父の跡を継ぎ、母を支えて
昭和27年12月3日、吉里吉里で生まれました。うちでは父親の代から、ここの海で獲れたものを加工してました。ウニつくってたんですよ。塩と焼きウニ。40年前に父が亡くなって、私がそのまま継いだような感じです。ここで獲れるものを加工して、釜石のほうで販売してたんだ。
父が52歳で亡くなってから、うちの母親は体がずっと障害者だったもんで、私と妹が加工をやりました。妹が結婚して釜石に行ってからは、忙しいときに手伝いに来てもらいましたが、私ひとりでやってきました。規模的にはほとんど零細です。主人は別の仕事、漁業関係です。
こないだまで母がいたんですけど、この1週間ぐらい前に亡くなったんですよ。母は93で、家いたとき元気だったんですけど、被災後盛岡の病院にヘリで搬送されて。あっちの病院や施設転々というか、だけどお薬がないので持病が悪化してしまって。しっかりしてるっていっても、うちの母親も、自分が飲んでる薬はわからなかったんだね。病気はわかっても。私らだったらまだ普段飲んでる薬、これとこれですって言うけど。家族がいればよかったんだけど、ついてないからね、どうしようもなかったですね。
仮設の申し込みも3人だったんですよ。実際入るときはもう2人になっちゃいました。
加工場も、ウニの詰まった冷凍庫もすべて流された
あの津波で、在庫品も冷凍庫も流しちゃった。まあ全部パーになっちゃって。それで売り物もなくなって。
ウニは、これから1年2年、獲れる見込みがないんですよ。ここ復興が遅れて、海のほうにまだガレキが残ってて。今年はもうウニの漁も見込めないってことで、仕事もやめたんですね。うちはどっちか言うとここの物にこだわって地元のもの作ってたもんで。
加工場と、あと冷凍庫と、おっきなのが2つ流出しましたからね。在庫がもうまるっきりなくなっちゃったんで。在庫がありゃ、残ってればね、まだ商売できたんだけど。
まあ今度のことで、私もね、気持ちがついていかなくって、お客様にも連絡しないけど、お客様も心配して電話くださってね。毎年ね、盆、暮れとお使いものには、よく注文いただきましたからね。釜石の店から全国向けに発送もしていて、まあそんなにいっぱいじゃないけど、まあ固定客だけね。
塩ウニと焼きウニ―釜石の繁栄とともに―
40年以上前は、父親なりに大きくやってましたけどね。ウニ獲れる時期だけ、臨時で近くの人に手伝ってもらって。女の人5、6人は来てもらってね。ここも当時は結構たくさん獲れたんですよ。今は年々量も数もダメだけど。
それを釜石に持っていって。その頃製鉄所が景気いいときだったから。景気のいいときっていうか、全盛時代ですから。釜石はだんだん人口が減って。ここも今漁業関係してる人でも、結構年いってきましたからね。年齢がもう高くなってきてね。
塩ウニをつくるとき、うちで使うのは塩だけですね。生ウニに塩かけてだいたい1日ぐらい置く。水切った状態でできあがりです。昔のままですね。防腐剤も添加物もなし。
昔は塩がきつかったですね。当時はウニの塩辛っていうくらいだからね。今は形が崩れないように、重しをかけないですから。昔は重し、塩をどんどん。今甘口なんですよ、お客さんの傾向は。それで塩はそんな多くできないのでね、冷凍保存ですね。
焼きウニは、アワビの貝殻に生ウニをのっけて、直火で焼くんです。ガス入れて。何分でしょうね。計ってるわけでもねえから。目で見て触って。あと匂いがしますからね。それで触ってみて焼けてるか。そういう判断ですかね。機械使うわけでもないし。長年の勘というか。そんなもんですよね。
父親が家でやってましたからね。それを見てましたから自然に覚えた。周りもやってましたからね。仲間の業者さんにも行ったりしてましたからね。別に違和感はなかったですね。父から特に教わったことはないけど、結果的には教わってるんでしょうね。まあだいたいみんなこうすればこうだっていう感じで。
焼きウニだったら、2、3日はもちますね。それ以上だったら冷凍ですね。そうすると1年中売る分を一時期に作ってね。だいたいうちで7月の末頃までで作り終わるんですね。ちょうど美味しい時期ですよね。
秋から冬にかけては、鮭の新巻作りしてます。ここで獲れる秋鮭。だいたい11月頃から12月頃。前はまあうちで作ったんだけど。6、7年前に釜石のほうの店舗を新しくしたらちょっと時間的余裕がなくなって。ここ何年かは、仲間の業者さんに頼んで作ってもらうような状況でしたね。釜石の店舗まで車で30分ぐらいです。
店舗で販売している焼きウニの値段は、おっきいのだと2,000円ぐらい、小さいのだと400から500円ぐらいから。まあ色々ですよね。小さいのやおっきいの、その日によって作るんです。お客さんも色々ですかね。おっきいの1個の人もあれば、小さいの5個の人もあれば。色々大きさは揃えてましたからね。
海の幸―なんといっても地元のウニが一番―
今ほれ、あんまり高いとね、安い輸入品が入ってるのがちょっとね。ロシア産とか中国産とか。チリとか。地の高いのは、値段的には全然おっつかないんですよ。でも味は違うと思いますよ。私らやっぱり輸入もんは食べれないですもんね。ほかの人からもやっぱ違うわなって言われます。風味ですかね。味そのものでしょうね。
焼きウニをアワビの殻に入れて焼くっていうのは、この地域ではそうですね。私の小さいときから貝に入ってましたからね。この地域ではアワビも獲れるから。うちの母親たちの話を聞くと、昔は今の時期だとウニとアワビと、なんか味噌入れて焼いて食べたらしいんですよ。ずいぶん高価だねって言ってたけど。この辺アワビもいっぱい獲れたって言いますからね。ウニもいっぱい獲れましたからね、当時はね。
アワビは加工してないですね。アワビは今ね、この辺でも輸出用。中国のほうでね、なんかこの辺のアワビがいいって。みんな干しアワビですね。中国の食材になるみたいですね。
家族総出でウニの殻剥き
父がやってたころは、吉里吉里といったらアワビが獲れてウニが獲れて鮭も獲れるみたいな、そういうところだった。ウニですと、その家、その家でみんな手伝ってて、集荷するのに剥いて手伝う形かな。結構時間かかりますからね、1個ずつですからね。今はそれの器具があるんですよ、口を開く。それじゃなきゃ棘がありますからね。
うちの父親が、子供の頃はよくスルメがいっぱい獲れると、学校休んでみんな手伝うもんだとは言ってましたけどね。当時は何でも獲れたみたいですね。人手がないんで、子供もみんな手伝って。今子供でも手つけない子が多いんじゃないかしらね。だってワカメの養殖なんかもね、中学校で今教育の一環として教えてるような感じですね。
個人経営でも、ウニの加工をおっきくやってるところ結構あるんですよ。吉里吉里はうちだけで、私は片手間のような感じですけど、隣の船越、山田、後は大沢あたりでやってましたかね。家族でみんな携わって。みんな加工場が海のそばなんですよ、うちと同じで。だから、みんな被災して。私知ってるとこも1軒だけでしょうかね、水来なかったのは。やってる人がご夫婦で亡くなったところもあるし、あと全部うちと同じで流されたのもあるし。家族も、同業者で亡くなった人もいるし。
うちの家建ってるとこはね、昭和8年は流れたとこなんです。土地がないからそこに建てたんだけど、だからまあそこで経営するのはいけないってことは常々言われてました。でも水産の加工をするにはやっぱり海のそばのほうが一番便利ですね。
またここが復興して、ウニがちゃんと獲れるようになったらいいなと思ってるけど。そんときはそんときで考えようかなと思ってるけど、なかなかね、海があの状態見ると食べれそうにないわってみんな、10年もかかるんじゃないかって言われるから。
この辺は今年は口開け(ウニ漁の解禁)はないって、もう最初に通達ありましたからね。みんな2、3年はダメなんじゃないかって話はしてるんです。この辺の漁師は、今はガレキの撤去が仕事で、それやってるけど。漁に出る人はないですよね。出れる状態でもないからね、まず。先に片づけないことにはね。
流された冷凍庫の中にはウニの美味しいのがいっぱい入ってたのにね。まあ、どこさ流れていったんだかね。海で獲れたもんだから、海に流れたのかなと思うんだけど。
海は生活の一部
この辺ではうちの周りの人たちも、自分でウニ獲って家で食べたり、頼まれたら近所にも売ってあげたりしてるからね。まあ、その時期になれば、食べたい人はみんな食べてますよね。
この辺のウニは美味しいですね。やっぱ、浜がいいんでしょうね。海藻も獲れるからね。イクラも身近なもんだからね、この辺ではね。新巻鮭作る時に、イクラの加工もする。塩漬け、醤油漬け。今はうちでしなくなったから、業者に頼んで作ってもらう。1年分ね。まあやっぱりこの辺は時期になれば新巻食べますよね。獲れるからね。自分で船持ってる人は、自分で獲ったのを自分たちで加工するから。後はそれをお使いものにしたり。ウニなんかもそうですよ。獲れば自分たちでお使いもの、夏だからお中元ですね。鮭んときもそうですね。魚屋さんから生のまま買って、自分たちで加工して作る人もいるし。だから冬になるとね、新巻を物干しのベランダにぶら下げたり。外にぶら下げたり。ほんとに海が近くて、普段は海にたくさん恵みをもらっているところなんです。ここは。結構みんな年いっても、自分の小さい船持って、好きな釣りっこしたり。自分で食べる魚を釣ったり。そんな人たちもいますからね、結構。まあ会社にいれば引退ですよね。引退しても、そうやって浜さ、浜って海に行く人たちもあるからね。今回そういう人たちも船流されちゃってるからね。
やっぱり地元に住みたい―海が見えると安心―
海と一緒に生きてきた。だから仮設が海から離れたところだと寂しいし。みんなやっぱり地元に住みたいって希望が多かった。このとおりね、平地がないもんだから。私が入る仮設は坂の上なんです。それでもやっぱり海が見えるとこだと、安心するのかしらね。うちの母親も亡くなる前には、仮設はそっちのお寺のほうだというと、「ああ、高台だから海は見えっからいいかなあ」って言ってましたからね。
海が見えない景色は私は考えられないですからね。まして家がなくなったから、こんな近かったかと思うぐらい海が近いですからね。
家のあったところは、昭和8年のとき津波が来たとこだって父に言われて。ただうちの母親に言わすと、昔は堤防がなくて、国道もなくて、国道はある程度堤防の役目もしますよね、高いから。昔から見たら、まあまあ安全かなという感じだったんですよ。まして日当たりはいいしね。
ねえ。ほんとに、まあね。いいとこでしたよ、吉里吉里は。
当初うちのあったとこ見に行ったときは何もなくて。家は、土台しか残ってなかったから。ああ、やっぱりみんな庭のお花もやられたんだなと思ったら、先月歩いたら芍薬が芽出してたし、桔梗も芽出してましたからね。隣のほうでも芍薬出てたしね。まあ植物はね、すごいもんですよ。
昨日また戻ったら、草がボーボーなって、ヒマワリが1本高々と咲いてる、うちの前にね。もう背丈ぐらいになって、すごい綺麗に咲いてるわけですね。ええ、じゃあ種、あの後に芽吹いたんだなと思って。どこに種潜んでやったのか。行った後芽出したんだ。やっぱりね、あんなにおっきく花咲いてるからびっくりしました。