麦畑越しにあった海

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何がねえだ、あれがねえだってでなく、最初に自立して経済を回していかねえと。
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Tokyo Foudation
Geolocation
39.3698337, 141.9411843
Location(text)
岩手県大槌町吉里吉里地区
Latitude
39.3698337
Longitude
141.9411843
Location
39.3698337,141.9411843
Media Creator Username
Interviewee: 倉本俊博さん, Interviewer: 西田一平太
Language
Japanese
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Japanese Title
麦畑越しにあった海
Japanese Description

漁協職員から公民館長になって

おらぁ、あれ、ほんとに吉里吉里生まれで吉里吉里育ちだから、もう吉里吉里弁丸出しだからさ、だからそのへんはよしなにお願いします。

昭和24年に生まれて、吉里吉里のなに、まだ幼稚園って言わねえんだな、あれな。そんなとこさ行って、吉里吉里小学校に入って、吉里吉里中学校さ入って、釜石の高校に3年。あとは、ちょこっと長崎さ行って東京で1年いて、昭和49年に吉里吉里の漁協さ入って平成15年まで勤めたんだな。そう、この津波のいちばん被害を受けた漁協に勤めてましたよ、私は。で、その後公民館さ勤めんの8年だから、経歴っていっても、それだけです。俺、仕事あんまり変わってねえから。

公民館というのは、ありゃ社会教育の一環だから、生涯学習課っていう中に中央公民館っていうのがあって。それの分館としてとおぐれえあるのかな。全部、資料なくしたからな(笑)。その地域地域によって性格が違って、赤浜とか安渡(あんど)とか人口の少ないところじゃ行事でも何でも地域の人の中心になってるしね。でも、吉里吉里の場合は町内会組織が強いから、もう全部そっちさ任せてんのさ。公民館の利用者は年間で延べ8,000人程度だけどね。

俺たちは、ちょうど漁協の人員削減の頃の職員で、人員削減の旗頭だったから自分からやめなきゃダメだったわけだ。で、やめて1年間ブラブラとやって、この話が来たんだ。だから、みんな1年の期限付き職員なんだわ。で、なったんだけど、俺、こういうの好きでねえんだよ、ほんとは。行事は好きな人がやればね。だから、俺は奉仕するとすりゃ、もう町内会だの、ああいうの全部任せたの。

吉里吉里生まれ、吉里吉里育ち。でも地域はよく知らない

俺たちが子どもの頃っていうのは、まあそのへんで遊んでるくらいです。真ん中の2丁目あたりの人たちからすれば、山側の俺の家建ってるあたりなんか田舎の田舎だよ。道路もなくてさ、麦畑の向こうだもん。大変だったのは2丁目。もう同じ吉里吉里の中でも線路の向こうっていうのは、もうなんつうの、よその町さ行くような気がしてね。友だちがあっちにいだがら、何回やったかな、道路越えて線路越えて。

遠出っていっても、高校に入る前には年に2回釜石に行ったくらいか。向こうに親戚がいだがら、冬休みと夏休みに1人で行って、食堂さ行って映画を観てくるのが楽しみだった。そのころは大槌に抜ける国道が無かったから、鉄道の線路の上歩いて行った。そのへんの山を越えて歩くのが面倒だから鉄橋渡ってね。もう1つは、赤浜のほうの海岸沿いをぐるーっと回ってね。これがいちばん通れる道路だったから、バスも全部そっち走ったからね。大槌までどれぐらいかかるのかな。案外、子どもの足っていうのは速いからね。トンネルなんか汽車がいつ来るかわかんねえから怖くて走るんだもん。

高校からは釜石までSLで通学した。俺が16のころで、釜石まで20分か25分ぐらい。高校生だから、汽車さ乗ってくときなんか、ぎりぎりで走ってくでしょう。そうすると、前に機関車があって、で客室さ入るときのタラップのような間があるでしょう。あそこが全部空いてるんだよね。仕方ねえから、そこさ乗ってくわけだ。そうすると、機関車の真っ黒なススが…。あの煙をまともに受けたらすごいよ。鼻の中が真っ黒くなってね。うん、まあね。中さ乗れたことはないども、窓開ければ煙がへえってくんだものね。

朝一番だから6時半にここ出て、帰ってくるのが8時半だかの最終。10時に家に着いて飯食って寝て、翌朝起きて。365日それだったべ。だから、吉里吉里の地域っつうのは、あんまりわからねえのさ。釜石も詳しくねえけどね。昼の学校行ってるっつうだけだったから。授業終わった後は柔道のクラブだったし。厳しい先生だったから、あのときは正月の三が日とお盆の3、4日ぐれえしか休みなかったからさ。俺、地域っていうのはあんまり知らねえんだよな。

麦畑越しにあった海

うちの去年死んだおふくろ、俺が何歳のときかな。昭和8年の津波で波と一緒に走って逃げて助かったようだがね。あと、そのあとに、たしか小学校のときに来たのがチリかな。それで同級生で1人か2人、被災したったかな。あんときもすげえ揺れだったな。それでも俺、津波って見たことないんだよ。というのは、うちはこの避難所の校庭のすぐ下なんだもの。周りは全部、麦畑だったからさ。吉里吉里みたいな狭い地域でも海っていうのはずーっと遠いものだと思ったけどもさ。ただ、おらが大人になって漁協に勤めてから海は身近なものになったんだけどさ。それまでっていうのは、海っていうのは面白くねえっからさ、何もねえんだもの。

俺がね、小学校何年生のときだったかな。麦畑が宅地化されたの。うちの周りに1軒か2軒あったったべな。だから、それまでは2丁目の神社側に出るときには麦畑越えてかなきゃなんない。道路もねえんだもん。このまっすぐな国道が昭和46年に出来るまでっていうのは、ここの後ろを通ってる県道がずーっと奥さ入ってくるからさ。その時分は、このへんの間は全部、麦畑さ。よく、家建てたもんだわね。

海が近いっていうの、こんながらっとなくなって、初めてわかった。1分で海さ行けるような気がするね。何もなくなったっけね。ここは高台だから海が見えるんだども、ここから一段下がったうちのほうからは見えねえんだもん。だから、今度の津波は油断もいろいろあれども、波も見えなかったんでねえの。津波の波が。

津波が来たら逃げるのさ

うちは、ここの避難所のすぐ下なのさ。うちを囲んで、津波がUターンしていったからね。大規模半壊で一階はやられたけれどもさ。まさか、うちまでって、俺たちはそう思ってた。で、あの時は勤め先の公民館からこの避難所に順ぐり山越えて逃げてきたから、俺、津波っていうのは見てねえの。でも、足元までちょろちょろちょろって水が来たの、あれ、第1波だったんだね。いまになって考えると、あそこまで波が来てるってことは堤防越えて来てるってことだものね。それでも俺、気づかなかったもんな。で、ありゃ?と思って、まあとにかく家さ帰んなきゃダメだなって、こう山登りながら、後ろこう見たっけが、もうね、農村広場に何十トンの重機がプッカプッカって。びっくりしちゃった。こら、ただもんでねえなと思って、あとで公民館に帰ってきたっけが何もなかった。

おら、車2台やられたから、最初は全然動けなくて。最初のうちは浜のものを冷凍したやつ食べたから、最初の1週間っていうのはすごかったよ。アワビとかさ。冷凍庫はね、少しずつ開ければ電気が切れてても解けてねえんだっぺ。みんな、ごちそうばっかり冷凍かけとくんだから、あれにお酒あったらもう最高だったよ、ろうそく立てて(笑)。それが切れてからだもんね、大変だったの。いやもう結局、何回か開けるうちにもう溶けてくるでしょう。そうすっと、どうしようもねえんだもん。新巻の冷凍かけてるやつだって、1週間ぐらいで溶けだしたんじゃねえかな。

その頃には自衛隊も来てたね。物資も来たども、俺たちみたいな避難所でなく在宅に届いたのは何日目ぐらいだったかな。結局、在宅の人に物資を配布する人とか監督する人もいなきゃダメなわけだ。避難所は避難所で一所懸命やってるけど、その人たちの物資も配れっていうわけにいかねえから、それで町内会組織でやったわけ。でも、その人たちも、みんな家流されてるわけだ。一所懸命頑張ったべ。上に立つ人間っていうのは大変だっぺね。

津波のメカニズムってすごいもんだね。高さもだども勢いもすごいもんだね。真っ黒い龍ね。ただこの3、4年、行政指導で自主防災っていうような対策はやってたんだ。どこの丁目も町内会が地震のそういう組織を作ってて地図も作ってた。したって、何の役にも立たないよ、今回の場合。予想以上っていうんだか、なんて言うんだかね。自主防災は何の役にも立ちませんでしたって、みんなが言うだべ。若い人たちがけっこう死んで、その人たちっていうのはさ、年寄りを連れ出そうとして死んでるからさ。なぁに、年寄りは死んでいいんだから、自分が生きねば、と俺は思いますよ。なんで若い人が死ぬの。年寄りさ、申し訳ねえども、俺はそれでいい思うよ。あとは、このぐらいの犠牲者出した原因は油断ね。みんなここまで来ないでしょって思ってたから。昭和8年の津波でやっつけられた2丁目っていうのは復興で造成したところでしょ。そこに住んだ人たちは絶対、俺たちのところまで来ないだろうという想定でいた。だから、いちばんあそこが死んだでしょう。結局、なりふり構わず高いとこさ一歩踏み出した人が助かった。鉄道から上が全部助かったわけだ。それがさっき言った4丁目のところだよね。津波が来たらあれさ、逃げるのさ。結局、逃げるしかねえのさ。

道しるべを立てる

この避難所の横、今は給食センターだけど昔は吉里中はここだったから、みんなこの体育館で卒業式したのさ。建てたのは33年前だっけ。おらはPTAやってて、おらの次男あたりのときだったものな。新しい建物ですごいきれいだった。で、その後、この体育館だけ残して古い建物壊して、新しい中学校作ったんだ。でも、この体育館も古くてね、雨漏りしてたの。生涯学習課でも維持費かかるから潰すつもりだったんだから。大槌町、金がねえから潰せって言ってたんだけど、千何百万かけて去年修理したもんね。屋根の修理して、電気も全部取り替えて。便所も新しくしたんだね。このためにしたんでねえんだよね。こんな津波が来っと思わなかったんだもん。ねえ、やっぱり鉄骨なんだねぇ。ああ、残してよかったよ。いちばん残してよかった、よかったで。

でもね、もう5カ月経とうとしてるのよ。5カ月経とうとして、まだ片付いてないのよ。頑張ろうとか、そういう話はどん詰まりになるんでねえの。夢も希望もねえよ、俺たちは。なに夢語ったったって、夢で生きていかれねえよ。霞食って生きるわけじゃないしね。復興だって、金は国からもらって、できねえのは全部、国の責任にしてって。だども、最後に頼るのは国だからね。その国が全然決まんねえものが、なに、復興も復旧もなにもできねえんでねえ。どう思うよ、この惨状を見て。復興できっと思うか(笑)。えっ? 俺は夢は見ねえどもな。俺はいま62だべ。俺が生きてる間に見れっか。災害対策はある程度やって、あとは逃げるしかねえんだよ。

俺たちの仕事は、このあと生きてるとき、少しずつでも役に立つ、なんつうか、道しるべを立ててやることですよ。まあ、いろいろ模索してるんですが。まず、当面の第一の目標はここの閉鎖ですね。みんなでお互いに理解し合って閉鎖して、自立してもらうと。何がねえだ、あれがねえだってでなく、最初に自立して経済を回していかねえと。経済って面白くてね、自立して儲ける人だけ儲けっからね。みんな儲けてもらってね。だから、最終的に雇用の場の話になるのね。結局、雇用の場がないと。これはやっぱり企業の誘致と。それは俺たちの仕事じゃねえからね。もうすぐ選挙があるんだべから、それを争点にしましょうよ。

ここは8月10日以降は閉まるけど、閉まっても最後までいるよ、俺。1年間は辞令貰ってるから。最後までいるから、ここに。

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