを考えなさい。と言っていた。それから、お祖母ちゃんは「幸子、お前は鏡を磨きなさい」と言っていた。鏡を磨くということは自分を磨くということだから、お前はとにかく鏡を磨きなさいと言っていた。妹には、あなたはお嫁に行く人間だからお米を大切にしなさい、食べることを大切にしなさい」と言っていたみたいです。お祖母ちゃんはすごく美人で、周りに人が集まる人だった。私もお祖母ちゃんが大好きで。この間、お祖母ちゃんの弟に、幸子ちゃんお祖母ちゃんに似てきたねって言われてすごくうれしかった。私は両親のような夫婦になりたい、年をとったらお祖母ちゃんみたいになりたいって思って生きているんです。
高校生ぐらいから目立ちたいと思い始めて、弓道を始めて、大槌高校の2年生の時に弓道部に入りました。妹も弓道をしていて、すごくうまくて最優秀弓道賞をとったりもしていた。でも妹がそれを偉ぶったことは一度もない。私の娘も弓道をしていた。息子だけラグビーかな。でもそれ以外は皆弓道をしていました。
わがまま放題に生まれ育ったけれど、人を労わるとかそういうことをおばあさまに言われて育ってきたんです。絶対飾らないし、私はこのぐらいの人間だから、こんな私を好きだといってくれるならいいよ、って思ってます。屋号は「いたこ屋」に生まれて、顔ももう「いたこ屋」って顔をしているんだそうです。おじさんたちも皆勤勉家で、水先案内人(大きなお船を港に連れてきて接岸する職業)をしていました。2番目のおじさんもIOTに勤めて、いろんなことが出来る人の中に育って、本当に幸せだと思っています。
皆で分ける、という環境のなかで育ってきました。土地柄というものもあるかもしれない。だってこういう寒いところでは、助け合っていかないとね。暖かい宮崎では「てげてげで良かっちゃが。」って言うんですけど、こっちでは「てげてげ」っていうわけにはいかないですもんね。あっちのほうだと何でも2回獲れるんですよお米もジャガイモも。でもこちらだと、秋の収穫が終わるともう何にもない、海のものしかないですから、皆で分け与えるというか。私の母親達は、自分達はなくても人に分け与えるという考えですからね。今の自分があるのは、夫、両親、おじいちゃんお祖母ちゃんのおかげだと思っています。
私の家族と地域
吉里吉里の団結力、地域に誇りを持っています。団結、和がある街で、よそからお嫁さんが来ると入りにくいところはあるかもしれないけれど、一度地域に入り込むと、血縁、血のつながりが多いので、まきって言うんですけど、漢字は「巻」かしら、家のつながりがあるんですよ。その構成で互いに高めあっていくというか、そういうところがある街ですよね。いい所もあれば悪いところもある街ではあるんですけど、私はこの吉里吉里に生まれて、高校までこちらにいて、東京のほうの洋裁学校に行って、宮崎に嫁いだんです。
今の家族は、主人と私と子供が2人と私の母親。主人は商船に乗っていて、貿易船なので一旦船に乗ると1年くらい帰ってこない。だから、船が帰ってきて3ヶ月ぐらいのお休みの期間中に宮崎に居て、商船が出て行くと吉里吉里に帰ってくるという生活をしていました。ただ彼は九州男児という誇りを持っておりますので、最終的にこちらに来てもらうのに大変骨が折れました。説得に14年かかりましたよ。
この地域は、おせっかいだけども、道歩いていても「寄ってってー、お茶っこ飲んでってー。」というのが合言葉みたいな感じになっている。気心も知れているし、いい所も悪いところも皆知っている。見栄はる必要もないし。冠婚葬祭も村中で助け合う。そういう精神がある。今でも、親戚でなくてもどこかで結婚式があるとおめでとう、というお届けをするような土地。小さい頃から、何代も昔から助け合いというのは当たり前のようにやっている土地柄。リーダーになる人が人格者でないと付いていかないし、助け合わなきゃ生きていけないんだということを一人ひとりが本気で思っていることなんだと思う。
津波のとき
地震があったときには私と母親と娘は自宅に一緒に居ました。会社にいた息子が津波がくるというから家に帰ってきて、波が着たから海のほうの道には行けないと言われて小学校のほうに来たらバックミラーに波が来ているのが見えたそうです。小学校に避難していると思ったら私達が小学校にいないからビックリして、家に帰って来て、そしたら私達がいたから、何してるの、って怒られて。とにかく何も持たずに出てきた。息子がパニックになっているおばあちゃんを持ち上げて、小学校まで避難してきて、家族の絆というか、おばあちゃんを思う気持ちに感動しました。土煙で水蒸気のようなものが見えて、小学校に上がってみたら波が来ているのが分かりました。
旦那は、今は水産庁の取締船のお仕事をしています。津波があったときには仕事に出ていて北海道にいました。地震が来たときには情報がなかったという状態が3日ぐらいは続いて、私のほうはシフト表を見て、沖に出ているのであれば大丈夫かなと思いました。でも携帯もつながらないし、避難をしたときに誤報があって、うちの娘の名前が避難所のリストに載っていなかったので夫は娘はだめだったのかと思ってしまった。情報がない、正確な情報がほしい、と思いました。何日か経って新聞が来たときに初めて何が起きていたのかを知ったけれど、安否を確認するのにも大変だった。
家は、吉里吉里小学校の東側のすぐ下にあって、5、6年前に家を新築して1、2mぐらい嵩上げしたので難を逃れることができました。津波のあった夜には炊き出しが始まって、線路から上は大丈夫だったので、おにぎりをいただきました。3日目にはお味噌汁をいただきまして、あの日のお味噌汁は美味しかった。寒い日だったから暖かいものはとてもほっとした。皆さん自分も被害にあわれているのに、皆協力して炊き出しをした。皆小学校に避難しました。バスが4台あったのでバッテリーを起こしてストーブをつけて部屋を暖めてくれて電気をつけてくれた。油もなくなってしまっていたので父の弟がオイルターミナルに行って油を分けてもらって。津波の次の日には道路ができるように整備もされて、ヘリポートも作られたみたいで。そういう発想がどんどん出てきているのですごいと思いました。
実は妹夫婦が罹災しました。2人の間には息子が居て、今役場職員として一生懸命働いていて、私が泣くと私のほうが励まされるんです。一番下の妹は釜石のほうで保母をしていて、仕事中に地震が来たので子供を避難させて保護者にお渡しして、自分の子供も気になったけれど、子供達を父兄の方にお返しする仕事が優先ですから夜中に家に帰って。翌日に役場に居た人が子供も大丈夫だよと教えてくれたそうです。でも千坂峠を越えてくることが難しかったから子供に会えるのに3日かかったそうです。
これからどうしていこうか
妹夫婦に対しては何で?と思ってしまう。最初のうちはただただ悲しかったけれど、近頃は怒りというか、助かったのにね、逃げれば助かったのにね、と思ってしまいます。妹は一番頼りにしていたし優しかったし、手足をもがれた以上に辛い。親も涙を見せないようにして、私に心配をかけないように歯を食いしばっているんだろうな、と思う。息子は本当に頼りになる、夫がいないときにこんなことがおきたから、男の人は本当に頼りになるということを実感しました。息子がいるだけでも安心、仕事で夫がいなくても、息子も自分は長男だから皆を見守る責任があるって言いますもんね。
でも、自然に人間は勝てない、ということをとても思いました。勝てないのかな、と思ってですね。子供や孫に伝えなきゃいけないことは、何をおいても逃げることだと思います。そういうことを私もお祖母ちゃんから準備をしておきなさいと聞いてきてました。きちんと着る順番にたたんで枕元に置いて寝るんだよ、いつ何が起きてもいいように準備をしておくんだよと言われてきたんです。大きい地震がきたら津波がくるから高いところに逃げるんだよ、と伝えられてきた。山の上に逃げなきゃだめだよ、ということを伝えていくことは私達の義務だと思う。
食べることは一生懸命助けてもらったけれど、生きていく糧というか生活をしていくために何をするのか、子供達が今後どうしていくのか、それを助けてあげたい。災害で子供が伸びないということがないようにしたい。私達というよりも、子供達やお年寄りを守ってほしいというか助けてほしいと言い続けている。あとは、若い人たちの働くところ。自分の子供達も今回の津波で仕事を失ってしまった。今は役場で臨時の仕事をもらっているけれど、今後内陸のほうに行かなければいけないと言っている。将来のことを考えると若者が居つく街でないといけない。後継者がいない、主流で働いているのが70代になってきてしまっている。三陸のわかめはブランドになっているけれど、私達にはどうすることもできない難しい問題がある。
街自身の復興にあたっては、今までの延長で、このままの気持ちで復興をしていくべきだと思う。日本人の心が吉里吉里にはあると思う。ここの良さも悪さも見ていけるし、良い部分を伝承していければと思っている。損得だけではなく人と分け合っていこうという気持ちがあるのでお隣さんと冷蔵庫の電気を共有したり。親の背中を見て育ったから自分もそうしよう、子供達もそうしよう、という気持ちが伝わってくるものだと思う。人のために、というおごりではないけれど、そういう気持ちでいられればいいと思っている。
人に関心を持ちすぎる、という部分もあるけれど、それが結びつきという形ですしね。
人間というのはやっぱり強いなーと思います。こんだけのことがあっても、頑張りますもんね。生きていくっていう。私はよく「どさん子」という言葉を使うんですけど、私達は南の人間と違ってどさん子だから強いんだよ、って言ってからですね。粘り強いから頑張るんだよ、って言ってからですね。私の父親が、泣いて暮らすも一生、笑って暮らすも一生、どっちがいい?って言うんです。笑って暮らすほうがいいよね、って言って暮らすことで私達も元気が出るというか、ここよりももっと前向きにいけるんだろうって。泣いてても始まらないよって、皆で助け合って頑張っていくんだな、って思います。新聞を読んでいたら、困難は人間にだけ与えられたものだって書いてあった。なぜかというとそれを克服できるから。なるほど、と思いました。それができる土地柄だとも思っています。
それから、今回の震災と津波で大切なものを失ったけれど、親子愛だったり家族愛だったり、人として一番大切なものは何なのかということを気付かせてくれるような震災だったんじゃないかな、と、時間が経った今、思うようになりました。