一家の大黒柱として
小笠原広美(おがさわらひろみ)です。歳は、なんと昨日37になりました。今は実家にいるんです。もともと実家にいたので。家のほうはなんともなかったんですよ。なのでここに来るのもなんだか申し訳なかったんですけど。
高校入ったときから消防士になるっていう息子は盛岡の専門学校のほうに出して、トリマーを目指している娘は今釜石の高校2年生です。家には母がいて、兄が自宅のすぐ近くに自動車の整備工場があるんですけどそこに勤めています。昔はうちの父が船乗りで、船だけではもう生活できないっていうんで、東京のほうに仕事に行っています。
仕事のほうは完全に流されてしまって・・・山田町なんです。すぐ後ろが海なんですよ。ほんと目の前で。今は休職中で、お店をやってるんですけど全壊で。根こそぎ土台だけで。
地震の日、たまたま息子の友達が、卒業式も終わったしみんな別れ別れになるからって遊びにきていたらしいんですよ。だから津波のあと、もう帰れないので、一週間ぐらい息子の同級生も5人ぐらい預かって。娘も釜石から歩いて帰ってくるときに、一緒に学校に行ってる友達を連れてきたので、子供が6人ぐらい増えちゃって(笑)。逆にそれがあったから、しっかりしなきゃいけないなっていうのがあって。まあこっちが助けられたようなところもありますけれど、子供たちに。
他人がいない街、吉里吉里
私はずっとここなので、小さい頃からみんなが知ってる人たちっていうか。この吉里吉里地区の運動会があったりとか、顔見ても、吉里吉里の人だよね、何丁目の人だよね、って人の名前を知らなくても分かる。誰に会っても声かけてくれるし、こっちからも声かけるし、子供たち見てもどこの子か分かるっていう、あれはどこの何とかさんの息子だよとか、何とかさんちの孫とか。
幼稚園も一緒、小学校も中学校も、はたまた高校まで一緒っていう人も・・・。同級生はそうなんですよ。小学校も1つ、中学校も1つ、保育園が2つあるんです。でも、結局小学校で一緒になるから。高校も同じ高校に行けば、十何年って一緒にいる。地元の友達っていうか、友達が幼なじみなんですよね。保育園の頃から一緒にいる人たちばかりなので。だからお互い助け合うっていうのができるんだと思うんですけどね。
大槌もみんな町内なんですけど、なんか違うっていうか、大槌の人が見ても、吉里吉里は違うって。吉里吉里の人が見ても、大槌はちょっと違うっていうのがあって。まあ「吉里吉里王国だから」ってことをよく言われるんですけど(笑)。「吉里吉里人」って何でそんなもの作ったのって思ってましたけどね。馬鹿にされてるような気がしてたんですよ、ちっちゃい頃は。何かこう、ヘンじゃないですか、一般的に考えて(笑)。何が吉里吉里国?みたいな、なんで大人はそんな恥ずかしいことするんだろうって思ってたんですけど、でも今になってみれば、それはそれでありだったのかなって色々考えたりするんですけど。
自分たちのことは自分たちで―3.11後の結束
最初は道路も歩けない状態で。地元の業者さんとか重機を持ってる人たちが自分たちでやり始めたり、高校生とか、女の子たちもリヤカーを引いて瓦礫を集めたりとかしてたので、学生って普段見るとほんとに何やってんのかなって思ってたんですけど、力強いって思いましたね。自分の街っていうのもあるんですけど、やっぱり子供がいるっていうのは頼もしかったです。自分のはもちろん、私はよその子も集めてたのでより一層(笑)。瓦礫を集めている子供たちも、私職場が山田だったので、すぐ後ろが海だっていうのを知ってるから、「大丈夫だったの、広美さん?」みたいな感じできてくれて。「しぶといんだよ、私」って言ってたんですけどね(笑)。すごくみんな働いてましたね。傾いた家に入って、そこの家の人に頼まれてはいないと思うんですけど、アルバムあったよとか、持ってきてくれたりとかもあったので心強かったと思いますよ。
治安が悪くなったりっていうのもあったんですよね。車を一台置いて、高校生たちが二人ずつ交代で寝ないで当番をして。今考えるとそこまでする必要ってあったかなって思うんですけど、でもそんときは必死なんですよね。自分の家族とか近所の人を守ろうっていう子供たちの。あんまり穏やかな話じゃないんですけど、金属バットとかを持って、ただ何かあってもクラクションを鳴らして周りの人が出てくるのを待つっていう条件で。まあ鳴らすこともなかったですけどね(笑)。
家がある人とない人―見えない壁
震災のあと家に帰ってきてから、やっぱり家があって、避難所には行けないなと思ったんですよ。家を流されてしまった人の居場所を作ってあげなければいけないっていうのもあるし、家が残ってしまったので申し訳ないっていう気持ちがあって来れなかったんですよ、最初は。被害妄想ではないですけど、なんかこう、家があるからいいよねって思われてるかなっと思って。 でもそういうわけにはいかないと思って、避難所にたまに顔出して、ご飯の配膳手伝うとか、物資が来たのを分けるのを手伝うとかっていうのはやったんですけど、やっぱり家があるがばっかりにごめんねって、こっちから距離を置いてしまっていることが多かった。家のある人とない人で壁が出来てしまうよねっていうのはありましたね。でも、残ってる人たちは残ってる人たちで、しばらくは物資のほうとか、在宅の人にはもらえなかったんですよ。とにかくガソリンがないので、買い物に行けないっていう状態だったんです。それを避難所のほうにも言って、私たちもこういうので大変だって、在宅のほうにも物資を届けてもらえるようにって。
町内のために立ち上がれ!
町内会で残っている家に物資を配りましょうって、この前までずっとやってたんですよ。私がやってたのが2丁目っていう地区で、家が流されてない残っている世帯が117世帯あったんです。人数にすると、470人くらい。震災後3日目か4日目ぐらいで、私たち、歩いて世帯の名前と人数、調べて歩いたんですよ。やっぱりね、安否確認もしなきゃいけないし、誰がここに避難してきてるとか、近所の方とその娘さんと、うちの娘と息子で。
自衛隊さんから週に2回もらった物資を各家庭ごとに分けて、それを皆さんが取りに来てっていうのを3ヶ月半くらい毎日ずっとやってました。やっぱり毎日やってると、毎日顔合わせるじゃないですか。それが逆に家にいる人たちにとっては楽しみになる。14時になったら配給もらいに行かなきゃって。背負いカゴ一つで持って帰れるくらいの量が目安で、いい運動になるじゃないですか。それでコミュニケーションをとって。14時から15時の1時間っていうんですけど、みんなもうそれを楽しみにしてるから、お昼食べると年配の人たちは背負いカゴしょって歩いてくる(笑)。楽しみにしてたんだなって。忙しかったんですけど、それはそれで楽しかった。2、3日来ないなっていう人がいると、じゃあ持ってくついでに様子見てくるかって家に持ってっていって、「どう?なんともない?」って。
仕事をしてたせいで、町内会の活動とかって参加する機会がなかったんですよ。「私、非国民だから」ってよく言ってたんですけど(笑)。顔を見てどこの誰さんって分かるけど、話したこともないっていう人も結構いたんですね。こういうのを通して、人をよく知るようになったっていうか、仲良くなれたっていうのもあるし、自分にとっては自分を町内の人とか町の人に知ってもらう機会にもなったし、お互いにそうだと思うんですけど。やっぱりボランティアしてよかったなって思いましたね。いつもの状態、津波がなかったらやってなかったことなので。
忘れられた動物たち
うちミニチュアシュナウザーが3匹いるんですよ。犬のほうが敏感になってますよ、地震に対して。ちょっと大きい地震になるなと思うと犬が吠えます。犬も分かるんだよねって。地震のときに、息子から「大丈夫だよ。」ってメールが返ってきたあと、「犬は?」って送ったんですよ。あとから冷静に考えて、犬はないよなって(笑)。うちの友達のところも家流されたんだけど、犬とパソコンを持って逃げたって。結構動物は大事にしてますよね。連れてこれなかったっていう人もいましたけど。人の食べるものとか自衛隊さんすぐに持ってきてくれたんですけど、犬とかペットのものとかってなくって、それがすんごい困りましたね。えさは、1週間ぐらいしてからかな、愛犬クラブのほうで持ってきてくれて。うちで会員になっていたので、吉里吉里で犬いて困ってる人いたら渡してって預けられて、知り合いのところにペットシートとかおやつとか配りました。少しずつでごめんねって。お店に行けるようになっていの一番に買ったのがペット用品でした。なかなか飼ってる人じゃないと分かんないんですよね。たまたま停電の夜、クラブの人が車でえさとシートを運んで来てくれて。そこのお宅もお母さんが流されて大変だったみたいなんですけどね、「ちょっとそんなことしてる暇ないんじゃないの、あんた」って言ったら、「こういうことでもしてないと気が紛れないから」って動いてましたね、ガソリンのないときに。
憎いけど憎みきれない、海への想い
今は3分の1くらいかな、漁師をしているのは。昔はほとんどの家が漁師だったんじゃないですかね。どこの家でも、みんな船乗りとか、家で何かの養殖をしてるだとか、船を持ってる家がほとんどで。でも今でも魚とか魚介類はもらうものなんですよ。買うもんじゃないんですよ。なのでそれがなくなると、魚って買うとこんな高いんだみたいな。結局、親戚も漁師とかなると、捕ってきた魚をみんなに分けるとか、遠洋に行ってればそれを帰ってきたときに分けるとかいうのもあるので、常にここ吉里吉里では大体の家で大きい冷凍庫を持ってるんですよ。うちにも、大人が二人体操座りして入れるようなのがあるんです。そういうところにワカメだったりとか海のものが入っていて、今回停電でそれも大変だったんですよ。
なかには、もう海が見たくないって内陸に引っ越した人も多いです。でも私は、、、うん、それでもやっぱ吉里吉里にいたいなって思います。ただね、やっぱ海はもういらないって思う。津波をきっかけにかな。その前は、この時期っていったら、仕事が休みだったら海にいるっていう生活でしたから。何するでもなく海にいるみたいな。
私たちの小さいときは、学校の行事でも、砂の芸術祭っていうのがあって、学校全部で海に行って、クラスごとに砂で何か造るっていうのをやってたんですね。あと、先生が今日暑いなっていうと、外に授業に行こうっていって、海に行ってみんなで遊んだりとかっていうのもあったし。ほんとは良くないんですけど、潜ってウニとかアワビとか採ってくるとか、学生のときにはみんながそういうのやってました。大人の人も分かってて、ダメだぞって放置してるっていう(笑)。そういうのして育ってるから、何かこう、海に対して悪い印象がないんですよね。逆に海がないとさびしいなって。ただ、こういうふうになるんだったら、海もういらない、砂浜いらないなって。でも、今だからいやだっていうけど、後々になれば、砂浜とか、泳いだりとかしたいのかなって。時間が経てばね。
吉里吉里に残る人、去っていく人
私の同級生も地元に残ってるっていうのは少ないですね。私の同級生って70人ちょっとぐらいいるんですけど、そのなかでもやっぱり5、6人しか地元に残らない。あとはみんなお嫁さんに行ったりとか、県外で働いているとか。私も実際釜石に嫁に行ったんですけど戻ってきてるので。やっぱり居心地がいいんですよね。何が違うんだろう、他人がいないっていうのかな。みんなが知っている人。でもそれがいやだって出る人も逆にいますけどね。人によると思うんですけど。子供たちもこの人がどこの誰だと分かるようになると悪いこともできないし、みんなに見張られてるみたいな(笑)。なので子供を育てるには逆にいい環境だと思いますけどね。よその子でも、ダメだよそれは、とか怒ってくれるし。
これからこの街もどうなるのかね。元通りにはまず無理だと思うんですよ。なので、せめてあまり差し支えない程度にっていうか、住むところは高台に移してもらうだとか、あとは、地形が崩れないように、グラウンドを造るとか、体育施設を造るとか。折角だから、永く人が集まれるようなところを造ってもらいたい。
子供がいる人はそういった話するんですけど、中にはどうにもなんないからね、出たほうがいいよっていう人もいるし。お年寄りは逆に残りたいっていう人が多いです。私たちぐらいの歳だと半々です。子供がいる人とか、街を変えてくれたほうがいいっていう人と、今はもう無理だよって言ってそれこそ盛岡とか北上とか内陸に引っ越してしまう人と。考え方なんでしょうね。自分の街をどうにかしようって思うか、それとも子供のために伸び伸びした環境を整えようと思うか、じゃないですか? 中学校でクラブ活動するっていっても、マラソンするのも瓦礫の中なんですよ。大槌も小学校とか中学校とか残ってないので、吉里吉里に来てるんですよね。自分の学校なのに、自分の学校のものが満足に使えない。そういう思いをさせたくないってみんな引っ越しちゃうんですね。
でもそれが現実だから、受け止めていくしかない。それで何か子供が変われば、それはそれで絶対悪くは変わらないじゃないですか。それもまた経験かなと思って。だから見せたほうが逆にいいと思いますけどね、私は。だって避けれないしね、無かったことにもできないですし。後は自分で成長してもらうしかない。
最後に・・・
落ち着いたなっていうのはやっぱり子供たちが学校に行ってからですかね。学校が始まるっていうのは、もう大丈夫かなっていう安心感ですよね。みんなに「大丈夫?」とか、「精神的にどう?」とか聞かれるんですけど、案外そうでもないなって(笑)。