震災の前 ―人生に悩んで「毎日が苦しかった」
名前は田中明博(たなかあきひろ)です。昭和47年12月25日生まれで、38歳です。吉里吉里で生まれ育ちました。自宅は吉里吉里2丁目にあります。父も母も吉里吉里出身ですね。昔は、吉里吉里同士とか浪板とかで、結婚するパターンって多かったんです。親戚も吉里吉里にほとんどいます。
これまでは、大槌の町役場や町立図書館の臨時職員をやったりしていました。現在は、公益社団法人シャンティ国際ボランティア会岩手事務所に勤務しています。
自分の将来のことをすごく考えてた時期だったんです、ちょうど震災の前が。ここは田舎だから、情報が一気に伝わってしまうんですよ。いいところでもあるし、悪いところでもあるんですよね。これからの人生をどうしようか、とか考えて、苦しんでた時期ですね。将来は見えなかったですね、毎日毎日が苦しかったですね。
震災に遭って ―当日「何が起きているのか、わからなかった…」
震災の当日は、釜石市内の鵜住居(うのすまい)地区にいました。机の下に入ったんですが、壁も上も崩れて来て、建物から出よう、ってことになって。1週間前も同じクラスの地震が来てるんです、震度6弱の。そのとき津波は50センチしか来なかった。だから今回もなめたんですよ、正直初めは。だけど今回は揺れが収まらなかったなかったので、おかしいぞって。1週間前は強くて短い、今回は強くて長い。
自分は帰る方法がなかったんですけど、たまたま親戚の方がいて。「田中さんちょっと待っててね」って、逃げるまで30分かかりました。その間も警報は鳴ってるんです、3メートルの津波が来ます、って。どうせ3メートルだし、防波堤が防ぐって思ってたんです。でも実際来たのは10何メートルですからね。津波は見えなかったんです。何でかって言うと、三陸鉄道っていうのがあるんですよ、今は跡形もないですけど。その三陸鉄道が、盛り土の上に通っているので、海が見えなかったんです、自分の視点からは。ただ、海のほうが騒がしかったんです、ごぉーっっという何かが壊れているような音がしたんです。わかんなかったです、何が鳴っているのか。地面が揺れてるのは地震だ、と俺は思った。でも今思えば、津波が迫っている音と、津波が迫ってがたがた地面が揺れてたんですよね。
それで、その方が「さぁ、田中さん乗って」って、車が大槌に向かって走り出した瞬間に、津波が迫って来たんです。トンネルを抜けると大槌なんですけど、トンネルに入る手前で津波を見たんですよ。自分たちが鵜住居を逃げた瞬間に、津波が鵜住居を襲ったんです、第1波が。1分の違いで。もし1分遅かったら自分は…。
マストってショッピングセンターがありますよね、あのあたりで津波が大槌を呑んでるのが見えたんです。吉里吉里に向かってその先のトンネルに行ったら、男の人が立ってて、もうダメだ、トンネルから逃げろ、って。車のほうが早いと思ったんで、トンネルの中でUターンをして、マストの手前のローソンに停まったんですよ。そしたらそこにも津波が来たので、車を捨てて逃げて、近くの山に登りました。
自分たちは2人だったんですけど、近くにお年寄りとか若い女の人もいたので、5人で手をつないで山に登りました。少しでも高いところ高いところって。そしたらば、あのマストと同じ高さの津波が来ました、第2波が。道路の反対側の団地も3階くらいの高さまで、津波が来ました。第1波か第2波が引いて戻りながら、またおっきな津波がかぶさって来た感じで、とてつもなく高かったですね。目の前で何が起きてるんだろう?って、信じられなかった。津波と同時に震度5クラスの地震が何回も来て、津波・地震、津波・地震でした。もう何が起きてるのかわからなかったです。
で、津波が引いたと思ったら、目の前のガソリンスタンドが爆発したんです。火が出てたんで、まさかまさか、と思ってたら、ばーんって爆発して、それこそ油田みたいに火柱がごーーっっって上に上がったんです。その火が周りの家に移って行きました。でも、もうどうしようもないじゃないですか。誰も止めることができない。自分たちも大槌が燃えるのをただ眺めるだけでした。女の人が、「大槌がもうなくなる」って泣きながら言ったんですけど、自分は正直吉里吉里が心配で。一刻も早く吉里吉里に帰りたい。でも、もう大槌がこの状態なら吉里吉里も浪板も同じかなぁ、と諦めてました。
夕方の6時頃まで山で見てました。でも雪も降って寒くなって来たので、まずいということで山から下りて。そのときはもう波は引いてました。驚いたのは、マストの前に、あのマストの高さまで家がごっそりありました。
で、今度は南部屋産業っていうオレンジの建物に行きました。そこには200人くらいの人がいました。お年寄りも子どももみんな、そこに逃げてました。ドラム缶で火を燃やして、暖を取ってました。ちょっとでも風を防ぐために足下に段ボールをかぶせたりして、9時くらいまでいました。でもあまりにも寒くて、大槌はどんどん燃えて行って、どっこもプロパンがばんばん爆発して行って。ここにいてもダメだ、って判断で。そこに、トラックが2台来たんですよ。その2台にみんな乗り込んで、避難場所まで運ばれました。最初はお年寄り、女性、男性、って順番で、何往復もしました。自分が運ばれたのは、寺野弓道場というところでした。
そこにはたくさんの人がいました、あふれんばかりの人が。真っ暗な中に運ばれて行って、だんだん目が慣れてきて見てみたら、端から端までぎゅうぎゅう詰めでした。ストーブの周りにたくさん人が集まって、全然あったまりませんよね。自分はずーっと地面の上に膝を着いていました、寒さで震えながら、ずっと自分で体を擦りながら。結局一晩寒いなか、過ごしました。朝になって見たら、1000人以上はいた感じですね。
夜の間中、どんどんそこに助けを求めて人が入って来ました。ある女性は震えながら、水が引かないから泳いで逃げて来たって。へんな臭いがしたんで、何で女性なのに?って思ったんですよ。後からわかったんですけど、津波は下のヘドロも巻き上げて来るので、その臭いなんですよね。釜石から山をつたって5時間歩いて来た男の人は、「釜石ももう終わりだ」って言ってました。あと中国人の方が100人近く逃げて来ました。
気仙沼の大火事とかも、その夜ラジオで知りました。でも、大槌町も実は同じくらいの大火事でした。そこにいたって、プロパンの爆発の音が聞こえるんですよ、バーンバーンって。あぁあそこも燃えたか、あそこも燃えたか、って、みんな泣いてましたね。途中で男の人が様子を見に行くんですけど、自分は見に行く勇気がなかったです。朝になれば、否が応でもとんでもないものを見るってわかってたので、今は見たくない、大槌が燃えてるのを。
人間て不思議なもんで、あのとき2通りの気持ちでしたよ。「早く朝になってほしい、そして吉里吉里に帰りたい」、でも、「朝になったらとんでもないものを見てしまうんじゃないか、朝になってほしくない」っていう2つの。あと、これは夢なんじゃないか、今起きていることは夢なんじゃないか、と思ってました。寒くて震えて、俺時計だけ見てました。
震災に遭って ―翌日~1ヶ月後「生きるのに、必死だった」
で、いよいよ夜が明けて、吉里吉里に向かう車があったので、それに何人かで一緒に乗って来ました。吉里吉里に来て、最初吉里吉里は被害がないと思ったんですよ。吉里吉里の被害は、ローソンのあたりからだから、初め「あ、吉里吉里は残ったな」と思ったんです。でも、自分は線路の上にある実家に向かったので、行く途中で「あ、やっぱり吉里吉里もダメだ」ってわかりました。
もともと家には、両親と自分の3人で住んでました。家族、親戚、全員が無事だとわかるまで、丸2日かかりました。実家が線路の上にあったので、そこがいちばん安全だってことで、家族と親戚20人で1ヶ月共同生活しました。たいへんでしたけどね、自分の身内、親戚は全員無事だったので、それだけでもすごいなぁと思います。
その1ヶ月間は、とにかく生きるのに必死、食べるのに必死でした。将来は見えなかったです、なんも。とにかくどこかで食べ物を配っていたらもらいに行った。お水は井戸水とか湧き水とか汲んで来て、それをカセットコンロで煮沸して飲んでました。飲料水が届いたのは、3日~1週間くらいしてからでしたね。自分が思ったのは、水のありがたさですね、水がすべてですね。当然お風呂も入れなかったし、困ったのはトイレですね、水がいちばんたいへんでした。初めて飲んだ水は、兵庫県の明石市の水ですね。おいしかったですねぇ、忘れられないなぁ。
ローソンさんの流されたペットボトルとか食べ物とかは、全部避難所に持って行きました。自分たちは住むところがあって、避難所の人たちは住むところがないので。自分たちよりもっと困ってる人たちがいると思って。食べ物の分配は地区ごとにしてました。おにぎり、パン、カップラーメンとか。いとこたちも自分の地区で食べ物をもらって来て、みんなで食べました。情報がないので、毎晩ラジオ聞きながら。それで初めて福島の原発のことも知ったんです。
震災の後 ―真剣に考えた「なんで生かされたんだろう?」
それを1ヶ月間やってて、さすがに1ヶ月経つと、先を考えなきゃいけなくなる。最初はみんな同じなんですよ。津波はみんな平等じゃないですか。食べ物もみんな平等にもらったし。でも徐々に、仕事ある人は仕事に戻るじゃないですか。朝、行って来ますって行くじゃないですか。でも自分は…。すごくむなしくなったんですよ。仕事ある人は前向きになれますよね。ない人って落ち込むじゃないですか。すごかったですよ、自分のなかで。
心で受けたもの、感じ方はそれぞれ違うと思いますよ。俺は、それこそ人生観が変わったっていうか。たくさん人が死んだじゃないですか。生きただけで幸せ者と思うのか、生きたことが逆に生き地獄なのか。自分みたいなのが生かされた。状況考えると、ぎりぎり生かされた、なんだろう?なんの意味があるんだろう?って。どう見ても、ほんとは俺が死ぬべきだったんじゃないかと。これは神様が俺を試してるんじゃないか?これも1つの試練なのかなぁって。そんなの考える余裕もないと思うんですけど、俺は考えました。
そして思ったんです、じゃあ、生きたのなら生きてやろう、って。生きれっとこまで生きてみようって。だから朝ご飯食べたとき、これが最後のご飯だと思って食べました。今日だけ生きてやろう、って。夜になって夕ご飯食べれば、また明日になれば状況が変わるんじゃないかとか。よくなることはないんです、将来がないんですよ、あの時点では。でも、生きたいんですよね。そういうのを考えてましたね、4月5月は。毎晩夜になると。
でもさすがに、これはまずい、状況は変わらないって。で、5月あたりから職安に通い出した。できれば大槌町の復興に携わるような仕事に就きたい、瓦礫の撤去でもなんでもしてやろうってと思って。でも、2ヶ月とか3ヶ月とかの臨時の仕事しかなくて、それじゃあ生きていけないなぁ、と思って。そしたら6月中旬にたまたま岩手日報で、シャンティ(公益社団法人シャンティ国際ボランティア会)の募集を見たんです。そして7月から採用でした。
現在 ―移動図書館の仕事「大槌のために役立ちたい」
この仕事をやろうと思ったのも、大槌町の図書館に2年間勤めてましたから。大槌町の町がなくなったときに、何か大槌町のために役立ちたいって思って、生きた以上。シャンティが、大槌町でも移動図書館やるって聞いたので、「なら、これだ」と思いました。
そんな簡単なものじゃないですけどね、実際はたいへんですよ、ほんとに。大槌のため、と思ってやってます。でも、自分自身のため、自分が将来を見出すためでもあります。ここでがんばって、もう1回、将来の設計を立ててみたいな、って。
仕事は土日に移動図書館の巡回がありますけど、皆さんに会えるから、その笑顔を見れば、疲れは吹っ飛ぶんですよ。朝早く行って、どんなに夜遅く帰っても、笑ってる人の顔が見られるから。今日だって、たくさんの人が笑顔だった。この雨のなかですよ、この雨のなか人がたくさんの方が来て。ありがたいありがたい、ってみんな言いました。今日は大槌町を巡回しました。明日は陸前高田に行きます。
どこも仮設住宅を回ってます。今日は3ヶ所回りました。大槌町の輪野(わの)ってところ、仮設が250戸あるところです。あと、三枚堂ってところ、そこは120戸くらいあります。最後は吉里吉里中学校のグラウンドです。3ヶ所って少なくないんですよ。遠野にある岩手事務所を朝9時に出ても、ここまで1時間40分くらいかかるんですよ。で、11時スタートですよ、1ヶ所につき1時間いるので、最後の吉里吉里中学校終わったのが、午後4時です。それから後片付けして、遠野の事務所に帰るのが6時近くですからね。それから明日の準備をして、反省会をして帰って来るので、3ヶ所が精一杯なんですよ。
移動図書館の本は、新聞とかにシャンティの記事が載ると、使ってください、って送ってこられるんですね。それとBOOK・OFFさんからですね。あとは「3.11絵本プロジェクト」っていうのが盛岡にあるんですよ。いろんなところから、毎日寄贈されてきますね。
これから ―価値観が変わった「一人じゃ生きられない」
将来はやっぱり家庭も持ちたいです。やっぱりそういう夢もありますね。今回津波でいちばん思ったのは、やっぱ人間一人ではダメだな、って。一人ぼっちはダメですよ。家族があれば生きれますよ、支えがあれば。それは人生観というか、価値観が変わったっていうことですね、津波で。今回の津波で、考えががらっと変わりました。どんな仕事も仕事には変わりない。いちばんは家族だって、そう思ったんですよ。家族っていうのは、これから自分が出会う家族ですよ。人間は一人じゃ生きていけない、誰かがいればがんばれる。人の考えはそれぞれですけど、俺はそう考えました。
吉里吉里で生まれ育ってますから、ちっちゃいときは海で泳ぎましたよ。海にただ潜ってって、下の砂を掴んで来るんですよ、証拠として。でも、浮かんで来るときには、手に砂はもうないんですよ。あとは貝、ヒトデとか掴んで来るんです。魚釣りもやりました。海は好きでしたからね。でもここ数年は泳ぐ気にはなれなかった、仕事や将来のことで悩んでたりして。あんな何も考えないで遊んだ頃には、もう戻れないですよ。
だけど今までと違うのは、どんな仕事でもしてやろう、って思ってますね。価値観は相当変わったと思います。今の仕事は被災地の図書館が復興したら終わりです。それは自分は承知の上なので。とにかく今は、生きれる限りは生きてみよう、やれる限りはやってやろう、って思ってます。今日だって、ご飯食べてるし、お水飲んでるし。もしそこで道が途切れたら、またなんでもやればいいかなって。それでね、一緒に生きてくれる人が見つかったら、それだけでも津波から生きた意味があるかな、って。そこに辿り着くためのこの数ヶ月間だったのかな、って思いますね。不思議ですね、何かがなければ気付かないのかもしれません、何が大事なのか。俺に、津波が教えてくれた。