自己紹介 ―松橋康弘です―
私は松橋康弘(まつはしやすひろ)です。昭和61年11月13日生まれの24歳です。家族は両親と姉2人いますが、姉は2人とも嫁に行ってます。高校は釜石南高校、今の釜石高校です。高校時代はラグビーのロックというポジションをやっていました。大きな声では言えないですけど、勧誘がすごくて。あと地元の吉里吉里の先輩たちが沢山ラグビーをやってて「入れ入れ」っていうので。結構世話をしてくれる人たちだったんで、そういう繋がりもあって。大学は、北海道の室蘭の夜間大学で工学部に行ったんで、昼間はレンタカー会社で働きながら機械システム学部で勉強しました。大学を卒業して、2年くらい前にこっちに戻ってきました。今は父親の代からやってる観光バス事業をやっています。
学生時代 ―遊び足りなかった―
小学校や中学校のときの遊びは、夏はやっぱ海水浴です。毎日のように海に行ってました。あと、釣りとかもしてました。小学校の時とかは時間を持て余してるので。
私のとき小中学校は、1学年41人でギリギリ2クラスですね。生徒がすごい少ないんで、全校生徒を知ってる感じですよ。今は何人もいなくて、同年代は10何人とかです。
当時の友達はほとんど連絡は取れるし、去年の年末も皆で集まったりしました。
埋立地が公園で、遊び場所だったんですね。泳いだりしました。砂浜じゃなくて、ほんとはダメなんですけど、飛び込んだりとか釣りとかみんなでやってました。でも、あんまり山には行かなかったですね。
大学時代は、今思えばもっと遊んどけばよかったなと思いましたね。あの時は十分遊んでるからいいやっ、と思ってたんですけど。寝ないでまで遊ぶのは嫌だったんですけど、今になればそんなこともできないし。もっと遊んどけばよかったなって。
地震 ―橋の上だったんで、すごい揺れて―
地震の時、吉里吉里から5分ぐらいで行ける隣の町の大槌にいて。橋の上だったんで、すごい揺れて。橋から普通の所まで車で走って行って揺れが収まるのを待って、速攻吉里吉里の家に行って。物取ってる時も余震が何回もきて。凄い揺れたんで、帰る前は、家が崩れてるかなって思ったんですよ。家戻った時に崩れてなかったんで。母親が酒屋をやってるので、家に帰ったら全部酒が倒れてて、すんごい臭くなってて、片付けなきゃねぇなと思って一応物とか運びました。津波があったんで、片付けることもなく、自分の車と仕事で使っている車と母親の車3台を高台にあげました。その時はあんなおっきい津波が来ると思ってないので、何回も家に戻って。でも誰も止めなかったんです。父親が1回家に来たんですけど、私が家に戻った時に、「すぐ逃げろ」って言って、父は会社に戻ったんですよ。なので「流されただろうな」って思ってました。でもギリギリ逃げれました。トラックで逃げててもう無理だってことで車を道路に置いて、そして山に上がって助かったんです。けれど車は流された。
もう1人ダメだと思った、津波の直前に会った友達がいた。宅配の仕事やっていて、「逃げなきゃないの。やばいから逃げろ」って言ってもう1回戻った時に、まだそこにいたんで、無理かなって思って。次の日避難所に行ったら車がいました。
小学校に逃げて、津波で吉里吉里が海のように水びたしになってるところしか見てないんで、そして、家が壊れた時の土埃で、全く見えなくなって。
かなり揺れたんですけど、情報が全然入ってこなかったんで、震度何だったか未だにわからないって感じです。7っていうようなことですが。
すごく揺れたんで、地震に対する恐怖はありますね。揺れるなってわかるんですよ。地鳴りがするっていうか、横になってると来るなってわかるんですよ。そうすると大きくなるんじゃないかなって。静かに揺れ始めて長くなると、ドーンときたらどうしようとか。緊急地震速報も携帯で鳴るじゃないですか。それが鳴るたびにピリピリってびっくりするじゃないですか。
津波の後 ―復興に向けて―
津波の後は、みんなから連絡が来てましたね。1週間携帯を使えなかったので、メールが70件くらいと着信も70、80件くらいあって、返信に2日3日かかりました。
津波が引いた後に助けてくれって言われて小学校から海の方に降りてったら、私の3つくらい上の奥さんが流されて亡くなってた。その人に心臓マッサージとかしてて、その横におばあさんも亡くなった状態でいて、そんなところに行って、でもまた波が来るかもしれない。それも怖くて。はじめは本当、夢じゃないかと思うのはこういうことなんだなと思いました。
吉里吉里では、色んな職種の人が多いので、なんでも分担して自分たちでやります。建設業の人もいれば造船業の人もいるので、鉄骨が倒れてるとなればガスバーナー持ってきて切ったり、鉄骨を建設業の人が機械でどけたり、そういう風にどんどん道路を自分たちで造っていく。私も行きました。会社の仕事で使っているRV車があったんで、それもどうにか小学校にあげたんで、物取りに行くとか、ガスバーナーで使う酸素やガスを取りに行くとか、そういうのに使われていました。
避難した小学校が孤立っていうか車では来れない状態だったんで、朝5時くらいから2、30人で作業を始めて7時8時くらいにはとりあえず車で来れるようにはしたんです。道路をこういうふうに造れば通れるだろうってことで、狭い道でもいいから造ろうって。あと、機械を持ってる人は機械を持ってくる。そんな感じで、地域の団結力はすごいなぁと思いますね。
おじいさん所にあった4台のバスをすぐ小学校に上げて、バスから100Vの電源を取ったんです。小学校が全部停電だったんで。それで3週間ずっとエンジンかけっぱなしで電源にしました。軽油は、ガソリンスタンドから持ってきたり、流されたトラックから抜いて来たりして、ずっとエンジンかけっぱなしで小学校に電気を取って、豆電球みたいな電球を点々とつけて。バスは4台あったんで2台は電源用で、あと2台は寝るところもなかったんでそこで寝てる人もいました。2台の電源用のバスでも寝ている人もいましたね。1台は消防団の本部にして、会議とかしてたりしていました。
発電機もあったんですけどエンジンがかかんなくてバスのエンジンをずっとつけっぱなしでしたね。3月の末に小学校に電気が来ました。
避難者の名簿を作ってネットに載せるとかいろいろありましたよね。名簿作るのはパソコン使ってやりました。
津波の後は3日くらい腹が減って大変でしたね。1日目は津波の後、8時くらいにおにぎりが1個出ました。それは、普通かちょっと足りないかなって感じですけど、次の日は朝から何も食べないで。寝れなかったんですよ、緊張して全然。2日目の朝早くから道路造んなきゃないってなって、看護師さんに「薬下さい」って言ったら「ご飯食べなきゃだめだから」って言われました。それから初めて夕方におにぎり1個貰ってそれで終わりです。3日目も朝ちょっと出て、お昼もご飯がないからってコンビニからひろってきたポテトチップスとか、1個ずつとかカップラーメンにお湯入れないでみんなが麺だけぼりぼり食べるとかそんな感じで、そして水は出ないんで、飲み物は販売機が結構流されたんで無理やり開け、飲みはじめました。きつかったです。腹は減るし、のどは乾くし。
観光バスで
会社は父親の代からです。一番初めはレンタカーをやってました。そのあとに観光バス。高校生くらいのときだったんで7年8年ぐらい前からです。
うちの場合は観光地に行くっていうよりは送迎バスとか、部活動の遠征とかが多いですね。あんまり観光っていうのは来ないですね。
車は津波で14台あった中の13台が流されました。他にレンタカー会社も別にやっていて、そこに3台残っていたので観光バスのほうに持ってきて、とりあえず4台で仕事を始めて、その後に他のバス会社からもらったり安く譲ってもらったりして、今は7台で仕事をやっています。
今はスクールバスの仕事ですね。大槌町内で小学校がほとんど無くなったんで、1校しか残ってなくて、中学校も1校しか残ってません。その全部の学校への運転をしています。毎日バスを5台ずつ出しています。私はいつも浪板から吉里吉里まで運転しています。普通なら歩く距離なんですけど、瓦礫も多いし危ないからってことで、バスを出してます。本来なら小学校1年生でもみんな歩いて来てるんです。
仕事は、ほとんど休んでないですね。中学校のスクールバスが始まったのが4月の中旬からですから、その辺から全然休みがないです。毎朝5時くらいに起きて仕事みたいな感じです。
スクールバスに5台使ってあとの2台はあえて動かしてません。色んな仕事をやっていて、JRさんが止まった時に代行バスをやってたので、常に出せる車を置いてなきゃいけないんです。それで2台は予約を取らないようにやっています。
JR釜石線と山田線の代行をしています。大雨とか、すごく風が強くて列車が止まった時に代行してますね。吉里吉里は全然電車が通ってないですね。大槌の鉄橋も流されて、無かったりするんで。電車は止まったままですね。ただ釜石から花巻の間とかは動いてるんで、そこの分で止まると電話がかかってきますね。
JRさんもたまにしか来ないんですけど、津波の前は、大槌の食品加工会社の従業員の送迎バスをやってました。津波の日も送った人がいるんですよ。海の近くまで送っているんですけど、その人たちはみんな助かったって言ってました。従業員の人が地震の後すぐ、バスを出してくれってことで。電話も繋がんなかったんで、うちの会社に来ようとして、車で向かったらしいんです。こっちにくる間に津波がきて、その人たちは歩いて高台に逃げたんで、大丈夫だった。
まだ落ち着いてはいない。会社の事務所が流されて、無いんで。今、仮設プレハブでやってるんで暑いし、狭いし。前と同じ所でやってるんで津波が怖いですよね。来たら、また流されるんで、車だけでも違うところに置きたいんですけど、やっぱ土地がないので。
この前、テレビに3日間、密着取材された。岡山のバス会社がバスを譲ってくれたんですよ。その時にテレビに映りましたね。3日間来て撮影して3分にまとめられて。岡山のバス会社は、もう車検も受けてすぐ乗れる状態にして持ってきてくれたんで、岡山ナンバーを岩手ナンバーにするだけでOKだったんで、すぐに使えました。4月の29日とかに持ってきてもらって、5月の連休明けからすぐバスに出すことになって、そこから毎日ですね。あと、東京の西武バスってライオンズの会社です。合計で3台ですね。それでもまだまだ足りないです。
今日は普通のバスの送迎ですね、運転手が来るんでバスを出してやんなきゃいけなくて。明日もお葬式のバスの仕事も入っています。お葬式の送迎バスも震災前までは結構やってたんですけど、今は少なくなりました。津波ではなく普通に亡くなった人は普通に葬式やってるみたいなんですけど、あんまり大きくはやらないみたいで、今までは1週間に3回くらいずつお葬式のバスの仕事はあったんですけど、今は1か月に2、3回。
落ち着いてきて今
家が整備工場もやってるんで、今年整備士の免許を取る予定だったんですよ。その試験が3月20日だったんですよ。3月11日に震災でこうなったんで、受けないかなって思ったんですけど。通っていた学校の人が来て受けてくれって言われて、そして受けに行ってきたんですよ。初めは、まぁいいやと思ったんですね。こんな状態になったし、勉強もしないで行ったんで。でも意外と簡単だったんで、どうにか受かりました。
岩手は試験の延期は無かったです。宮城はあったような話ですけど。受けれなかった人のためにもう1回テストをやったみたいですけどね。そっちにしてもらいたかったんですけど、とりあえず受けに来いって言われて。
近所に同級生が1人いて、その人のでっかい鉄筋の家も波を被ったんですけど形が残ってるんですよ。そこにひっかかってた写真が10枚くらいですかね、その人が持ってきてくれました。七五三のときの写真とか。でも本当に驚くことに、あとは何も出てこないんですね。
飲み屋も無くなったんで。居酒屋なんか、釜石なんかも混んでるみたいですよ。予約をしないと入れない。先週も友達と飲みに行くかって行ったんですけど予約が取れなくて、結局お好み焼き屋で飲んで帰ってきました。
こうなっても遊びたいときは遊びたいじゃないですか。