私は佐々木彰(ささきあきら)といいます。吉里吉里で生まれて、ちょっと東京で仕事をしていたことはありますけど、後は吉里吉里に住んでいます。45歳です。両親、妻と高校2年の息子が一人。
親父は宮古の方の出身なんだけど、お袋が吉里吉里出身で、結婚してここに所帯をもったんだ。兄弟は3つ年下の弟が1人。親父はここ30年くらい栃木の方で出稼ぎをやってたんだ。家に戻るのは盆とか正月とかで年に30日くらいだったかな。このあたりは、父親が常にいる人の方が割とめずらしかったよ。漁師町だからね。お袋は、吉里吉里の美容院で美容師をやっていたね。弟とは、それはもうよくケンカしたよ。1日の終わりはいつもケンカ。最初はにぎやかに、ぎゃあぎゃあいいながら遊んで、で、もつれて、「お前とは遊ばない!」ってケンカ別れして。翌朝起きればまた普通に、ね。兄弟では家の中の遊びが多かった。オセロ、トランプ、ボードゲームとかね。
夏は毎日海で
夏はほぼ毎日海さ行ったね。友達5、6人、多いときは10人位で。うちらは、どちちかっていうと自然派だったね。どこさいくのにも一番前を走っていくリーダー格のやつとかいてね。これがまた勉強ができなくてね。俺はね、結構嗜好性が強くて、自分が好きだと思うことにはのめりこんで、そうでもないことには、俺はいっかなーって感じでテンション低かった。
夏休みは10時でないと家を出られないわけさ。朝起きて、ラジオ体操やって、ごはん食べたら勉強。だって学校でそういう決まりなんだもの。だけど、9時頃になると、今日の天気を見たり、持って行くものを準備して、10時までなんて誰も勉強しねえねぇ。9時55分には全部自転車にセットして、またいで待っている。10時になると、今日は海で泳いでもいいですよっていうサインの「我は海の子」が鳴って、小学校の国旗掲揚のポールに白い旗が揚がるんだ。そうすると、それーって自転車で海さ行ってね。
砂浜に行ったら、流木とか、壊れた船の木材とかいっぱいあるから、それを持って来てまず火をおこす。海に焚火は必ずつきものだからさ。自分たちが泳いできて寒かったらあたるし、何か採れば焼くし。だいたい夏休みの1日目に火をつけると、うんと大きい雨だの、台風だの来ねえば、ひと夏中持つのよ。前の日の終わりに、まだ火がくすぶっている燠(おき)の状態で、砂をかけておくのさ。翌朝行って、まず荷物おろすでしょ。皆して薪を探してもっていき、砂をささっと払って、それをふって吹くとまた火がぼってでて。そうすると、「よしっ」て言って海に入るんだよ。
遊びは、例えば砂山を作ったりね。山の上さ棒を1本立てて、砂を少しずつ取っていって倒れないように。後はね、団子ぶつけ。海の砂を20~30cmくらいの団子に固めてね。例えば膝ぐらいの高さって決めて、相手が作った団子を下において落とすの。どっちが固いかを競い合うのよ。コツ?あるんだよね。水分だね。団子の表面は水分の乾き具合で、中の方は逆に水分の保ち具合。今の女性と逆だよね。まず、波打ち際にいって、砂を両手で半円ずつ輪っかをかくように掘って、掘った土を真ん中に積んでいくと、周りは掘ってなくなって行くから、真ん中に砂の固まりができる。それを、ごそっと持ち上げる。水滴を落としながら丸く形を整えながら、陸側に移動して、乾いた目の細かい砂をかける。そうやって団子を作って、互いのをぶつけるんだ。他にはね、用水路から来た川が砂浜を横切って海に入っていくんだけど、途中で砂で堰き止めて、パイプを1本通すと、そこだけ水が通れるから、勢いよくだーって出てくるわけ。上側で何人かが入ってばしゃばしゃと魚を追うと逃げ場がなくなって、魚がね、パイプの中から出てくる。それを取って遊ぶんだよ。
海では色々なものを採ったね。アイナメとか、ホタテとか、子供だからね。うちの釣りはね、その場で魚をさばいて焚火で焼いて食べるの。簡単だよ。ウロコをガラガラってとるでしょ。腹をばって開いて、内臓を取る。海に行くとき、お袋からおにぎりを2つ作ってもらって、魚と一緒に昼飯にしてね。ホタテとか牡蠣はね、養殖のいけすから陸まで運ぶときに、小さいのは捨てられたりするでしょ。そういうのが自然に大きくなったのを、採るわけさ。それから、砂浜からちょっと上がったところのジャガイモ畑にも行ったね。泳いだあとに「腹減ったな」って言いながら、収穫後の畑さ行って、掘り残しや小さくて放っておかれたイモをもらってね。
うちらはお小遣いってのがもらえなかったけど、海にはたくさん出店が並んでいてね。釣り人に頼まれて釣りの餌を採ってきて、お駄賃もらったね。
そうやって、毎日面白おかしく遊んで、夏休みの最後の日は泣く、と。宿題でね。俺はね、勉強は中ぐらいだったべなあ。でも学校も楽しくてね。仲が良かったね。もう面白おかしくて楽しくてさあ。なんで日曜日なんかあるのかなと思って、毎日さ学校行きたいってね。
子供のころはね、ほんとに楽しかったね。大人になっちゃだめだよね、面白くない。何が面白くないって、子供のときには、だれが死んでも知らない人だったのさ。大人になったら知っている人が死んでいくんだよね。やっぱり大人っていやだなって思う。今度の津波もさ、今までこうやって遊んできたから、海が好きなのさ。津波が来たからって海を嫌になれっちゅうのは無理なんだよね。津波ってのは海のそばに住んでいれば、必ず来るものなんだよね。付き合っていかねばいけないものなんだよね。よく言うのは、やっぱり海が好き、と。
東京、そしてふたたび吉里吉里で
小中学校の頃はそうやって、海で遊んでて、高校の時には、ヨット部だったから、また海の上にいたね。高校を卒業して、腕に職をつけてえなと思って訓練校に入ったのさ。で、本当は地元さ就職っていうのもあったんだけど、東京さ見てきたわけよ。やっぱり歴史年表で出てくるのって、東京、江戸でしょ。その場を生で見たいなって思って。大学さ行かせたと思って4年間って約束してね。
会社のビルの設備工場と寮が西日暮里にあったのさ。若くて監督をやったけど、割に職人さんたちにかわいがられてね。あの頃は赤貧の貴公子って呼ばれていた。だいたい給料が安いんだもん。月の後半になると、飯食えるか食えねえかって感じになって、職人さん達が、うちに来てご飯食べろよ、飲めよって言ってくれて。で、給料もらうと、その職人さんに飲みに行きましょうって、連れていってね。月の後半にはまたお金がなくなる、というのを繰り返してね。でも無駄じゃなかったからね。
4年たったら弟も東京さ出てきて、そのころ親父も府中にいたから、お袋が独りになったんだよ。で、帰ってこいの命令、召集がかかったのよ。それが24か25の時で、帰ってきて、船舶電装の仕事。船は中で生活もしてるでしょ。家と一緒で必ず電気は必要なわけ。船の中にコンセントつけたり、エンジンの発電機でおこした電気を各部署さ送ったり、そういう仕事って必ずついてくるのさ。それを20年やって。今は船の無線の仕事をしている。レーダー、無線機、魚群探知機とかの販売、施工、修理だね。新しい船つくるときには工事したり、港に入ってきたのを修理したりね。
それからボーイスカウト、青年会がはじまったのさ。事業主がボーイスカウトの偉い方で、俺は小学校2年生から5年生頃までにボーイスカウトに入っていたから、お前はリーダーしろって言われてなった。公民館で1人で準備していたりすると、青年会の連中が隣で飲んでいて、最初は頭にきたのよ。でも結局そっちの方にも取り込まれて二足のわらじ。それから、26歳の時に岩手県青年の船っていう事業で、300人位で15日間船に乗って、議論したり、沖縄、フィリピン1泊ずつ行ったりしたんだけどね。その後、大槌町青年団体連絡協議会っていうグループに入って、その壮行会が嫁さんに初めて会った時だね。
吉里吉里は団体が多いね。1丁目から4丁目まであって、4丁目は2つに分かれてて若葉会と育成会っていうの。あと消防団、青年会、母さん方の婦人会、老人クラブ、ボーイスカウトにスポ少(スポーツ少年団)。皆が必ずどこかにはまってるのさ。そしてそれらを束ねているのが公民館。皆少しずつ重なってっからさ、小学校のPTAの話が始まって、中学生のPTAの話になったり、全然関係ない集まりで急に消防団の話になったり。狭い中でいっぱい団体あるから、事務局やってる人たちってほぼ同じような人で。
吉里吉里の行事?まず、掃除が多いね。丁目ごとや、お寺の草刈、砂浜の掃除があったりね。それから、町内の運動会が吉里吉里小学校のグラウンドで10月の第1週にある。参加?するする、酒飲むの。いや、行くとね、本部役員って言って、道具の出し入れや、テープを張ったり、ドンて鳴らしたりとかにまわされるの。実際に走ったりとかっていうのは、もっと足の速いやつだね。
吉里吉里のお祭りはね、丁じるしって、神様のお供になる踊りで、鹿子踊り(ししおどり)、大神楽、虎舞の3つがある。それに加えて、各丁目から手踊りが1グループずつ、4つ出るでしょ。他に神社から神輿や道具持った人がいろいろ出るから、見る人がいないんです。
大槌、釜石、宮古も、大船渡も、このあたりは踊りが多いんだよね。大槌の中でも、ここは吉里吉里虎舞、安渡(あんど)は安渡虎舞とか。厳密にいうと地域によって踊りが違うね。踊りはね、祭が近くなると、1週間くらい夜7時から8時くらいまで、練習があるんだよ。古い人たちが新しい人や子供たちに教える。好きでやってるんだけど、よく言えば伝承活動だよね。私は虎舞、他の人は鹿子踊りとかって1つに入ったらずっとその踊りを踊る感じだね。自然に子供も同じ踊りをやるから、家ごとにこの踊りって感じになっていくね。そうやってまたグループができて、グループ分けがこの地域の人は好きだね。
俺はね、東京から帰ってきたときは、神輿担いでたんだけど、ちょっと体を悪くして。無理するなっていわれて、物を持って歩く担当をしていたんだけど、全然つまんなくてね。じゃあ、虎舞さ入るっかなって思って。吉里吉里では、虎舞の笛吹いている。「俺は笛ーっ」て感じで、人数は決まってないよ。だけどね、好きじゃないと笛って吹けないんだよ。割と特殊でね。それから、皆はずるいっていうんだけど、大槌の方では、鹿子踊りの笛を吹いている。いきさつはね、大槌の方で青年団が終わって波工房って劇団を作った。前に、豊かな海づくり大会っていう国の行事が大槌でやることになって、その100日前イベントで演劇をやってくれっていわれてさ。嫁さんの兄さんが演劇をやってたからね。それで、2本目の芝居の中に鹿子踊りがでてきたんだけど、それを見てたら、笛をやりたいって思ったんじゃないかな。最初は特別にお願いしたんだよ。そのために会議も開いてもらってね。最初は喧々囂々で、虎舞も鹿子踊りもやるのはけしからんっていうわけ。やっぱり、みんなプライド持っていて、ただの踊りや太鼓、笛じゃないわけね。今はみんな慣れたっけ。もう11年目だね。
波工房はその後も、味噌作ったり、炭焼いたり色々やったよ。飲み会が多いけどね。炭焼きは、大槌の山の方の渋梨(しぶなし)っていうところで山を持っている専業農家さんにいろいろ聞いてね。ナラとかサクラとか切って、割って、炭窯をぶって。
震災のとき
うちは流されてね。地震の時は、安渡で仕事をしていた。社長が、この地震はただごとでないから、会社のことより皆自分のことをした方がいいって決断して、すぐ解散になって。まず、嫁さんの親父を見に行ったら先に逃げたって聞いて安心して、うちに帰ってきた。嫁さんはローソンで働いていて、最初帰っちゃダメだって言われてね。でも結局家に帰ったんだけどね。それに俺は実際、逃げる気はなかったのさ。津波なんてここまで来ないよって。でも、嫁さんが「逃げっぺ、逃げっぺ」って言うから、みんな車さ乗れって言って逃げて、着いたらとたんに津波が来て、ぎりぎりセーフだった。家が動くのは見えたし、車が流れるのは見えたけど、家がつぶれるときのほこりで全体は見えなかったよ。えらいこったよ。しかたないんだよ。これからだよね。
津波の次の日から人探しがはじまって、がれきの撤去がはじまったね。普段からのグループがあったから、そのまとまりで動いた感じ。吉里吉里の人にすれば当たり前の感じだね。消防の人が人を探しているときに、所有者が分かるものが見つかると、教えてくれて。「彰、出てきたぞ」って。家から300m離れたところにタンスが出てきて、着物とかが濡れないで出てきたね。嫁さんはね和裁する人でね。自分の服もいくらか出てきた。でも背広、礼服なんかが無いね。だれかの葬式だって言われても着るものがなくて困るんだよね。そろそろ買わなくちゃいけなくてね。
会社も全部流された。会社は海べりだもん。社長は会社も自宅も流されたから、大変だ。でも今釜石に事務所借りて仕事してるよ。今は仕事は釜石に行ったり、船がある山田の海の方に直接行ったり。津波で陸に上がった船や、ひっくり返った船を直すから仕事はバンバンあるんだけどね。
両親はね、同居していたけど、避難所生活は年寄には大変だからってことで、一時避難で花巻の温泉にほぼ1か月居たね。温泉だっていうからそっちの方がいいのかなって。いつもは飽きっぽい親父で、2、3日すると飽きるって言うんだけど、今回は慣れたって言ってたよ。今戻ってきて、仮設に入って2晩目かな。俺たちもようやっと今日引っ越し。今から仮設に引っ越すの。両親と同じところに5人だね。広さ?3K。4畳半2つとキッチンを含んだ6畳。荷物もあるし、狭いよ。避難所なら、まあ我慢できるけど、仮設まで行って狭いんじゃなあ。しかし今回の仮設もひでえね。吉里吉里の人がいろんなところに分散して入れられた。なんで分散したんだろうね。早く家を建てたいけどね。できれば吉里吉里の中で同じところに、だいたい前の家と同じようなつくりにしたいね。俺が5歳くらいのときに建てた家みたいだけどね。直し直して使い勝手が良くなってきていたんだよね。土地が何とかなればね。早く復興して家を建てたいね。