これからも、ずっと吉里吉里で…

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後期高齢者の独り暮らしも結構あります・・・みんな待ってるんですよ。「入って入って」「お茶飲んできな」って。
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Tokyo Foudation
Geolocation
39.3698337, 141.9411843
Location(text)
岩手県大槌町吉里吉里地区
Latitude
39.3698337
Longitude
141.9411843
Location
39.3698337,141.9411843
Media Creator Username
Interviewee: 近藤欣彌さん, Interviewer: 中村会美子
Language
Japanese
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Japanese Title
これからも、ずっと吉里吉里で…
Japanese Description
後期高齢者の独り暮らしも結構あります・・・みんな待ってるんですよ。「入って入って」「お茶飲んできな」って。

大事な家族。今は妻と犬と。

近藤欣彌(こんどうきんや)です。68歳。昭和17年生まれ。誕生日は11月26日です。仕事は今は老人ホームの宿直と、民生委員をやっています。民生委員の活動は、この3月からは受け身の状態ですけどね。

今は妻と2人で住んでいます。子供は男が3人いて、みんな独立して、仙台と盛岡と八戸に住んでいます。仙台の長男のところには3歳になる孫もいます。今回の大震災のあとは、家族がバラバラにいるわけですから、もちろん心配でしたよ。安否を知りたいのに、私のauの携帯がなかなかつながらなかったんです。1週間後には無事に連絡がとれて、幸い家族には被害はありませんでした。

私の弟の1人は、今は吉里吉里の仮設が当たったんで、そちらに移動しましたね。その下の弟は釜石市内にいて被災にあったけど、今は仮設にいます。

あと、私の大事な家族に、犬がいるんです。震災後は、次男の嫁さんの実家に預けてるから、離れ離れですけどね。もう、3ヵ月くらい会ってないかな。早く会いたいですよ。犬を飼い始めたいきさつは、長男が、結婚して7年程子供ができなかったんですね。俺たちに「孫代わりだ」って持ってきたんです。犬を飼うのは初めてだったもんですから、本をたくさん買って、いっぱい勉強しましたよ。今はもう、はなされないですよ(笑)。そして驚いたことに、その翌年に孫が生まれたんです。

3月11日

3月11日の地震があった瞬間は、うちにいましたよ。午前中に、大槌町の体育館でソフトボールの練習をしてたんですよね。夜からは、いつも働いている老人ホームで宿直の予定だったので、うちでブラブラしてたんです。女房はちょっと外にいて、電話をしたら大槌の町から帰ってくる途中でした。うちにつくまでは、本当に心配でしたよね。そして、無事に帰ってきてからは、一緒にうちの中を片付けしてたんです。そうしたら、周りが津波だって騒ぎ始めて。必要なものだけとって、私は車を持って犬と、女房は歩いて、中学校の向かいにある老人ホームに逃げたんですね。この山の後ろの高台にあるんですけどね。そこからずっと見てたんです。最初は、すごいゆっくり波がきたんです。女房の車が、家の玄関から2階まで、波で少しずつ持ち上げられたのを見ました。記憶ははっきりはしていませんが、2波目だったと思います。

よく覚えていますよ。震災の当日はかなり寒かったんです。雪が降っていましたね。しんしんと。地震の後の3日間はね、車の中で犬と一緒に過ごしたんです。女房はケガもなく無事だったので、震災の翌日には、避難所に移りました。私は、元々勤めていた老人ホームでお手伝いをしながら、1ヵ月近くはそういう暮らしをしてましたね。4月には水も、電気も来るようになったのでね。老人ホームも落ち着いてきたので、安心して女房のいる避難所さ移りました。

小学校入る前からかごしょって、薪拾って…

私は3人兄弟の長男でした。4歳の時に父親がなくなってからは、母子家庭です。財産があるわけでないから、お袋は自分で商いをしてましたね。行商って言うんですかね。豆腐だとか食料品を仕入れにね、釜石まで蒸気機関に乗って行くんですよ。当時は吉里吉里もお店がたくさんなかったので、行商ができたんでしょうね。お袋はかごしょいながら、町を全体的に回ってたんですよ。遊ぶ暇なんかなかったですよ。小学校に入る前から、お袋の商売や、薪ひろいとか手伝ってたから。今でも、当時のおじちゃんとかおばちゃんに会ったりすると、「昔の~」なんて、懐かしい話になることもあるんです。小さい頃の経験のおかげですね。少々の苦しいことには耐える自信もありますし。今の子供には、きっと信じられないような話ですけどね。

昔の家ですか?吉里吉里の中心にある小学校を下りたくらいに神社があるんですよ。そう、あのきつい階段を登ったところにある神社のすぐ右側に家が残ってたでしょ。そこが私の家でした。高台にあったので、地震があるとみんなが「津波だ!」って逃げてくる場所だったんです。今回水をかぶったんですよね。

釜石の工業高校で

家が貧しかったので、本当は高校入れる状況じゃなかったんですけどね、まわりの人たちの厚意で。当時、岩手県内に3つあった工業高校のうちの1つ、釜石工業高校さ入りました。そこで電気科を専門に勉強してたんです。

釜石までは山田線で40分くらいかけて通ってましたね。釜石の駅から学校が相当遠かったんですよ。普段はバスを使ってましたね。5キロか6キロ、それ以上あっただろうから、歩いたら1時間はかかっちゃいますもん。

私が高校生の時に、チリの津波を経験したんですよ。学校に行く前だったので、朝早い時間でしたね。あの日は列車が通らなかったんで、同級生4人で、線路づたいに山超えて、学校まで歩いて行きました。何時間かかったんだろう。釜石まで20キロくらいかな。結構長い時間歩きましたよ。

部活はやってません。そんな余裕なかったですから。休みの日には、アルバイトばっかりです。アルバイトはね、薪を運んだり、肉体労働もやりましたね。一番思い出に残ってるのは、釜石の駅舎で蒸気機関車の清掃の仕事ですかね。一番割が良かったんです(笑)。他にも、学年が上になった時に、電力会社の漏電調査とかお手伝いしたことも。本当に色々なことをしたと思いますよ。

どこに勤めてもやっぱり吉里吉里

高校を卒業した後は、電力関係の会社に勤めていました。昭和36年に入社して、60歳まで42年間働きました。岩手県内での転勤は何度も経験しましたよ。釜石に山田に、久慈に盛岡に…。通える距離の限りは、吉里吉里から通勤してましたよ。吉里吉里から離れたくなかったんです。単身赴任をしていても、土日が休みの時は、必ず吉里吉里に帰ってきましたもん。できる限り地域のイベントに参加して、みんなに忘れられないようにしようと(笑)。だって、定年して帰ってきたときに忘れられてたら…、さみしいじゃないですか。

走り回るのが大好きで

定年後は、関連会社に3年間の契約で採用されたんです。だけども、どうしてもやりたいことがあって、我慢できなくて、関連会社を1年でやめたんですね。…実は、大槌町にソフトボールの60歳以上のシニアチームがあるんですよ。そこに入るため(笑)。場所は大槌です。吉里吉里からは2人、3人メンバーいますけどね。ポジションは主に外野です。走り回るのが大好きで。うってつけでしょ。あとね、64歳なってから、本を見ながらピッチャーの勉強も始めました。チームのメンバーの都合で、時々ピッチャーをやることになりましてね。釜石のチームにすごい速い球を投げるピッチャーがいてね。彼に負けない球を投げれるようになりたいですね。

野球を始めたきっかけは、会社の対抗戦に出させられたんですよ。それからは、ずっとやっていますね。好きなチームは巨人です。卵焼きと同じ(笑)。でも、最近は、楽天にも興味あります。やっぱり東北ですからね。頑張ってほしいですよ。仙台の孫のとこさ行く時には、球場が近くなもんですから、試合見に行くこともありますね。

「入って。入って」って。みんな待ってるんですよ

関連会社やめたときに、たまたま吉里吉里地区の民生委員の改選の時期だったんですよね。前任の方が来て「なんとかやっていただけないか」と頼まれまして。断れない性格なんですよね(笑)。まぁ、何かしら地域のお手伝いしたいと思ってましたので、正式にやることにしたんです。

仕事は地域の実態把握と相談ごと。各丁目に1人ずつ民生委員がいるんです。4丁目にだけ2人。吉里吉里の地区と浪板、あと児童委員を含めて全部で7人いました。

私の担当は吉里吉里3丁目です。その範囲の130から140ある世帯の中に14、5人の高齢者の独り暮らしがありますよ。65歳なったばかりの若い方から、80歳超えてる方もいましたよ。そういう方を月に一回訪問するんです。元気にしてるかなって。私が行くとね。みんな待ってるんですよ。「入って入って」「お茶飲んできな」って。

去年の12月1日が改選期で、それで3期目の委嘱を頂いたので、今は7年目になります。震災以降は活動は受け身の状態ですけどね。特に、私の担当の3丁目はうちがほとんど残ってないんですから。もちろん、役場から連絡あって、地域の方の相談を受けることもありますけど、特別自分から積極的にやったりっていうのはないです。

今後どうなっていくんでしょうね。まだ町の組織自体がきちんと立て直しができてないし、役場関係も、社協もね。早くみんなに会えるような、体制づくりをしてほしいですね。

やっぱり「ここにいたい」

今は、避難所に女房と2人でいます。7月30日に説明を受けて、条件が合えば仮設に移る予定です。場所は吉里吉里を第1希望にしていますけど、きっと第2希望の浪板になると思います。やっぱり、海がないと息苦しく感じるんですよね。だから、大槌の町の仮設よりはいいと思って、吉里吉里の次に浪板を希望したんです。浪板は、吉里吉里から歩いても行けますよ。2キロ、3キロくらいの距離です。

震災前に住んでいた家はちょうど今年で築8年でした。建てた次の年に私のお袋がなくなって、子供が独立してからは私と妻と2人暮らしですね。今回の震災で、自宅の扱いは全壊になってますけども、建物自体は残ってるんですよ。1階の梁と、2階はほとんど無事だったんです。ほとんどのものは流したんですけど、寝室が2階だったんで衣類とかそういったものは残ってたんです。

なので、家が浸水してても建物が残ってるんで、(規制の)網はかかっていないから、本当は今の家をね、直したいとは思ってんですけども。なにせ退職金全部はたいて建てたうちですから。ただ、直すのもお金がかかりますよね。今から借金して子供さ迷惑もかけたくないし。本当にどうすっかって。毎日悩んでる状態なんですけども。

でも最終的には「吉里吉里にいたい」ってことなんです。それだけは何があっても、変わらない。できたら昔の状態がね、いい。前の生活に早く戻りたい。今の家を直したい。そのためにも国、というか町がね、しっかりして頂かないと。

ささやかに

今後ですか?そう、本当にささやかな願いなんです。大好きなソフトボールを仲間とわいわいやる。そうして孫たちをこの美しい吉里吉里の海に迎えて泳いだり、駆け回ったり…。ささやかな夢ですけどね。そういう時が早く来ればいいなと思っています。それまでは頑張ります。まだ体が動きますからね、できることをやっていこうと思います。

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