自己紹介―ずっと保育士をしています
芳賀真由美(はがまゆみ)、48歳です。生年月日は、昭和37年9月24日です。家族は7人家族です。主人の両親と主人と息子が3人。息子の一人は社会人で埼玉に行っていて、もう一人は大学生になりました。4月から仙台です。一番下が中学校2年生。現在は5人で住んでいます。
震災で、家がなくなってしまったので、仮設ではなく、吉里吉里で一軒家を借りて住んでいます。主人は船の機械を直す職業です。会社は釜石にあるんですが、本社は東京なので、別な事務所を借りて再開しています。だから生活できて。これでね、職場も失ってしまってたら、もっと大変だったと思う。
私はずっと保育士をしています。平成5年からは吉里吉里保育園に勤めていて、震災の当日も保育園にいたんです。
吉里吉里保育園からの避難―これはただならぬ地震だって思って
吉里吉里保育園は海の近くだったので、全壊してしまったんです。二階建てでした。地震があってからすぐに吉里吉里小学校に、子どもたちと一緒に避難しました。
9日にも地震があったんですよ。注意報だったんですけど、身の危険を感じて、自主的に子どもたちと小学校に避難しました。保育園では、各組に避難リュックというのを持っているんです。水やおむつや飴や着替えとか。で、9日の日に飴とかをもう食べたので、出張から帰ってきた園長先生に連絡して、10日には新たな飴、水が用意されてたんです。
11日は午前中、保育参観をして、その後に保護者会、総会をしました。午後は、職員会議をして、そして園長先生が避難用リュックも新しく買ってくれたんで、みんなで飴や水を詰め直して、各部屋に持って行って、昼寝から起きて、さ、おやつにしようかっていう時の地震だったんです。
その日が保育参観だったので、お母さんたちがいっぱい連れて帰ったんですよね。だから、残っている子は30人くらい。60人定員の保育園なんです。毎月、避難訓練を重ねていたから、あんな大きな揺れでも、子どもたちは動揺することもなく、誰も泣かずに。以上児(0~2歳までのことを未満児、3歳以上の子を以上児という)は二階だったので、静かにテーブルの下にもぐっていました。0歳児は複数担任なので、おんぶとか、だっことか、散歩車っていうかベビーカ―に乗せたり。
建物が崩れるような感じの大きな揺れで、地割れもしたんです。これはただならぬ地震だって感じで。津波警報が発令されたって分かって、揺れが収まってから逃げようと思ったけど揺れが収まんなかったんですよ。もうやめてやめて、外に出て逃げようって。はだし保育だったんですけど、ガラスにもセロハンをはっていたので、割れなくて大丈夫でした。
最後、園長先生と私だけが残って、事務室から最小限度のものを持って逃げたんです。
家族、家はどこに…―でも、ここにいる人たちと共にしないと
小学校に避難して、自分の自宅を見たら、もう自宅一帯がなくなっていて、気が狂いそうでした。我が家がなくなっているって思ったら、その日は高校生の子は家にいると思ったし、中学校の子どもも、もしかして家に帰ってたんじゃと思って。家がない、子どもたちがいないと思ったら、気が動転しちゃって。
でも、小学校にどんどんみんな避難してきますでしょ。それに揺れはしばらく続いて、危なくて体育館には入れなかったんです。そして、小学校の校庭の下まで水が来て、危ないということで、小学校の校庭から更に上にということで、校庭のフェンスを乗り越えさせたんですよ。子どもも、お年寄りも、みんなで担いで、渡したんです。そして、大丈夫になってから、小学校の体育館に泊まったんです。家族に会うどころじゃない。子どもたちを守らなくちゃって感じで。
でも、息子の同級生のお母さんが、息子の安否を確認してくれて、真っ暗な体育館に戻って来てくれて。「とも君のおかあさん!おじいちゃんも息子二人も、近所の人たちも、ラフター(老人ホーム)にいたよ」って教えてくれて。
子どもと会えたのは、3日目の朝でした。中学生の子が会いに来てくれて。自分の家族も心配だったけど、仕事場から離れられないし。妹が仙台にいて、仙台の若林区も、もう全滅だよって聞いたけど、ここにいる人たちと共にしないとって。
うちの主人は船越という海の方で仕事をしてたんです。彼は、9日の地震でも、山田の道の駅に避難したっていうのを、お互いに話をしていたので、主人はきっと大丈夫と思っていました。3日目、保育園の子どもが全員帰って、私たちも解散になって、実家に戻ってから主人にも会えたんです。
子どもたち全員の安否確認―毎日が涙の対面でした
子どもを迎えに来られなかった親もいたんで、2日目は吉里吉里のもう一つの保育園の堤保育園に小さい子は移動していいですよってことで、移動して一晩明かしました。
子どもって泣かなかったんですよ。電気もないんだけど、途中で目が覚めても担任の顔があって、安心してまた眠って。おむつや着替えや飴は持っていたから、それで空腹をしのいだりして。高校の先生とか役場職員とか、職場から離れられない親は、面会に来て、また迎えに来るからねって言って職場に戻らなくてはいけなくて。でも子どももね、ぐっとがまんしてね。
そして、残っていた子を全員親元に帰したので、私たち職員も3日目の午前中には解散したんです。それぞれ家や家族の心配もあって。
それから、私たちは子どもたち全員の安否確認に歩いたんですよ。地震の前に家に帰った子や、小学校に迎えにきて帰った人たちの安否確認。途中で被災してないかとか。電話もつながってなかったから、歩きましたよ。まず避難所に行って、避難所には張り紙で誰がいるとか名前が書いてあったのでチェックして。
そして、吉里吉里小学校にも、吉里吉里保育園はどこどこにいますって張り紙をして。そうすると、大丈夫だったよって保護者が言いに来たりとか。毎日が涙の対面でした。
保育園の再開を決意して―「4月18日から民家を借りて保育を行います」
保育園が全壊してしまったけど、なんとか立ちあげないとって思いました。子どもたちも大切ですし、保護者にも「待ってるからね」って一言もいただいたし。私たちも被災して、ここで終わりになるのはあまりにも悲しすぎる、むなしいですよ。先生たちもいい人なので、なんとかこの人たちと共にまた進んでいきたいなと思ったし。
でも場所がなかったんですよ。私たちは、瓦礫の保育園から子どものユニホームとか教材で使えるものとかを拾って、川の湧水が溜まっている所で洗濯をしたり。雪が降ってて寒かったんですよ。
そして、私は私の実家に子どもたちと主人といたけど、主人のおじいちゃんおばあちゃんは、おじいちゃんの兄弟の家が一軒空いてたので、それを借りて住んだんです。そしたら主人が、「じいちゃんとばあちゃんには二階に寝てもらって、下を保育園の場所にして、保育園やろう!」って言ってくれたんですよ。座敷二間を、6畳と8畳間を。
そして即座に、大槌高校の避難所に張り紙を張りに行ったんです。「吉里吉里保育園、4月18日から、民家を借りて保育を行います」って。子どもたちのお母さんにも電話しました。吉里吉里小学校の近くの長屋を借りて事務所にして、拾った荷物とかもそこに置いて、保育を再開したんですよ。
再開された保育園―保育園というよりも大家族になったような
再開した保育園は、10人来ればいいと思ったら、30人近く集まってくれて。23年度は54名でスタートする予定だったので。でも、お昼寝するにも布団もびちびちで。
そして、給食もすぐ提供できたんですよ。保育園を開いた家の近くに、給食担当の方の家があったので、そこで給食を作って、給食は給食の先生の所にご飯を食べに行ようにして。子どもたちも即座に順応して。
1カ月ぶりの子どもたちの対面でした。遊ぶ場もなかったけど、それなりに外を散歩したり、中で静かにブロックで遊んだり。子どもたちが来てくれて、保育園というよりも大家族になったような。
その後、避難所になっていた吉祥寺(きっしょうじ)というお寺も空いたんです。吉祥寺さんの隣に通夜会館があるんですけど、そこを借りられることになって、一軒家から吉祥寺さんの会館に保育園を移して、現在もやってるんですよ。食事は、子どもたちも正座して食べています。
移ったのは、5月9日。だから、一軒家で保育をしたのは2週間くらいになるんです。主人にも感謝、じいちゃんばあちゃんにも感謝です。そして今は、私も実家からその一軒家に移って、主人の両親と一緒に同居してるんです。やっぱり嫁いだので、また嫁ぎ先に。
保育園の仮設は8月12日に完成予定です。ユニセフさんが、建ててくれることになって。他にも、友人や同級生、全国のいろんな人が物資や義援金などで、援助してくれました。もちろん、いい話ばかりではないけれど、人のありがたみもわかりました。
職員は仲間という感じなんです。歳は離れてますけどね(笑)。誰も辞めますって言う人いなかったんですよ。現在は職員10名でやっています。
吉里吉里保育園はこんなところ―1年があっという間に過ぎる
被災する前の吉里吉里保育園は、朝の7時から夜の7時までやっていました。子どもは0歳から6歳まで預かります。
月に一回、年長児だけですが、お茶のお稽古をしていました。それからはだし保育をやっていたので、普段はみんなはだしなんです。運動会もはだし、園庭もはだしで遊んで。はだしは健康にいいって。運動会も、親子で楽しむはだし運動会がテーマで、なんかほんわかしてるんです。
行事は、4月は入園式、5月はこいのぼり。子どもの日のお祝いで、男の子のお祝いをするし、7月は七夕会、織姫様彦星様の話をしたり。あとゆうすずみ会っていって、お楽しみ縁日みたいなことをしたり。8月には年長児だけのお楽しみ会を設けて、きもだめしみたいなのとかね。6月にははだし運動会。10月は親子の遠足。11月には勤労感謝訪問で、地域の人たちにお仕事ご苦労様ってまわります。12月はクリスマス会。私はサンタになりますよ。1月はみずき団子作りっていって、年長児のおばあちゃんたちにきてもらって、みずき団子を作って。12月はちゃんと杵と臼で餅つきをして、年末年始の休みに入るんですよ。2月は節分。私が鬼の役になって子どもたちをおどしたりとか。3月はお雛祭りや卒園式があって。だから、保育園にくると1日があっという間に過ぎる。1年もあっという間。
保育士になって思うこと―いつまでも歌って踊れる先生でいたい
保育士の仕事は一度も辞めようとは思ったことはないです。やっぱり子どもと一緒に1日笑ったり、怒ったり泣いたり、接していると楽しいんです。その日できなかったことが今日は出来たとか、新たな発見もありますし。
保育士ってみんなの前で話さないといけないし、歌ったり踊ったりできなくちゃいけないじゃないですか。私は静かな性格なので、勇気が必要でした。いくら子どもとはいえ、ドキドキしましたよ。ピアノも即弾ける先生とか見ると、うらやましいなって。日々勉強です。今は、若い先生から吸収しなくっちゃって感じです。今でも、保護者を前にすると、緊張感は違います。
今でも、子どもとの信頼関係はしっかり築いて、保護者からも信頼される人でありたいし、子どもたちの前では、歌って踊れる先生でいたいと思っています。また、クラスの先生たちには、思いっきりのびのびとした保育をしてもらえればいいなと思っています。
小・中・高・短大―保育士になろうと思っていました
小学校の頃から保育士になろうと思っていました。それはずっと変わらず。何でだったんでしょう。なんか、憧れだったのかな。子どもが好きということはあります。
父は船乗りで、マグロ漁船の遠洋漁業で、一回出港すると何カ月も帰ってこないという。母は主婦でした。私は小学校3年生までは下閉伊郡山田町の織笠に住んでいて、小学校4年生の時に、吉里吉里に家を建てて、引っ越してきました。
転校生は珍しがられたので、小学校でもすぐに友達ができました。でも、私は静かな方で。目立たない、普通の子だったと思います。
そこからは、吉里吉里中学校、大槌高校。高校を卒業して茨城の保育専門の短大に進みました。短大の友人の旦那さんも保育のお仕事をされていて、今回の震災でいろいろ支援してもらいました。とても、助かりました。
保育士になる―あかちゃんをだっこして腱鞘炎になりました
短大を卒業してすぐ保育士になり、花巻の若葉保育園に勤めました。そこは産休明け(生後2週間)の子から受け入れていたんで、首も据わらないあかちゃんをだっこして、腱鞘炎になりました。
3年後に、結婚するということで吉里吉里に戻ってきましたが、子育てをしながら幼稚園に勤めたり、大槌町の保育園で臨時をしたりして、保育の道から離れないようにしました。そして、平成5年からは、現在にいたるまで、ずっと吉里吉里保育園で働いています。
おもいかえすこと
もし、自分の子どもたちがいなくなっていたら、今の自分はいないだろうなと思います。自分だけ生き残ったってしょうがないと思いました。子どもって大事だと思います。少しずつでも、また前の生活に戻れるように願って暮らしています。日が経ってくると 、あれもあった、これもあった、悔しいなって思うようにもなってきましたけど、ここからのスタートだなと思って、体に気をつけて頑張ります。