みんな笑顔になるために、立ち止まってはいられない

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誰が何て言ったって、自分の命は自分で守らなきゃならねえ。でも、そのあとは、それぞれが助けてやるに越したことはないね。
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Tokyo Foudation
Geolocation
39.3698337, 141.9411843
Location(text)
岩手県大槌町吉里吉里地区
Latitude
39.3698337
Longitude
141.9411843
Location
39.3698337,141.9411843
Media Creator Username
Interviewee: 田中茂さん, Interviewer: 吉野奈保子
Language
Japanese
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Japanese Title
みんな笑顔になるために、立ち止まってはいられない
Japanese Description

漁業から、水産加工へ

名前は田中茂(たなかしげる)。昭和25年11月19日生まれ。60歳です。

うちは漁業会社です。父から引き継いで私で3代目。漁業と造船をやって、そのあと水産加工をやるようになりました。

吉里吉里は昔から漁業一筋の町でした。北洋に鮭・鱒出漁。昔はイカ釣り船もかなりあったし、あとはサガ縄。サガっていうのはメヌケのことです。赤魚の親分みたいな底魚。昔は襟裳から千島にかけて獲りにいったみたいです。

養殖をやるようになったのは俺が小学生の頃だから、昭和30年ぐらいかな。三陸で若布を養殖できないかっていう話があって。みんながやるかやらないか迷っていたときに、うちの爺さんが「やろうよ」と言い出した。大槌町でも最初でした。それから賛同する人が増えて、乾燥場まで作ってやった。でも、うちは養殖が本業でないから、すぐに撤退しましたけどね。

その時代、うちは漁船が主でした。鮭とサンマとマグロをとる商売。それを兼業船みたいな感じでやっていました。当時は木造船です。造船所はうちと、もう1軒あったね。船大工を使って、船をつくっていました。

もう20年ぐらい前になるかな。うちの爺さんはちょっと物好きだったからね。最後は10トンの船を自分のためにつくりました。うちの山のスギとかケヤキを使ってね。

木造船をつくらなくなってからは、修理船をやっていました。修理は鉄船だね。エンジンの修理はうちでやって、ペンキはペンキ屋いたし。なるべく自分で賄うような、そういう会社でした。

昭和40年代の初めから水産加工の仕事も並行してやっていました。平成11年に国際的な規制があってマグロ船を減船したときに、漁業はすべて止めたような形です。多い時期は7隻ぐらいの漁船を持っていましたけど、それをみんな処分して。造船所の方は残そうかどうしようか考えたけども、その翌年には辞めました。

冷凍工場は吉里吉里ではなく、隣の安渡(あんど)地区の港にありました。加工で一番多いのは鮭ですね。鮭とイクラ。あとはサンマやスケソウ(スケソウダラ)の干物。津波が来たときはマダイの加工、今年のサンプル作りを一人でやっていました。

工場に津波が来た

地震は2時40何分だったかな。大きな揺れでした。揺れが長かった。で、加工場のセメントの土間にすぐにひび割れが起きました。「これは補修にすごく手がかかるなあ」と、そのときは、まず思った。

外に出たら、凍結庫の上のクーリングタワーがすごく揺れていて、屋根から飛び落ちそうな感じだった。「もう、ただごとじゃねえなあ」と思っているときに、地面から泥水が湧き出してきた。液状化現象のひとつかな。それで社員と、車や道路にあるものを高台に持っていって。工場のシャッターを閉めて。そうしたら「大津波警報が出たよ」って声が聞こえた。それで逃げたんさ。

うちの工場は、防潮堤の外側、海側にあったんです。埋立地です。だから何か来たら、みんなで逃げるという気持ちは持っていました。満潮になると工場の低いところには、海水が中まで入った。年に4~5回は入ったかなあ。「ここは設計ミスだ」って、うちの親父はよく言っていました。普段から長靴を履いて商売していますけど、「今日は排水が悪い」って、そんなことはよくあった。だから危険性は重々感じている。「いざとなったら逃げるしかない」ってね。

あと、津波はいろいろ経験しているけれども、今回、今までとちょっと違うのは、潮があまり引かなかったことだね。「水が引いてから津波が来る」っていうのが頭にあるから、海を見ながら片付けしていた。「これくらいなら、まだ大丈夫だ。よし、これやっとけ」っていう感じで。

昔から「地震が来たら30分以内に逃げろ」、「早いときは15分でくるよ」と。それは昔の人の言い伝えであったから。しばらくして限度だっていうことで、みんなを帰した。

それから私も防潮堤、越えてきたんさ。そうしたら警察の方が一人、監視をしていた。だからそこへ行って、津波の到達時間を聞きました。ところがその人は「わからない」って。逆に「どうなったら来る?」って聞くんさ。津波がわからないんだよね。だから「あそこ見てろよ」と。「今、船が止まっているでしょ。船は前よりも30センチぐらい下がっているから、これがもっと下がるようだったら完全に来るから逃げろよ」と、その人に言った。

私は防潮堤の内側に、避難のための軽トラック1台置いていたから。そこまで歩いて行った。5分ぐらいかかるかな。そうしたら、まだ3~4人、別の工場の連中が立ち話している。それに、ものの1分ぐらいかな、加わって。「俺は逃げるから、早く逃げろ」って。でも、その連中はぐずぐずしていたから、そのあと津波に呑まれたの。

で、200メートルぐらい離れたところに自動車工場があるんだけど、そこの親父さんが道路を歩いていたから車に乗せて。ところがその人は途中で降りるって言い出した。「ここでいいよ」って、その人言うから、鉄橋の下で降ろしたの。「このあたりに家があるのかな。ここから高いところに上がるんだろうなあ」と思って。私は川沿いに上っていった。

最終的に国道まで出た。大槌町のバイパス抜けるときは渋滞気味だったんだ。1分ぐらい、そこで時間をロスして。で、川を見たら、水が上がってきた。「これはやばいなあ。これは、どこに行くったって行けないなあ」と思っていたら、前の方がちょっと空いたんだね。私、軽トラックだったんで、すっと逃げて、バイパスを走った。で、トンネル越えて安渡小学校の裏手まで来て、車停めたんさ。そのときはもう津波が来てたな。ドミノ倒しじゃないけれども、土煙りあげながら建物とか倒れていって、「ボンッ」とガス爆発の音がして火の手があがった。

だから、あと何分か遅れていたら、俺も亡くなっていたと思う。後ろ見る余裕もなくて、津波が来ているかどうかもわからない。ここなら大丈夫だって停めたとき、そういう状態だった。

それであとはトンネル越えて吉里吉里に出ました。うちの方はお陀仏だなと思ったから、後ろ側の細い道路、小学校の上に抜ける道路があるから、そこまで軽トラックで来て、小学校の避難所に行った。

親父はラッキーだった

私の家族は4人。妻と爺さん一人。息子が2人。長男は県庁に務めていて、次男は私らと一緒に働いていた。次男は工場を片付けた後、先に帰したのさ。で、妻は一番先に逃げたんだけども、みんながみんな顔見るまでは「あいつは大丈夫か」って心配だったね。吉里吉里の方も被災しているからね。もしも家に帰っていれば、恐らく沈んだだろうと思った。あいつの性格だったら、ひょっとしたら行ったかもしれない、と。

うちの家、鉄筋の3階建てなの。ちょうど、あの日は弟が遊びに来ていて、親父は家にいた。本当は早く逃げれば良かったんだけれども、年寄りっていうのは変な自信があるんだなあ。「逃げない」っていう。水が来たのを見てから3階に上がったんさ。で、家は3階まで水没したんだけど、3階の小部屋は空気だまりができるような構造になっていたから、そこに顔つっこんで助かった。たまたま窓の向きが良かったんだね。窓が破れたら波に引っ張られたと思う。ラッキーだった。

うちらも、あの家は、津浪が来ても2階までは来ないだろうって思っていた。建物の地盤でだいたい4メーター、2階で10メーター以上あるからね。3階だったら12、3メーターはあるはずだ。防潮堤で津波はいくらか押さえられるだろうし、国道がちょこっとあるけど、そこでまた波が押さえられるだろうって。だから大丈夫だろうと思った。変な安心感だな。本当、自然に対抗するのは無理だ。それが人間の愚かさだと思う。「これなら大丈夫」って思うんだな。

息子は避難所でボランティアをした

避難所は、最初から藤本さんとかが、炊き出しの準備してくれたりして、食糧には困らないようにしてくれた。だから良かったのさ。

発電はバスを使った。秀樹君たちが、バスをタイミングよく小学校さ逃がしたから。それで発電して、祭りに使う電線を持ってきて、電気をつけることができた。最初から真っ暗でないし、良かったのさ。

私は、最初の日はバスの中で寝て、次の日から4丁目の弟の家に泊まった。俺の家は津波にはやられたけど、たまたま残ったためにガレキの撤去は次の日からすぐに始めた。弟も手伝ってくれて、本当にこの間までかかって。その間、3日間だけ休んだ。あとまた、休みなしだもの。

息子は避難所のボランティアをするって。消防団にも入っていないから、どうするかなあと思ったけど、息子がそう言って決めたんだ。誰が何て言ったって、自分の命は自分で守らなきゃならねえ。でも、そのあとは、それぞれが助けてやるに越したことはないね。本当はうちらだって避難所を手伝わなきゃいけない。そういう気持ちは、みんなあると思いますよ。若い人も率先して手伝おうって感じだった。

亡くなった人への想い

この津波で弟の嫁さんが亡くなったし、あとはうちのお袋の実家の嫁さんも亡くなった。あとは親父の兄弟、私の従兄、それも亡くなった。近い人で4人以上いるなあ。あとは、うちの親父にしたらハトコ(再従兄弟姉妹)か。その人たちも亡くなったなあ。

亡くなった人に悪いけど、私は自分の家族は何とかなったし。だから、まず、いい方だとは思っている。うちに勤めている人の中には、両親と奥さんと子供が亡くなって、長男と自分だけが残った家もある。いずれにしても、亡くなった人も何分か違いだな。私もそっちに入っていたかもしれないし……。

これまでも海で人が亡くなることはあったよ。記憶に残っている最初の事故は、小学校5年生のときかな。船1隻、行方不明になったんだよね。同級生は親を亡くしたし、親戚も。かわいそうだっけ。うちらは親いるけれども、そいつには親父いなくなったからね。

そんなとき、どういうふうに区切りをつけるかと言ったって、実際、その本人でなきゃわからないね。うちらみたいな会社側の人間は、ただ、家族の思いを考えてやることしかできない。しょうもないよな、祈るしかない。会社としての供養は33回忌までやりました。

昔からこのへんではね、33回忌で「まっかぼとけ」っていうんだな。それでまず、いったん供養するのやめるんだっけ。その頃になれば、だいたい御先祖様のこと知っている人は自分の方も亡くなってくるわけだ。それがひとつの区切りだったんだな。

遺体がみつからないと、それはかわいそうだっけな。本人たちが区切りつかないみたい。あきらめきれないというかな。あきらめているんでしょうけれども、何かやっぱりなあ。

工場の再建に向けて

工場の再建はね、一応やるつもりで動いています。息子も「逃げない」って言ってるからね。さっきも話したけど、安渡の工場は満潮になると普段から水が入ったし、あそこは県有地だからね。県はもう貸さない方向です。だから吉里吉里の本宅、そこを加工場に改装しようと思っています。津波の影響で地盤沈下したとしても、こっちは海抜3メートル以上、3メーター近くあるからね。ゼロメートルと3メートルだったら、3メートルの方がいい。それに人の土地じゃないし、自分の土地だからいいんじゃないかなと。

資金はまだ決まっていませんけど、政策金融からもちょこっと借りたり。ちょこっとでもないなあ。返せるか、返せないかっていうくらいの額。あと、工場が浸水しているから、国の補助が4分の3になるのか、どうなるかわからないけど。それがあれば、ある程度の工場はつくれると思っている。政府の支援がどのくらいあるかによって変わるね。それがなければ、細々とでもやろうかと。

二次補正予算はあてにならないと思っているよ。あれは福島の方にみんな行くと思う。だって、あっちの方がひどいもん。考えようによったら悲惨だ。こっちには立ち直る目途っていうか、地盤があるけど、あっちは根こそぎだ。近くにも寄れねえもんなあ。

あとは、すべて税金を使用することだから、ちょっと心苦しいな。でも、それ無しでは立ち直れったって難しい。そんなに今の世の中、儲けさせる商売ってないしね。

借金の返済は、20年はかかるかなあ。それがちょっと重いな。

工事はもう始めているよ。だって待ってられないもん。ぼやぼやしてられない。鮭の定置網が10月にはできるだろうって。工場もそれに間に合わせなきゃいけない。時間は待ってくれないからさ。金はないけれども見切り発車している。

この秋のタイミングをはずすと、あとは来年の今頃まで、寝てた方がいいもんなあ。ろくな仕事ねえから。だったら止めた方がいい。どうしたって商いはしてかなきゃいけない。商売やっていれば、資金はついてくると思う。

魚が売れれば、みんな笑顔になれる

鮭の加工は、このあたりはずっと昔からさ。大槌川に上がる鮭を荒巻にして、南部藩に献上していた。だから南部藩の殿様は大槌を大切にしたわけだ。

荒巻にするのは「ぶなっけ」が多い。ブナの木って赤くなってくるでしょう。あんな感じで赤く、婚姻色が始まった鮭のことを「ぶなっけ」っていう。12月になって寒さが来ると加工する。私らは、「ぎんけ」を加工しているけどね。鮭の身体が銀に光っているのは「ぎんけ」っていうんだな。

吉里吉里は大槌川みたいな大きな川はない。だから、山からの腐葉土は湾に流れないんだな。でも湾の外から水が入って、プランクトンの入れ換わりが早いから、若布やホタテの養殖にはいいみたいだね。逆に栄養源が川から流れ出てくるようなところは、海苔やカキがいいみたいだ。

素人だからようわからんけど、津波はいいこともあると思うよ。海がひっかきまわされていいと思うな。ここのところホヤの病気が発生していたんけど、ひょっとしたら、病気まで津波で一掃されて、持ってかれたらいいなあと思うね。

吉里吉里は、いい漁場なんだけれども、魚釣っても売るところがなくてさ。で、年とってくれば足がないから、余計売れないわけさ。だから、昔、先祖は担ぎ屋をやったこともあるんだ。大槌まで魚担いでいって、売ったんだね。

吉里吉里に市場でもあれば、漁師さんが獲ったのをそのままを売るとかね。スーパーは揃った魚がいいって言うけど、市場だったら親子ぐらい違う魚が一緒に並んだり、不揃いでいいじゃないの。それをうまいネーミングを考えて。たとえば「ファミリーフィッシュ」とかねえ。規格外で面白味があれば、消費者も買うと思う。そういうものを求めているところも、今の時代、あると思うなあ。

で、復興に向けてさ。販売の方、誰か支援してくれるといいけどなあ。魚が売れれば何とか、まわっていくから。加工場も早く再開して、地元の魚も受け入れるよって間口を広げておけばね。何か地元に役立つこともあるかもしれない。

そうしたら、みんなも笑顔になれる、と思ってる。

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