吉里吉里で大工50年

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仕事つうのは、師匠上がりしてっから、覚えるんだね。弟子にいるうちは、それこそなんでもすっからね。
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Tokyo Foudation
Geolocation
39.3698337, 141.9411843
Location(text)
岩手県大槌町吉里吉里地区
Latitude
39.3698337
Longitude
141.9411843
Location
39.3698337,141.9411843
Media Creator Username
Interviewee: 倉本方紀さん, Interviewer: 福島空
Language
Japanese
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Japanese Title
吉里吉里で大工50年
Japanese Description

倉本方紀(くらもとまさき)です。もともとはこちらの生まれ、昭和17年12月5日。大工さんです。大工さんになったのは、おやじの望みだったの。小さいときから。兄弟は、俺いれて4人。兄っちがひとり、正月亡くなった。下は弟と妹。弟と妹は、お母さんが違う。弟はいま、事務所は流れたけど水道電気の工事屋さんやってるし。妹も、店は流されたけどもやっぱ水道の方に務めてたんだ。

いまは妻と息子と娘と孫と住んでいる。2番目の息子は東京にいる。おらの2番目の息子は、東京さ行くときに、おやじ本当にいいのかってね。あれは大工さんしてもいいと思ったんでねかな、今思うとね。

あの日 3月11日―その時

地震のあったときは、たまたま家にいだった。家は線路のすぐ上だから。それで地震がおさまってすぐに、揺れがすごかったからね、孫を、幼稚園さ行ってっから、それを車で迎えに行ってさ、連れてきて、置いで。女房さ、車も2台作業場にあるから俺取りさいってくるから、って言って。歩って、だいたい5分ぐらいかかっかな。途中、同じ働いてる壁屋さんがいだったのさ。だからまづ、ダンプの方はその壁屋さんに持ってってもらって。ほいでまづ行って、軽のバンをエンジン駆けてハ、車を方向転換てハ、逃げるスタンバイで。大津波だからね。あれで道具をつんでれば、だめだったかも。波が見えたったから、あの国道の曲がったとこさ。作業場は近いからね。あの波を見たから、まづ逃げてきた。ただ、途中、仲間の大工さんいだどもね、声かけたどもね、その大工さん流されだった。だめだった。声かけてきだども。「大工さん!津波きたよ!」って、だども。そこが残念だったな。奥さんとふたり。それがすこし心残り。声がちちぇがったのかなーと思って。ほってば、歩っでどきも声かけたどもね。ほいで帰りもエンジンかけて、一回帰ってぐどきもいだったからね。

それからあどは吉里吉里の駅、あそこまで上がってきて、それからこう見たのす。したら大変なんだもんねぇ波がハもう、家が流されて…。駅の方まで上がったのさ、車でね。自宅はその上だども、自宅の方も心配したのす。それから、娘はバイトで、役場の方の臨時でね、大槌中学校の事務の。だから俺はそっちの方を心配しだった。結局、自宅も家族も大丈夫だった。

同級生は3人亡くなった。浪板2人、吉里吉里1人。吉里吉里にいた人は定年になって家にいたんだな。浪板は漁師だな。船を見にさ行くとか、海の近くに行った人はだめだな。

被災生活、木と酒で暖をとる

弟のうちの人たちはおらいのうちさきたのさ。うちさ流されたから。1ヶ月ぐらいかな。それで避難所さ行ったのさ。うちさいると情報がはいんねからさ。8人ぐらい泊まってた。お酒は毎晩。酒の好きな人だったからね、夜は寒いからね。ストーブで暖をとってた、燃料は木、木で。大工さんだからね。小屋にストーブ付けてたから。電気は1ヶ月以上止まってた。ガスはボンベさ入ってたからね。あとはストーブで火燃(も)すればね。だから、2ヶ月ぐらいコタツで寝たな。お客さんに布団寝てもらって、自分らは、飲んでっから寝るからね、その方がいいんだ(笑)。

子どもの頃のくらし―なっでもしたおやじ

むかし、自分のおやじは、木を伐って、それを薪にして、しょってきて。あまり車て無かったからね、しょってきて。あとはそれをたまに売りさ行ったりもした。昔はお風呂は木でね、子どものころはお風呂もなかったんだもの、もらいにいくの。煮炊きも薪で。おら子どもの頃は、つるべでね、つるしてね。鍋でもやかんでもかけるわけだ、まあ昔は鉄瓶だな。炭は、炭を焼く人が専門でいるわけで。その人たちは店に卸して。で、私達は店さ買いに行くと。炭は、まだ使ってっとこもあるけどね、今は使っても一部だしね。むかしはコタツにもね、コタツにも炭いれたんだ。

おやじはなっでもしたな。漁師もしたし、果樹生産もしたね、あどは山さ。畑もなんぼかやっでた。畑って、自分たちで食べるばりだから、その頃はよその家のを借りて、耕したった。手伝いは芋掘りだのね、大根抜きだとかね。山の手伝いもまづそだな、あんまり行かないんだね。小さい頃は、遊び専門。

カゼとアワビと海遊び

同級生は仲がいいね、最高だ。兄弟と同じ。来年は古希だ、俺たち70だ。同級生は60人ぐらいだな。今の子供たちは半分なっぺかってとこだな。浪板ってとこに学校あったども、なくなって吉里吉里と一緒に。あそこの浪板海岸てば、寄せ波ばりだから。返す波が無いわけだ。全国になんぼもねんだ。

子どもの頃は海に行く行く、結構泳いだり、潜りも、あーややや。カゼもそうそうそう、食べるくらいね。カゼは、ウニだねウニ。あとはちょっとしたの持ってくる。いまハー、持ってくるったって、ほれ大変だすぺ。逮捕される。あん時はまだ。

昔はおら小さい頃はあんまり買ったのなかったものね、アワビでもカゼでもね、獲ったりするのはなんぼか自由だったのよ。今は厳しいからね、店で売ってるからね。昔から魚もスルメイカももらって食べた方がよけいだども。いまはなんぼでも買わねばね。

獲れるのはカゼとアワビだったな。カゼはまれだども、アワビの方だな。カゼはタモでね、あとはカギでね。アワビは一本カギで。そりゃ特に先輩たちが獲ったんだなあ。うん、まづ、上手な人と。いぐどこ決まってっからね。そこにいないば、いない。自分たちのときは、だいたいハー、いぐひとは決まってんだ。だいたい縄張りとおんなじだ。やくざ屋さんとおんなじ。

大工人生50年―師匠に弟子入り

16からね。中学校終わってからね。安渡(あんど)地区、トンネルくぐったとこのすぐそこだ、隣、海沿いだ。そこさ修行に行ってたの。師匠の家に住み込み5年間ね。それから50年以上になんだな。ハハハ!

修行先でまあ、いじめられるのはね、当たり前だから。兄弟子が2人いた。33年の年だからね、弟子さ行ったの。んだから、チリ津波のあれは35年だったわけだね、俺弟子の時だったから。あんときもー、大変だったな。修業先にも津波が来たの、あだったの。うちさなんぼか入ったくらいだったけどね。

あの辺りって、製材所はあまりないから、ほとんどが移動機って、山の近くさ持ってってやるの。当時は伐って製材するところから。あの時は、年に何棟というわけでも無かったね、家建てるっつのはあんまりないような気はすっども、なにかかにか仕事があった。うちの師匠は建具もやったからね、だからそういうのもやったり、あどは土木建築請負士だったからね、だからなっでも、コンクリもやった。弟子に行った頃、一輪車が無かった、だから担いで。そーうそうそう、だどもね、やんねばねと言えばやっだからね。

弟子は「なっでもする」

師匠はおっかなかったよ。弟子当時は、なっでもしたなぁ。ブタも扱ってた。それの餌も近所さもらいに歩くわけ。そんなんもしたの。他の家で食べたの残したのとか、米のといだとぎ汁とかね、そういうのも頂いてたの。昔は当たり前だった。あん時は2頭いた。それは終わってっから売るわけだ。太らしてから売って、また小さいのを育てる。

たまにお茶づくりもやってたからね。師匠の家で食べる用の。お茶の揉みかたもしたりね。畑のふちにね、お茶畑ってね、それこそ静岡と同じだ。あとは昼間仕事終わってきて、ご飯食べてから、そのお茶作るところから、煮たのを、熱いとこ、そこがまたいいとこだから。今は、やってねえって言ったな。

師匠は、親以上

師匠は80過ぎだったっけ。結局働かないでも、仕事に対しては厳しいんだ。

仕事つうのは、師匠上がりしてっから、覚えるんだね。弟子にいるうちは、それこそなんでもすっからね。仕事くれんのは、師匠上がりしてっから。それから覚えるんだね。5年奉公するわけ。それ終わってから。

師匠上がりしたら、今度は家から通うから、なんぼかお金もらって。弟子当時はお金はもらわねえ。今はなんぼ弟子でもなんぼかもらうけどもね。昔はお盆と正月に、俺が貰ったのは300円ずつだったな。大槌から釜石まで往復で60円だった、汽車はね。映画あん時は55円かなんぼ。ラーメンが30円か40円だったな。だから300円ていえば、大金だった。あどは土曜日、日曜日てのはねえんだ、だから1年が長いんだ。盆と正月以外は休み無しだね。今は土日あっからね。帰れる時はうれしかった。

師匠は、親以上だな。何年なっぺ亡くなってな。お盆には花もって仏さんを拝みにいく。今度はお家流されたからね。んだから息子さんの奥様が流された。亡くなった。岩泉の方から来てた人、お嫁さんでね。大変だぁ。

大工として独立

45年に独立。その年に2棟やったったな。頼まれたのは、親戚だから。

壁屋さんでもね、屋根屋さんでもね、結構いるから、電気屋さんね、建具屋さんとかと一緒に仕事をやるんだね。大工さんは大体5人ぐらいだな。あんまりいっぱいいてもね。忙しい時はそれ以上になるけども。1棟だればやはり4、5人だね。工期は大体3ヶ月だな。昔でば住んでるお家をほぐして、建てたわけだ。材の再利用は、あんまり使わなかったな。昔は使ったけどね。弟子当時は使ったね、やっぱり。剥いだ板(えだ)をまたつかったりね。刻み直したりもする、んでもそのまま使うのがよけいだな。

大工をやってて良いのは、仕上がったときだな。あどは喜ばれることだな。大変なことは、今度の場合、物が入ってこないとかね。合わない時は、大工さんだからね、帳尻合わせるわけだ。

熟練大工は「間違いない」

ハウスメーカーだからね、今ね。大工さんは減ってるね。自分たちはいまでも組んだりしてる。材を木材屋さんから買ってくんの、それをまづ墨をつけて、刻んでいくの。今ほとんどプレカットって、ほれ、それは、やんないから。大工仲間は4、5人いだの。いま、だいたいハ、歳とってな、60過ぎたなみんなな。仕事は間違いないな。

大工さんの遠征

遠くは横浜まで行っできだな。もともと大槌の人だったからね、横浜に住んで、そこに頼まれて。遠くはね。あとは仙台ハいったね、塩竃だの花巻、水沢。5、6件やったな、遠くはね。たまにゃいんだ。ハッハッハ! しばらく行ったっきり。大工さんでも料理好きな大工さんもいっからね。おひるはローソンだね。夜はコレ(酒)だから。

震災の被害

けっこう自分が建てたお家は流されだ。うん。亡ぐなったぁ人もいるしね。…ハーーッ。

作業場は流されて、あと、道具はみんな流されて。機械もね。道具はいま少しずつ揃えてる。いま作業場をそこさ建ででたのね。作業場がなくて仕事になんね。

山田の方から、船越の方からも来てる大工さんも二人いっからね、その一人は大丈夫だども、一人は家を流されて、いま避難所にいんだ。そこから通っていま働いてもらってんの。

震災後の仕事

いま頼まれたのもやってけども、契約も間に合わねえ、一緒に頼まれるからね。大工さんも少ないからね。いま、頼まれんのは、直すとこね。柱がなくてもいいわけなの、柱がなくなったとこを別に入れ替えして。大工さんだから。ギリギリって上げて、柱を抜いて、新しいのを入れる。まわりのを上げて、ここさ新しいのを入れ替えさするわけだ。土台がなんともなくて、柱ばり壊れたときはそうするわけだ、まあ修理は柱ばりだったな。柱が折れちゃう、物が当たって。結局、柱がなくなるぐらいだから壁も、流し、風呂もあれだ。それでも建て替えよりはいんだね。

津波はこわいっつか、たまげだな。あとは今の状態では、規制で建てていいか悪いか、まだはっきりしてないからね。だから大変だよ。まだ、この瓦礫がなくなんねえうちはな。んでも結構片付いた、ボランティアだの自衛隊だの。早く元通りになればね、いいね。津波がまたくるとは思いたくねえな。思うと何もしたくなんねしね。

いや、大変だな。

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