漁師の家に生まれ、漁師の家に嫁ぐ
東谷幸子(あずまやさちこ)といいます。生まれは、昭和20年6月13日、岩手県大槌町の吉里吉里です。この避難所にいるうちに66歳になりました。
父親は漁師で、母親は漁の網をつくる仕事をしてました。うちは分家なんで、本家を手伝ってってかたちで。父は1年のうち10ヶ月くらい船にのってたので、毎日会うんですけど話するっつうのはあんまりなくて。兄弟姉妹は5人いたけど、まず私の下2人が亡くなって昨年兄貴が亡くなって、今は私含め女3人です。
24歳で結婚、子どもは2人です。25の時に男の子、29の時に女の子。お父さんと一緒にワカメ、ホタテ、ホヤ、カキの養殖をやっています。今回の津波で家と作業倉庫は全壊、船一艘だけ残りました。もうダメだと思ってたったのが、沖のほうに流れてたったみたいで。「あれ、東谷の船だぞ。どこに浮かんでたったんだべ」ってみんなでね、びっくりして。
避難所に調理場を-やってかなきゃ、私たちのためになんない-
3月11日から避難所で食事を担当してます。避難所の本部長しているお父さんから、「やっぱり何が食べものつくってやらなきゃねんでねぇか」って言われたのがきっかけで、協力隊の隊長として何をやるべきかって考えたときに、「そうだ、やるんはそれなんだな」って。はじめの4日間は、飴ひとつ、煎餅一枚くらいでした。そしておにぎりが配られ、米とか他の物資がだんだん入ってきて、みんなのお腹の足しに少しはなったかなっつうのは、1ヶ月ぐらい過ぎてからでしたね。
今の避難所に移るって決まったとき、移る3日前ぐらいでしたけど、ここに調理場はなかったんです。食べものの用意は自衛隊でもできるって言われたんですけど、それは違うんじゃないかって思いましたね。命あるっつうことは食べることが第一だと、私はそれが一番身にしみてわかったので、食べらせることが私の役割だと思ってがんばってきたんです。ここにいるお母さんたちはご飯の仕度のプロ。震災前はみんなでやってきたんだから、自衛隊の世話にならなくたってできるんです。やっぱりやってかなきゃ、私たちのためになんないって。それに、避難所から食中毒を出すことはできないから、ちゃんとした調理場作ってちょうだいって役所の人たちと争ったんです。
それで、私一人の力ではどうにもなんないから、みんなも反論してほしいって言ったんです。300人ぐらい集まった集会で私がそう話したとき、みんなが「そうだ」って言ってくれました。自分たちでできることは自分たちでやってかないと、これから自分たちが生活していく上で大事なことだと思ったんですよ。
避難所での朝ご飯は、多いときは500人分のおにぎりをつくらなきゃなかったんで、4時に起きてました。若い人たちはあんまり早いと大変だろうなと思ったんで5時から。13人くらいでご飯をつくるんですが、最初は在宅の人たちが3分の2、避難所にいる人たちは数人でした。
避難所にいると、やってくれる人がいるから、やっぱり人任せになるんですよね。1ヶ月ぐらいはいいがなと思って見てたったんだけど、いつまでもこれではダメだと思ったんで、「私たちはお客さんじゃないんだから、避難所にいる人たちで大半やるようにしたいんだけど」って話したの。そしたら、それが当然だよねって。私が4時に起きていくのを見た人もいて、それが口伝えに避難所に広まって、「私たちも手伝うから」って来てくれたんです。自分たちから気づいてくれた、ありがたいなって思いました。
私は毎日そういう時間帯で仕事をしてたから、だから苦もなく仕事ができたったのは、養殖してたったおかげだと思ったんです。養殖はつらくて大変だからやれない、嫁に行けないと言っている人が多いんだけど、自分がこれまでやってきた仕事を誇りに思えるなと。
高校進学に暗雲、でもあきらめない
中学2年の頃、父親の船がサンマを積みすぎて、波をくらって沈没、遭難したんです。私は普通高校に入りたくてすごい勉強したったんだけど、お父さん亡くなったんでどうしても高校に入れられないってお母さんに言われて。悔しくてね。でも、入りたくてずっと勉強はしてたったんです。まわりのおばさんたちからも、お金出してもね、やっぱり入れてやりたいからって言われたったんだけど、お母さんが「他の人の援助まで受けて高校に行かせたくない。わかってほしい」って言われてね。高校っていったら、やっぱりお金かかったんですよね。
「じゃあ、せめて洋裁学校に入れてほしい」って言ったったの。中学のとき家庭科が好きで、隣のお姉さんから洋裁教わって、妹たちにスカートとか作ってやったりしてたのね。洋裁学校なら教材は家から持っていってやれるから出してやれるって言われて、それで釜石文化学院という学校に行ったんです。汽車で片道40分くらいかかったんですかね。2年通って、卒業後、釜石の商店街で布を売るところに勤めたったんです。何ヶ月か勤めたほうがいいって先生に言われて、学校が斡旋してくれて。でも、やっぱり縫い物がしたかったんで、半年くらい勤めた後、家で内職みたいなことをやりました。ただ、縫い物してもあんまりお金にならなかったので、それに妹たちが学校に入るとか家計も苦しかったんで、やっぱり勤めたほうがいいって言われて。
売り子の経験、人前で話す度胸が
そしたら、汽車の売り子の募集があって、世話されたんです。縫い物はいつだってできると思って、そっちに切り替えました。職場が宮古だったんで寮生活。最初は鈍行に乗って、3ヶ月間見習いでした。その後、一人で売り歩いて1年ぐらいたった頃、宮古から花巻まで急行電車が通ることになって、それに3年半ぐらい乗ってました。はじめはもう恥ずかしくてね。車両に入る前に「お邪魔します。よろしくお願いします」、歩きながら「いかがですか」って言わなきゃないし。地元の人たちも利用しているんで、「あっ、幸子さんだ」って言われたりしてね。でも今思うと、人前で話すってことが、そのなかで育てられたんでねえかなって思うんですよね。
この人ならと、反対押し切り結婚
それで今度は、吉里吉里の駅にできた売店で勤めてた人がやめるっつうんで、そっちに回ったの。そこで1年半くらいかな。地元に戻ってきたから、青年会にも入って一生懸命やっとったんです。小さい頃から踊りが好きだったから、「あれ踊ってけろ」って演芸会によく呼ばれたんです。そこで、お父さんと知り合いました。惜しいから売店の仕事はやめないほうがいいよって言われたったんだけど、やっぱり漁業やってる家なので、やめなきゃないと思ったんです。
うちのお父さん、ただ単に他の人の真似するだけでは絶対、収入につながらないって、ワカメでもホタテでも、自分が手がけるものの生態を勉強しなきゃっていう気持ちを常にもっている人で研修にもよく出てたりしててね。旦那さんとしてだけでなく、青年会の先輩として、この人だったらばついていける、何か得るものがあるっつう気持ちで一緒になったんで。反対を押し切って一緒になったんでね。ずっとそういう気持ちでやってます、いまも。
みんなで食べるのが大事
嫁いだとき、家族は11人くらいいたんでないかな。お父さんの両親とおばあさん、妹たちや弟たちもいたしね。初めはね、養殖の手伝いつっても何もわからなかったんで、私は家にいて、その妹さんたちの子どもの世話しながら、ご飯の仕度するっつう毎日でしたね。
おじいちゃんからは、魚の作り方を教えてもらいました。朝は、やっぱり生きたお魚を食べらせたいからね。今の時期だとショッコ、ブリの子ね。この地域ではそういうの。それをお刺身にしたり焼いたり。あと、ちっちゃいサバ。これはぶつぶつ切っておつゆに入れたりしてね。みんな、おじいさんに教わった。
養殖業なんでもう365日、浜にいるんですよね。お父さんは朝とお昼のお弁当を作って浜に持っていって、そこで食べるんです。夜は家で食べるんだけど、私が嫁に行ったときは忙しい時期で、あまり家族でご飯食べるっていうのは少なかったんです。でも、私が仕度するようになって、絶対これじゃダメだ、一日一回はやっぱりみんなで食べるのが大事だと思ってね。おばあさんに少し待ってもらって、夜は家族みんなで食べるように努めました。そういうように変えてかなきゃないと思って、ずっとやってきましたね。
手づくりの暮らしを大事に
お父さんの家は、畑もいっぱいあったし果樹園もあったんです。だから野菜も家で作ってたった。大根とかジャガイモ、いまの時期はキュウリとかナスとかピーマンとかね。果物はリンゴやナシ、ブドウとかを作ってたった。田はやってなかったんで、買ったのは米ぐらい。そう、味噌もうちでついてたった。麹とか豆とかは買ってね。
そういう生活がちょっと変わったのが、私が40歳ぐらいのときですかね。浜のほうが忙しくなったんです。浜から帰ってくれば、お父さんと一緒に畑の草取ったりとかやってたったんですけど、おじいさんが亡くなったこともあって畑仕事とかに手が回らなくなった。そのときは、お金がそこそこ取れてきたったんで、自分たちの体をこわすよりは、買って食べたほうがいいんでないのっつうようなことだったんですね。ただ、そういう生活、私はちょっと捨てがたくてね。お父さんに「このままいくと体こわすぞ」って言われても、やってたったんです。でも、ホタテやワカメなんかも高かったんで、「大きいホタテ取って売ることで食べてくのにいいんでねえか」って言われたったんで、最後は、それもそうだな、じゃ、やめっかって。
でも、野菜は親戚からもらうのも多かったし、車で業者さんが売って歩いてたりしてたったんで、結局、地元の人たちが売ってくれるみたいな感じでした。特別に買い物に行くっつうのはあんまりなかった。子どもは揚げ物とか外で売ってるようなものが好きだったんだけど、出来合いのものを買って食卓にのっけるっていうことは基本的になかったな。
子どもたちに洋服も作ってやった。それこそ夜なべしてね。小遣いも欲しかったんで、内職もしたし。でも、おじいさんにね、電気代かかるからやめろって怒られたりして(笑)。それでもまあ、やりましたね。子どもたちさ、作ってやんなきゃないと思って。
厳しいお父さんの教えを糧に
お父さんの家っつうのは、妹さんたちがお嫁に行っても、実家に来て親の仕事を手伝うっていうのが日課になってたんです。でも、これから養殖を一緒にやってかなきゃないので、お父さんに言ったったんです。「私にも仕事を教えてください」って。そうしたら、はじめは「覚えなくていい」って言われたったんだけど、それを押して仕事したんです。自分できりもりできるようになったとき、お父さんがすごく応援してくれたったんで、この人と一緒になってよかったなと思いました。
あと、「何か得るものがなかったらば、地域の団体に出てくことはないよ」ってお父さんに言われたったんです。普通のお父さんだったらば、「まあ行ってこい」っつうことでしょうけどね。「仕事の時間使って行くんだから、何か得るものがないとダメだ」っていうんで、私も意地になって何か得ようとしたったの。それをわかってくれたのか、黙って出してくれてるし、ありがたいなと思ってさ。その厳しい中でやってきたことがよかったかなと。そういうことを常に言われてたことが普通になって、そうやることが自分のためにもなったし、だからそれがいいことだったのかなと。私、岩手県で女性ではじめて指導漁業士になったんですけど、いろいろ発表する場も設けてもらったりして、そういうときにやっぱり私は恵まれてるなと思います。
お姑さんの世話がいい経験に
あと、年いったおばあさんの介護もしたし。疲れたなぁと思って浜から帰ってきて、普通の家庭だったら、ご飯の仕度して、みんなに食べらせて、それで終わるんですよね。でも、おばあちゃんの面倒を見なきゃないので、もう一仕事残ってるなって。今日はつらいなと思ったことも何ぼもあったんだけど、いま考えると、やっぱりいいことをやらせてもらったなと思うしね。だから、みんなに介護の話、「こういうとき、私はこうやったったいよ」とかね、そういうアドバイスできるっつうことは、自分さ身についたものだなと思ってます。みんな、幸子ねえさんって慕ってくれて、愚痴も言ってくれるし、それをグッと受け止めることができるのは、やっぱりお姑さんに仕えたことがいい経験になったんだなと思います。
精一杯働かなきゃね
避難所にいるうちは精一杯やってるけど、いざ仮設に入ると、いやぁ、ほんとうに仕事はどうなるのかなとか、それはね、やっぱり心配ですね。家も建てなきゃないしと思うと、どうして……どうして建てんのかなと。前の家を建てるときも、すごく苦労したったんでね。その苦労がまたもう、やっぱりそれ以上苦労しなきゃ食べられないなと思うしね。だから、どうしようかな。精一杯働かなきゃ、やっぱり金取らなきゃないしね。