自己紹介 ―俺はな―
俺は「復活の薪」を始めた芳賀正彦(はがまさひこ)です。昭和23年1月30日生まれの63歳です。福岡出身で28歳のとき婿養子として吉里吉里に来ました。俺たちの子どもは3人女ばかり。2人孫がいます。末娘は俺たち夫婦と一緒に吉里吉里で生活しています。
俺はもう学校卒業してからずーっとデーラーの自動車の整備士。子育てが終わって、俺も山とかが好きだったから、52歳で、女房の許しを得て小さな個人の林業会社に勤めて山仕事するようになって、60歳で林業リタイヤしてね、吉里吉里の小さなガソリンスタンドで月10日くらいアルバイト、年金貰いながら。車の整備の事分かるから、スタンドに修理してくれとかオイル交換してくれっていうのを、俺が対応している。今は毎日「復活の薪」で薪を作ってますよ。
引っ越してきて ―吉里吉里に来て驚いた―
結婚した当初は、女房の両親同士の吉里吉里弁の会話は半分もわかりませんでした。吉里吉里弁は今はほとんど全部わかりますが、わかるまでに2、3年くらいかかりました。
吉里吉里に来て2、3日して、すぐ父親の手伝いしたの。父親は現役でワカメとかの養殖業営んでいたの。ちょうどワカメの最盛期だったので、水揚げの時に俺、ワカメをナイフで切ったり、選別作業とかやってたの、岸壁に座り込んで。そしたら大雪が降ってきたの。
これからの季節はやませ、東北の風がこれから吹くの。梅雨が明けるまでみんなどこの家庭もストーブはしまわないの。間違いなくストーブが欲しくなる寒さが来ます。
ほんと北東北岩手の自然に対して、海とか雪とか寒さとかそういうのにびっくりした。日本を知ってるようで知らなかった。
地震 ―揺れたんだ―
11の日は、娘は保育園の勤務だったの。平日の午後、女房と俺は昼ご飯食べて、家で寒かったからストーブをつけてテレビ見てたの。その時にあのとてつもない地震が起こったの。地震で結構な時間揺れました。地震が始まって何も動けなくて。女房と2人で揺れが終わるまで、台所の丈夫なテーブルの脚にしがみついてたの。そのくらいの揺れだったの。震度7くらいでした。
あの地震だから、俺の家もすぐ海の近くだから間違いなく大きな津波が来る。直感したもん。すぐ逃げたもん。だから、小学校にもう真っ先に逃げた。女房は長い事、吉里吉里保育園に勤務してて、園長先生もやったから、震度3、4の地震があると真っ先に体1つで吉里吉里保育園に下がって逃げる用意の手伝いをした。今回もそうだった。
地震も怖かったかな。地震も、本当おそろしいもんだなぁ。あのくらいの揺れは、何もできないんだもん。津波が来た時のために防災備品、電池とかヘッドランプとかも俺はちゃんと用意してたの。それすら頭の中に思い浮かばなかった、逃げる事しか考えなかった。俺が避難場所に行って身に着けてたのは携帯電話だけ。だから、避難経路は、どの道を通って避難場所に行くかだけは一番重要だと思ったね。津波とか地震のためにいろんな非常食とか蓄えるじゃない。こんな巨大な災害になればね、何も役に立たないよ。持って逃げられないもん。真っ先に逃げる事。避難経路が一番大事。
あの巨大地震でもね、俺が知る限り大槌、吉里吉里あたりでは津波による被害で、地震による被害は1つもない。横揺れだけだったためでしょうね。今風の造りする家もいっぱいあるし、うちみたいに在来工法の家も。そういう、いろんな家があったの。
津波のこと ―聞くたびに1回津波を見たいと思っていた―
女房は何回か見たことあるんだね。十勝沖津波とか大した波じゃなかった。父親は昭和三陸沖大津波。津波ってこういう風に来るんだよって聞いてたけど、聞くたびに1回津波を見たいと思ってた。もう一生津波を見る事ないかなって思ってたの。ところがこんな津波。
真っ先に逃げたから、避難場所の吉里吉里小学校のグランドからずーっと最初から津波を見てました。1波が来て、国道近くにある住宅が1列2列、国道に並行して北の方にサーっと置き船みたいに流されってた。普通は、1波が引いてしばらく置いて2波が来るの。その時は1波が引いたかと思うと間もなく一番大きな2波が来た。2波の波で全てやられた。町がなくなった。2波が引いた後、吉里吉里の湾の海底、磯が、岩場が、真っ黒い色して見えたんだよ。湾の防潮堤のあたりまで、海底が全部見えた。そんな大きな引き波だった。1波が近づいてきたその後ろに2波の波があった。3波の波がずっと向こうに行ってるのはわかった。
見た瞬間怖かった。この世のものか、現実だろうか思ったね。家が流される、船みたいにして流されて建物がそのままダーと。小学校の避難場所のすぐ下まで波が来る。真っ黒い海底が見える。2波の波っていうのも真っ黒い波だったもんね。津波の波自体が真っ黒。色んなもの混ぜ込んで。津波ってこんなもんだなぁー、2波3波あたりは小さな津波かなってそんなこと考えることはできなかった。息を飲むってかね、ただ茫然とボーってみるだけだった。
「復活の薪」 ―自分たちの自立へ―
避難所にお風呂(河童の湯)があるでしょ。避難所にいる人たちにお風呂に入ってもらったりとか。県の方で農林課の深澤さんがここに設置してくれたの。県の職員さんのほかに全国からいろんなボランティアの人、職員さんが手伝いしてくれる。「復活の薪」はね、ヒントを下さったのはその中の男の人が、ボイラーの薪を作りながら「これボイラーの燃料だけじゃなくて売れるんとちゃうんか」って。兵庫県のボランティアで阪神大震災を経験した子なの。彼の一言で、あっ、金にしようよって。俺がみんなに、避難所でじっとしてるよりは体動かして、小遣い程度にしかなんないかもしれないけど、何かを生産するって、自立の少しの手助けになればと思うから始めようやって、呼びかけたん。そこからスタートした。
「復活の薪」っていうんは深澤さんが命名した。なんでも深澤さん。深澤さんがいなければ「復活の薪」はなかった。そして兵庫県のボランティアの一言がなければ、このプロジェクトは始まってない。
毎日薪を作って、日曜日とかそんな関係ない。俺たちは津波の日から今日まで、1日起きてる間は、自由な時間、自分たちの時間を1回も持ったことない。もう4か月になって。
薪を作って、汗流すことによって、何か作り出しえるとか、俺たちはできることを今、すでに行動に移して自立しているって、自信って力を感じてると思う。この前、販売した薪の売上を、作業している人たちに還元するために分配したの。ほんのわずかな金なんだ。まぁ小遣いにもなんないかもしれないけど。配ったら「金のためにやってるんじゃないよ、うれしいからやってるんだ」、みんなそうおっしゃる。そん時はうれしかったな。
「復活の薪」のメンバーっていうのはみんな避難所生活してたやつらばかりなん。被災者なん。仮設住宅に移れた人もいるし、まだ避難所にいる人も。みんなそういう方。みんな被災者。薪売ったお金はすべてその作業した人に還元する。俺は、最初に貰った金は、女房に化粧品をプレゼントしたんね。
地震と津波でなくなったもの
私の家はね、屋根と柱と土台は残った。内壁、外壁全部、畳、床、天井もめちゃくちゃ、要するに全壊なの。ただ建築家に聞いたら、80年くらい前に建てた昔の家だから大きい石の上に乗って、寸分の狂いもずれも傾きもなかった。間違いなくリフォームで元通りの家になるよ、保証しますよっていう。新築するよりは少しでも安いから、もうどんどん大工さんが入ってる。7月末に完成です。吉里吉里で最初に俺の家が復活する。
津波での行方不明者も入れて犠牲者は90人くらいじゃないかな。まだ2、30人は行方不明のままです。みんな海の向こうに行ったんだと思うよ。もう陸地は徹底的に行方不明者の捜索したから、それでも見つからないってことは海の方に行ったんだ。海なんか行ったら分かんないよ。津波がどういう方向に流れてっていうのは想像もつかない。
地震と津波で得たもの
50年100年先には必ず津波は来るよ。みんな忘れます。俺の子供の代までは覚えているけれど、間違いなくみんな忘れるってことを前提にこれからの津波対策しないと。こんな巨大な災害をいつまでも忘れるはずはない、記録に撮ってても、映像に撮ってても忘れるはずはないと思うけど、いつか必ず、50年くらいしたらみんな忘れる。避難訓練も参加しなくなります。それは間違いない。
これから -夢と希望―
地震や津波で亡くなった人の顔もいっぱい見たし、真っ先に俺は、助けられた命だと思ってるなぁ。だからその人たちに恥ずかしくないような、笑われないような生き方をこれからしていく。俺は真っ先にそれ考えた。犠牲になった人が一番喜ぶのは、やっぱりきれいな海、ほんとの自然の砂浜、そして里山。全部がきちんと手入れされて豊かな海・山・森になることが一番喜んでくれるんじゃないかな。いくら物の豊かな生活になっても心が豊かじゃないとね。人より立派な車乗ろうが、人よりいいお家に住もうが、心が豊かじゃないとね。海・砂浜・山がきちんとしてればおのずと本当の町ができる。だから良い海を作るっていうのはおこがましいけど、いい海を守る、そのために山に入る、間伐・手入れする。もうね、山の手入れも10年20年じゃ終わらないよ。この広大な人工林、見えないところ、子ども、孫の代までずっと奥にもつながってるんだよ。その孫が、またいい人見つけて結婚して子供産む。普通の暮らしの中に山の手入れ、山の中に入るという生活にシフトする町になってく。
今までは、三陸っていったら、みんな海のもの。これからは、いい海といい山がある。そうみんなに思わせる、イメージが浮かぶような町づくり。自然のふるさとは、10年20年じゃできないよ。その中からいろんな仕事も雇用の場もできてくる。海産物だけじゃない、吉里吉里にしかない特産物も出てくるだろうね。でも今の吉里吉里は海産物、海の幸だけです。
これからは海の幸+山の幸+人の幸ね。漁師の若い子が、小さな職場で臨時採用しているサラリーマンが、ちゃんと世界各地の人たちと堂々と意見を述べられる、そういう人材が人の幸でしょ。海、山、人の幸。
せっかくインターネットとか情報の時代になったのに、みんなまだ、どうやってそれを利用していくか、俺もそうだけれどわかんなかったなぁ。今回初めて、漁師の若い子たちもみんな、マスコミ、インターネット、巨大メディアの力思い知らされた。この薪のプロジェクトの若い子も「正彦さん、マジでパソコン覚えたいです。使わして下さい」、俺は「あぁ使え」って。俺もこれから、本当に覚える。何とかメールのやり取りできるようになったけどね。
船を自由に操れる、山でチェーンソーを自由に操れる、パソコンも自由に操れてインターネットを利用して、直接お客さんと海の男が取引できる。津波がそういう風に教えてくれた。犠牲者の人たちが、そうしろって望んでると思います。海には責任はないのよ。こんな大災害で尊い人命、財産が失われたけど海には何の責任もない。俺たちがただここに暮らしてただけの事。これからもそうするの。俺たちは海のそばで生きていく。