家族
名前は芳賀寛治(はがかんじ)と申します。昭和14年7月17日生まれ、今年で72歳になるよ。元気でしょ。それは外見だけ。中身はぼろぼろだよ(笑)。若いときの元気の源はクエン酸だったね。クエン酸、真面目に飲んでたから風邪知らずだったよ。
家族は私とお母ちゃんと娘と息子の4人だね。お母ちゃんは私の5歳下で吉里吉里の出身。私が27歳の時結婚したからもう45年経つけどね。娘は40なんぼ、息子は30なんぼで、まだ独身なの。息子は釜石で働いてるよ。娘はうちの店手伝ってたんだよ。うちの店? 芳賀商店って言って吉里吉里じゃ大きい方の商店だったの。食料品扱ってて鮮魚も売ってたよ。でも、数年前から町内に大型店が出店して経営状態が芳しくなかったから、今回の大震災をけじめにして、店をやめる決心をしたんだよ。お母ちゃんも一生懸命働いてくれたし体力的にも限界かと思って。あまり丈夫じゃない体なので、少しでも体力的に余力のあるうちにと思ったことも事実でね。ただ高齢者のお客さんには申し訳なく思ってます。
大槌町消防団
私は20歳の時から65歳まで消防団活動に携わってきたの。地元吉里吉里・浪板地区第3分団の分団長を4年間勤めて、その後本部副団長を13年間勤めたの。大槌町消防団では昔から消防団活動の年間行事の1つとして、年1回親睦区交流大会をやってきたの。野球大会、運動会、カラオケ大会と続けてきたんだけど、今から10年位前に中身を変えて講演会をやることになって。私が交流会の実行委員長の指名を受けて、いろいろ検討した結果、盛岡大学の、地震津波専門学の権威である教授にお願いして講演をしてもらうことになったの。消防団員、署員、婦人消防協力隊、約300人程の出席者でした。約1時間30分の講演で、特に繰り返し「岩手県と宮城県の県界沖が、今にも大地震大津波が来てもおかしくない位危険な状態です。皆さん十分気を付けてくださいよ」と念を押して言われました。だけど、どこまで避難すれば安全かはわからなかったの。家族や地域の人たちにはその話をしたんだけど、今にして思えば、もっともっと強く話してやるべきだったと残念でなりません。
心の油断、スキがあったんです
今回の津波は、明治29年の時とは全然違ったよね。明治の津波は、家から50m位下の金毘羅神社付近で止まったんだよ。大体海抜10m位かな。今回は約14m位かなって思ってるけど。
地震の後だね。「第1波が海岸近くのあづま民宿付近で止まった」って誰かが言ったの。第2波が一番大きいって言われてきたけど、自分ではせいぜい明治の津波と同じくらいかなと判断してしまったんだよね。だから、第2波が来るまでの間、地震で棚から落ちた商品の片づけをしてたの。でも、外の異変に気づいて道路に出てみたら、第2波が、不気味な音を立てて来たの。住宅が粉々に壊れて、黒い煙を巻き上げながら、海岸から数百メートルにあった家の2階が2軒、うちの前に瓦礫と一緒に流れてきたから、もうびっくりした。気を持ち直して、自分も逃げようと向かいの駐車場から車のエンジンをかけて走ろうとしたら、瓦礫に押されて車に閉じ込められてしまったの。運転席で潮の流れを見ていたら、大分流れも弱ったから大丈夫かなと思って潮が引くのを待ったの。そのときは運転席と後ろの荷台も水と泥で一杯だったね。
それから20分位して海水が引き始めたんだけど、瓦礫で車を動かせなくなって。でも幸いにディーゼルエンジンのためか始動できたの。近くに止めていた軽トラは海水がエンジンに入って使えなくなった。
お母ちゃんと娘は、なんとか逃げ延びただろうとは思ってた。無事の姿を見て安心したね。家の周りを見たら、玄関と茶の間に近所の家が3軒程押し重なるように流れてきていてびっくりした。茶の間にも水が入って、納屋もすっかり壊れて。1週間位、親戚の家に世話になったよ。畳を10日位干して、納屋と住居の壊れた部分を修理してもらったの。
米軍飛行機、機関銃がバラバラーって。忘れることできない
3月11日の大震災もだけど、戦争の時も大変だったよね。私が小学校に入る前の年、7歳の時に初めて空襲があったの。その後、数回逃げた記憶あるね。
当時は山の所有者が防空壕を掘って、空襲警報が発令になるとそこに逃げるの。電気を消したり、子供は泣かせちゃダメだってすごい気を使ってね。その中で忘れることできないことの1つが、当時の集会所前の岸壁で親父と釣りしていた最中の空襲だね。アメリカと戦争が始まってたのは聞いてたけど、まさかこの辺まで攻撃してくるとは思ってなかったから、最初は日本の飛行機の訓練かと思ったの。びっくりして親父と2人で近くにあった定置網の番屋に逃げたんだよね。そしてその辺にあった布団を頭からかぶって30分位過ごしたの。そしたら布団の中にいたシラミに刺されて、痒くて痛くて我慢できなかったから外に出ちゃったの。それから近くの山中に逃げたんだけど飛行機に見つかってしまってね。弾がバラバラーって飛んできたけど、大木の影に隠れて助かったね。
他にも大変だった時あるよ。今の大槌高校近くの裏山に、お袋の実家で避難小屋を建てたんだけど、ある日空襲警報が鳴って、お袋と弟とそこに逃げる途中飛行機に見つかってしまったの。お袋が「逃げろーっ、逃げろーっ!」って叫んで、みんな無我夢中で走った。低空飛行で飛んできて、私達の真上から左右にバラバラーって、機関銃の音がすごかった。でも思えば、私達には当てる気がなかったんではないかな? 当てる気があれば簡単に撃ち殺せたのに…。幼い時だったけど、今でも当時のアメリカ兵の飛行兵には感謝してます。
小学校4年生から浜へ親父に引っ張られて
小学校に入学してすぐの頃はね、吉里吉里は昔から遠洋漁業が盛んで非常に潤ってたの。北洋・中部のサケマスが大漁でドル箱でね。サケマス船が出漁する時は毎年、小学校・中学校の先生・生徒は全員港まで見送りに行ったんだよ。
私の家はサケマスと関係のない小漁商売してた。小船で延縄漁という漁法でアイナメとかマガレイを主に釣り揚げていたよ。6人兄弟で収入も少なくて貧乏でね。小学校4年生の頃から親父に引っ張られてたね。特に野球が大好きだったから、野球部に入ってたの。夕方に練習してると、家から「待ってるから早ぐ来い!」って電話が親父から来る。夕方から夜にかけての商売だったから、帰りはいつも9時くらいだったなあ。そういう生活の繰り返し。好きなことあまり出来なかったよ。
中学校卒業後は生活もいくらか良くなったけど、中学校3年間勉強にも集中出来なかったから、卒業後は家業を手伝うことにしたの。それまで使っていた小船から動力船にして、延縄漁を中心にした仕事をしてたけど、数年後、さらに2t位のディーゼル船を造って漁の規模を少し大きくして、生きたイワシやアジを1本ずつハリにつける仕掛けで、主にヒラメ・ヒガレイ・アブラメ・スズキ・アナゴを漁獲したよ。春から夏場は、早朝2時頃に大槌湾目指して出航して、雀島の定置網に行って生きたエサイワシを買って、水槽に入れて漁場へ。投縄場所は海水浴場で有名な根浜海岸だったね。投縄時間は約1時間30分くらい。それから、おにぎり食べて揚縄にかかるんだけどそれが約4時間。その後魚市場に直行して水揚げ終わって帰港するんだけど、往復2時間以上かかったかなぁ。魚市場は競り時間外だったから特定の業者から買い取ってもらって。秋口になると魚の獲れる場所が船越湾に変わって、同じくヒラメ・ヒガレイ等の漁をしたよ。今のように車の時代じゃなかったから漁の水揚げは大変だったね。12月末になると寒さが厳しくなって手がしびれて、生きたエサをうまくハリにかけることが難しくて、その時点でこの商売は休漁になるの。
延縄漁の時期が終わると、すぐ刺網漁に出て、3月まで冬場も休まずに漁やるんだよ。今考えると、年がら年中何かしら働いてたね。刺網漁は色々な魚が獲れたけど、主にナメタカレイ・スイ・アブラメ・タナゴかな。漁場は大島の北沖に大浅根っていい漁場があったね。ポイントは他にも何箇所かあってね。何艘か仲間の船がいて競り合って商売やっていたんだけど、だんだん魚も少なくなって他の商売への転業も考えたの。
波の荒い場所はいいワカメが採れるの
私が30代前半の時に10人位の人達で養殖グループを設立して、私もメンバーの1人として参加したんだよ。最初はワカメ養殖をやることになって、船越湾の上閉伊と下閉伊の郡境から南西の方向に施設を造ったの。でも、あそこは種を育てる場所としては不適当であまり良い成果が得られなかったね。やっぱり、良い種、良いワカメを育てるに外洋でなければならないということがわかって、大槌湾沖に場所を設置してから大変良い量質のワカメが水揚げされるようになった。私はそれから数年でやめたけど、ワカメの養殖は吉里吉里地区の大きな収入源になったね。
それがこの津波で壊滅的な被害を受けて大変なことになった。ワカメの養殖やってた人の中には、高齢者も多かったから、辞める人も大勢いるとか。ホタテやカキをやってるとこは、出荷できるまで3年位かかるのかなぁ。本当に1日も早い復興を願うばかりです。
いいと思っても台風が来る。思うようにいかない
延縄漁に刺網、ワカメ養殖の他に、海苔の養殖やったこともあるよ。その時は、吉里吉里の海水浴場沖に施設を造ったの。海苔養殖は8月、9月頃施設を造って固定する。そして網を張り終えて、種つけてもいいなと思っても、季節の変わり目頃の10月、11月になると大きな台風か低気圧が来る。その度に施設が流されて壊滅状態になってしまう。海苔養殖を5、6年やったけど収穫あったのは2年だけ。これじゃいつまでたっても空回りだから、お母ちゃんとも相談して、思い切って商売変えをしようということになって、商店経営を始めたわけ。最初はお母ちゃんとお袋、2人でやってたけど、だんだんお客さんも増えてきて忙しくなってきたので、私も浜の仕事に見切りをつけて、トラック買って釜石や大槌の市場にお母ちゃんと2人で仕入れに行き始めたんだよね。
吉里吉里を支えた40年間
商売の方は結構忙しかったんだよ。食料品のほかにも、酒・タバコ・塩・米・専売品も売ってたの。昔は酒類、タバコ、米の免許取るのすごく大変だったんだよ。
でも、時代の変革と共に規制緩和政策が取られて、金と力のある大型店がテナント制から独自で免許を取り、大量仕入れ、バックサービスなんかで安い値段で仕入れして安値で売るでしょ。私たち小規模業者にとっては、本当に死活問題。規制緩和で、結果的に岩手県だけでも酒、米専門店が何万件という数で廃業せざるを得なくなったようだね。町内でもマスト(ショッピングセンター)が開店、それからマイヤ、ジョイス、みずかみ、ローソンが続々出店してる。うちの店も10年位前から経営状態が悪化して、近年はなんとか赤字状態にならないよう維持するのが精一杯。それでも足腰の弱い人たくさんいるから、その人たちの支えにと思って頑張ってきたけど、周囲の人たちに、何かあったら店やめますよと常々言ってきたの。でも、こんな大津波で店を廃業するとは夢にも思ってなかったよ。
津波で店舗の中が50センチから60センチ位浸水したの。海水が引いたのは夕方で、その後は泥濡れ。水道も止まって、こりゃあ大変と思ったね。その惨状を見て、後片付けをしながら店の復興は無理だと判断して、その時点で閉店を決意したよ。
3月11日直後は、湾岸付近の核店舗が被災して営業してる店がなかったの。後片付けをしながら、仕入れも出来なくて有り物売りをしたんだけど、電気もないからローソクの光だけで、レジも使えなくて電卓で計算してね。大槌や安渡(あんど)方面からも食料を求めて、たくさんのお客さんが来て。4月になってからは全品半額にして9割方商品がなくなって、約40年間の商売と、お世話になったお客さんに感謝の気持ちで廃業したの。
浜の近くにいたいのは、やっぱり本心だよね
「復興、復興」って言ってるけども3ヶ月、4ヶ月経っても方向性が見えてこないよね。何しろここだけじゃない震災だからね。福島の原発はどこ見ても大変なことだらけ。
漁師の人達は出来れば浜の近くに住みたいと思うよ。最近、各地区ごとにある程度方向性が見えてきたけど、先に立つもの、体力…。政府の支援を待っていたらどこまでも遅れそう。それに浜の第1次産業、第2次産業同時に復活しなければ大槌町の活性化にならないのではと心配です。どうか皆さんで知恵を出し合って、1日も早く震災前の姿になることを心から願っています。