自己紹介
名前は芳賀廣喜(はがひろき)です。昭和22年11月28日生まれの63歳です。出身は吉里吉里で、生まれてから33年間暮らしました。吉里吉里の家は弟が跡を継いで、私は大槌町末広町の女房の実家に30年間暮らしました。 被災する前は女房と女房の兄貴の3人暮らしでした。子どもは息子2人が東京にいて、娘1人は吉里吉里に嫁いで1年、1歳の孫がいます。震災前は新聞代理店業を営んでまして、地震があったときは自宅兼店舗にいました。吉里吉里の避難所では、災害対策本部の広報担当ということになっています。
網元の子に生まれて
私は昭和22年生まれだから、団塊の世代の第1回生です。ベビーブームで子どもの数がいちばん多いから、大学や高校の数が増えた時代ですね。小学校も中学校も吉里吉里です。高校は当時の学校名で言うと釜石商業高等学校、現在は統合して釜石商工高等学校になっています。私たちが高校卒業したのが1966年、昭和41年。その4年後が70年安保ですから、良くも悪くもそういう時代の代表ですね。若い人たちが経験できない経験もしてますよ。ラジオだって全家庭にあったわけじゃなくて、ある家庭にたむろしたり、カラーテレビだって、東京オリンピックのときに全体の3分の2も普及してなかった。
もともとうちは、漁業やってたんです。定置網漁業の網元をやってましてね。正直なところ、私は漁業が苦手でねぇ。かなづちなんです。変な話なんですけれども、じいさんに海は危険だって厳しく言われて、泳がしてもらえなかったんですよ。それで、海に行っても泳げないから怖さもある、泳ぎたいっていう願望もあったんです。ここではみんな自然に泳げるようになりますから、友だちに教えてくれって言っても、お前のおじいちゃんに怒られるからダメだ、って。じいさんも網元でしたから、結局間接的に影響力あったんですね。頭から落ちたらたいへんだ、と鉄棒もさせてもらえませんでした。それに生臭いの嫌いなんですよ。魚も小さいころに遊び程度で触ったくらいです。
今になって推測すると、じいさんにしてみれば一つの帝王学なんでしょう。漁業に直接触れなくても、大事なのは読み書きソロバン、文章読めて書ける、そこそこ計算できるというように、頭さえちゃんとしていれば網元としての仕事はできるだろう、とじいさんとか親父が考えたことでしょうね。ほんとは、自分で実践するのがいちばんいいんですけれども。じいさんには孫が何人かいるんですけれども、私がいちばんかわいがられた。じいさんが怖かったことはないですよ、悪意はないですから。
高校入試のとき、内心私も進学校に行きたかったんですよ。親父は大学行け行け、言ってたんです。うちの親父っていうのは、小学校をちゃんと卒業してないんですよ。いくら昔でも、小学校くらいは出ていた。親父は字は達筆なんですけれど、字を知らないから書けない。世間から冷ややかな目で見られていた。だから、学歴にこだわっていたんじゃないですかね。でも私は、その親父の意見にささやかな抵抗をして、進学校には行かなかったんです。意固地になって…ささやかな抵抗です。商業高校に入ったものの、本当は、退学してもう一度進学校受けようかなぁ、と思ったくらい進学校に行きたかったんです。
社会人になって
気持ちのどっかに、大学に行きたいという気持ちはあったんです。でも親父に抵抗して、結局行きませんでした。だったら就職するにしろ、親父が大学に行けというのをカバーできるような企業に入ろうかと思ったんです。高校を卒業して最初入ったのは岩手銀行、そのときに93人入ったんですよ。そのうち大学・短大出がせいぜい10人くらい、そういう時代です。そこに6年勤めました。
普通誰でも中央目指すんです。でも中央に行ったら、どこに転勤させられるかわからない。県内の銀行だったらまず岩手県内、仙台もあるけれども、盆とか正月とか帰って来やすい。都会は嫌いですから。人ごみ、空気…。最初に盛岡に行ったときでさえ、あの閉塞感、嫌いでしたね。しょっちゅう家に帰って来たかったんですよ。最初の頃は毎週帰って来ましたよ、土日になれば。吉里吉里を出て行っていながら、どうしてここへ帰って来たのか。吉里吉里のこの開放感が好きですね。とくに水平線が見えるのがいい。
銀行を辞めた後は、親父が手をつけたドライブインの仕事を手伝いました。昭和45年、1970年だ、岩手国体があった年なんですが、国道ができまして。定置網漁業も時代の流れで漁協直営になって、親父も結局「陸(おか)にあがった河童」みたいになっちゃって。昭和50年、1975年に結婚してからも、親父の仕事を手伝ってましたけれども、親父と合わなくて飛び出たんですね。その後はね、2、3年仕事する気なくなってだらだらしてました。そのころは女房の仕事で食わしてもらって。女房は呉服屋のお嬢さんで、大槌の町で知り合いました。お坊ちゃまとお嬢様です。
それから、ホテルの営業をしてみないかということで、17、8年間くらい働きました。釜石の陸中海岸グランドホテルというホテルで、このへんから宮古まででは、いちばん大きいホテルです。私がしていたのは、県外からの宿泊客が定着するよう、JRさんやバス会社と組んで企画を立てたり。岩手県は広いですから、陸と海両方満喫できるようなプランを考えたりね。トップシーズンでもオフシーズンでも、空いてるときをなくするようなことを考えてました。休みはあまりなかったですね。
その後は損害保険でもやらないかと誘われて、半年間講習受けました。開業できるところまで行ったんですけれども、会社のやり方が気に入らなくてやめました。お客さんに損させるような感じがして嫌だったんです、潔癖なんですかね。お客さんにわからせないようにするのがセールスマンだって言うから、それは違うと思った。それまでの仕事、銀行、ホテル、全部セールス畑なんですよ、仕事が似てるんです。
もちろん、最初は全然素人で入ったんです。18歳のころから銀行でがんばりました。目で見れる、手で触れる商品でなくても、絵をイメージさせるセールスが大事だと教えられました。いくら銀行のバッジつけてたってお客様は信用してくれない、100軒行ったら99軒門前払い、その1軒を大事にしろと上司から言われました。実際は3分の1は話を聞いてくれましたけど。若いころからそういうふうにやってきましたから、いい経験でしたね。
震災―大槌の町で被災して
そして平成7、8年ごろから震災の日までですけれども、15、6年間新聞代理店をしていました。自宅兼店舗でしたから、チラシの折り込みが終わって、配達員に新聞を置いて歩いた帰りに地震に遭って、店に戻って、それから津波が来て被災です。大槌の町は全滅ですよ、吉里吉里以上にひどいです。午後6時ころ、津波から約2時間後に大槌町内3か所くらいから火災が起きて、町の中心地を一晩中焼き尽くしました、一軒残らず。町が悲惨なのはそういう経緯ですね。
大槌の町には、左右に大槌川と小槌(こづち)川の川2本ありましてね、町の後ろに城山があって、前に海が開けてるんです。私の家が江岸寺(こうがんじ)の近所で、城山にいちばん近いところだったんで、逆に言えば、大槌の町ではいちばん海からは遠かったんです。城山に上がる階段にみんなを誘導して…。私は瓦礫のなかから、3人くらい救出しましたけれども、まだ残っている人たちがいました。津波は、一波がひょうたん島(蓬莱島)のほうからやって来て川を遡上して、途中まで戻って行ったところに、二波が来たんですよ。ですから、行き場がなくなった水が全部、正面と横から町に入って来た。とくに二波が大きかったです。午後3時24分だね。ひょうたん島に津波が来たのが、午後3時15分前後でしょう。だいたい4キロくらいあったと思いますけどね、約10分弱かけてここまで来ている。
女房は行方不明だったんですよ、生命保険会社のセールスをやってて、ちょうど出てましたから。女房は一波で車ごと約400メートル流されて、バイパスのところに家が2、3軒あって、そこに引っかかって、うまい具合に車から這い出てたんですね。二波・三波がその家を直撃しなかったんで、その家があったのがラッキーでしたね。でも、女房以上の奇跡的な生還は、いっぱいあります。
私にすれば3日間亡くなったと思ってますから、娘と城山の上から拝んだんです。そしたら3、4日経って、生きてたよ、安渡(あんど)ってところで助けられたよって、人づてに聞いて。ほっとしたっていうか力が抜けた。男はかっこつけても女房がいないと。とくに俺は、女房がいないと生きていけないから。女房と実際に会えたのは、地震から4日目でしたね。
これからの仕事、生活
私が代理店をしていた新聞は、地方紙の岩手東海新聞なんです。釜石の本社も印刷工場も関連会社もすべてやられて、社長が会社を畳んだんで、社員は全員解雇です。ですから私の仕事そのものがなくなって、これからの生活について正直悩んでいる。若手社員の一部が、釜石市の助成金で広報を兼ねた新聞を始めたんですよ、週2回で。それが釜石だけじゃなく大槌まで来るのを待っているか、ただ待ってるだけじゃなくて、こちらからアプローチするとか。これから町の復興計画も進みますから、その計画の1つとして、大槌町も助成金を出せばいいんですよ。週1回の発行でも、改めて広報を配る必要がないんですから。
最初の仕事は6年でしたけど、私はだいたい15、6年周期で仕事が変わってるんですよ。子どもたちを育てるためもあったんです。また外圧で仕事を変えなきゃいけない。今までだったらどうにかなったんですけど、今63歳で、100パーセントの力で働くのは正直きつい。新聞の仕事をやるのもたいへん、またそれをやめるのもたいへん、勤めるのもたいへん。住宅もある程度助成金をもらって建てるとか、住まいも考えないといけない。あまり後ろに延ばすと、子どもたちに負担がかかるから。東京にいる息子2人も、吉里吉里で生まれてこっちの小学校出ていて、友だちもたくさんいるんです。そのうちの1人が、来年私の仕事の跡を継ぐという予定でした。これから帰って来てもいいけど、こういう状況だとその予定も変更ですかね。
いろいろ頭のなかでアンテナが絡まり絡まりしていて、すっきりしていない。一言で言えば、ぐちゃぐちゃになっています。疲れてます、正直疲れてます。若いころだったら、人生において背負ってるものがありませんけど、残念ながらねぇ。ここを離れれば簡単なのかもしれません。
吉里吉里の鎹に
吉里吉里は育ててもらった町、大槌は自分の生活の場ですから、普通の人だったら「ここ」というと大槌の町なんでしょう。でも、私の場合は吉里吉里です。こっちに来たいという気持ちもある。ただ、ここにこだわっているわけじゃありませんよ。吉里吉里のまとまりのよさが、大槌の中心からすれば必ずしも評価されてはいない、妬みもあります。結束しているからこそ入りづらい、そういうふうにも見えるわけですよ。私は町で生活していたから、言葉とか態度ではなく肌で感じるんですよ。都会は嫌いでしたけど、しがらみがないから気楽でしたよ。残念ながら、吉里吉里だけじゃなく大槌の町もしがらみがあります。そういう空気を若いときから感じて来てますから。
でもこれからはねぇ、そういうしがらみを無視してやってほしい。今まではいいでしょうけど、これからは少数意見にも耳を傾けてほしい。この聞き書きのプロジェクトが始まりましたけど、女性とか若い人からも話が聞きたい。たとえば高校生や中学生に、タイムカプセルで10年後こういう吉里吉里に住んでみたいとか、文章でも絵でもいいし。結構いいアイデアが出ると思うんですよ。それを我々がサポートしていかないといけないと思います。若い人たちの声を聞くいい機会だと思いますよ。ホテルの営業をしていたときも、若い営業マンたちから、それまで気付かなかったことをいっぱい教えられましたよ。それを吸い上げて行かないといけないですね。吉里吉里の先輩たちを見ていても一生懸命やってますからね、だから私は目立たず繋ぐ役でいいんです。ポジションは鎹かなぁ。
吉里吉里のいいところって言ったらたくさんありますけど、地形が海に向かって開けた感じがありますね。開放感がいいですね。外側から見ただけですが、吉里吉里は婦人会もまとまりがいいですよ。よそからお嫁に来た人でも、同級生として仲間に入れるんです。それがまとまりになってるんですね。婦人会の集まりで、お互い旦那の悪口発表会でもいいんですよ、それこそが本音ですから。
私はセールスマンしかやってないですけど、たとえ相手が年下でも、説教をするときでも、私は人差し指で人のことを指差したこと一度もないんですよ。必ず相手に手の平を向けてます。銀行時代の上司に気持ちは態度で表せ、と叩き込まれましたから、これは癖がついてるんです。よいしょするとか、胡麻摺ってるとかじゃないんです。私は、山形の人とは山形弁で、秋田の人とは秋田弁で、津軽の人には津軽弁で喋りますよ。酔っ払ってくると、津軽弁が出たり山形弁が出たり、ぐちゃぐちゃになります。感化されやすいんですね。でも、自分の考えに合わないことは絶対拒絶して、得をしない性格ですね。