遠野で生まれて
中村和夫(なかむらかずお)といいます。63歳です。昭和23年2月9日生まれです。出身は遠野なんですよ。吉里吉里ではないんですよね。うちの家内が吉里吉里出身で。
私は兄弟6人で、男兄弟5人、一番下に妹がいるんです。5番目まで男で、私は5番目なんです。私の兄弟ね、これがまたね、5人とも全部郵便局なんですよ。妹だけは郵便局入らなかったけど。よくいう郵政一家ってやつですね。もう4人は退職して、勤めてるのは私だけですけども。親父以下、息子4人全部郵便局。実家では、長男が跡継いでやって、長男の息子がまた跡継いで3代目でやってます。郵政事業でみなね、飯を食わしていただいてるので、その分地域のみなさんに恩返ししなきゃならないと思って一生懸命やってるつもりですけどもね。
奥さんとの出会い、そして吉里吉里へ
最初は東京の赤坂の局に入って、それから各地で勤めてきました。そこで、家内の父親が引退するということで、それで、跡を受け継いで吉里吉里郵便局長を約30年くらいやってるわけです。まだ、35、6歳のときかな、ここへ来たのは。実際吉里吉里で過ごしたのは、約30年くらいになりますかね。
家内の親父がここの郵便局長やってて、私の親父も遠野で郵便局長やってたんですね。親父同士が知り合いで、それで話が。お見合いっていえばお見合いだな。こういう人がいるけどどうだっていう話がね。だから、私はお婿さんなんですよ。
親父は1人ぐらいはくれてやってもいいと思って、話したんだね、親同士で。せがれくれてやっかっていうような話で(笑)。
うちの家内は娘4人の2番目なんですけど、こちらは女ばっかりの兄弟で。うちの家内は横浜の方で幼稚園の先生やってたんです。私と一緒になってからね、息子が生まれたときにね、退職したんですよ。やっぱりなかなか、子どもを預けてね、ちゃんと稼ぐっていうのは大変だったからね。
私もね、東京の方に出ていきましたから、都会の方で家を構えるのかな、と最初はそう思ってましたけど、こういうことで吉里吉里へ来ることになって、今郵便局長をしています。
子どもは、息子の娘と2人。息子は38歳くらいですね。所帯持って仙台で生活してます。やっぱり郵便局勤めてるんですよ。共稼ぎでね。
娘は33歳で、今一緒に生活してます。娘がそばにいるのは、親としては、何かというときにはやっぱり、安心かなとは思ってはいるんですけどね。やっぱり、男っていうのはあんまり頼りにならないからね。やっぱりいざっていうときは娘なんだろうね。
息子は、東京にいたときだから、私が25歳のときに生まれた計算になるかな。娘は、ちょうど今から33年前、宮城県沖地震があった6月12日、その日に生まれた娘なんですよ。津波こそ発生しなかったですけど、相当の建物の被害が出た地震でしたね。だから今度の震災なんかも、すぐ思い出して、あんときもそうだったなぁって思うんですけどね。
その時は、お産で家内はこっちへ帰してて、釜石で出産して「今日産まれたよ」って職場に電話が来て、その夕方の地震でしたからね。あれから33年経ってますからね。
孫は2人おります。3歳と7歳かな。
津波で流された郵便局舎
局舎は全壊で、建物がなくなっちゃてるんですね。ちょうど今から10年前に局舎を新しくしたところだったんですよ。それが一瞬にしてですね。
局舎は国道よりちょっと中に入った方ですけど、波が防波堤を越えちゃうと、もう一番に来てやられる、ていうとこですからね。吉里吉里でも低いとこだということで、防波堤を越えるような波が来たときは覚悟するというような感じだったですけど。まさかねぇ、こんな津波になるとは思わないから。もちろんね、周りに住宅もいっぱい建ってました。自宅だけは幸いにも残りましたので、自宅も流され、家族も失った方を考えるとね。毎日見ては、そう思うんですけどね。
退職まであと少しという、退職間際にこんな思いをするとは思わなかったですね。これから後輩に跡を継いで退職できるかなと思ってた矢先にね。非常に何とも言い難い気持ちでいっぱいですよ。
3月11日
前日、盛岡で会議がありましてね。1泊をしまして、次の朝ホテルから出て、家へ帰ったのが12時前後だったかな。午後からまた仕事をしようというつもりで、出勤したんです。
それから、1時間ちょっと後の地震でした。14時46分です。
うちの郵便局の社員は、私入れて3名なんです。今考えると、もし私がその日、局に出なかったら、社員はどうしてたんだろうと、つくづく思うんですね。普段から、避難場所は吉里吉里小学校だよ、と社員に話しております。でも、もし私が不在のときにね、これが起きてたら、果たして社員の2人がどういう判断をしたのかなぁと、ときどき思い出すんです。もちろん大きい地震だったし、長かったからね。社員2人でも、的確な判断をしてくれたとは思うんですけども、万が一判断が迷ったり、仕事のことを考えたりして、職場の中でちょっとでも躊躇していたら、社員2人を犠牲にしてしまったんじゃないかなっていう思いもありました。今回の津波は、30分ちょっとで来てますのでね。
私は33年前に、宮城県沖地震で地震の大きさは経験してますけども、それより大きい地震でしたし、揺れてる最中に局舎のなかも停電にもなりましたからね。建物の揺れ方も、半端じゃなかったです。
私は、いつも座ってる後ろのところに携帯ラジオを置いてあるんです。スイッチを入れたら、ラジオの地震情報は、震度5か6と言ったかな。それに合わせてその地震による津波が、大津波警報ということだったですね。6~7mの津波が三陸沿岸に押し寄せるというNHKの地震情報だったような気がするんです。6~7mということになると、この吉里吉里の防波堤をね、ゆうに超える大きさだっていうのは直感しましてね、しかもその押し寄せる到達時刻が早いという情報でしたね。ですから、何か物を取り出そうとか考えてる暇がないと判断しましたので、とにかく社員を助けなきゃならないという思いがありました。ちょうどそのときは幸いにもお客さんがいなかったんです。ですから、金庫とか局舎を施錠して、何も要らないから、とにかく逃げようということで、社員2人を私の車に乗せて、そして、私の自宅に逃げたんです。
私の自宅はね、割と高いとこにあるから、いくらなんでもそこまでは津波は来ないだろうという感覚でおりました。地域のみんなもその辺にね、居ましたから、そっから海を眺めてたんです。そうして、30分ちょっとぐらいで第1波の津波が来て、すごい勢いで、水があふれる状態で高くなってきて、堤防を越えるという、そうして物を押していくという、本当の津波というのを目の当たりにしてね。本当に恐ろしいという感じでしたねぇ。
あぁやっぱり早く避難してよかったんだぁって思いがありますねぇ。何も持ち出せなかったけども、社員に犠牲者を出さなかったっていうのは、良かったなって思ってるんですよね。
でも、ちょっと海を眺めてからね、社員も車通勤で、郵便局に車を置いてきたのを思い出したんですよ。それで「ちょっと車取りに行ってくるか」って、私も一度局に戻ったんですよ、社員乗せてね。そしてまた家へ戻ってきて、もう間もなくの津波でしたから。それ考えりゃね、無謀なことをした。危ないから逃げようって逃げてはみたものの、気持ちの中にはやっぱり隙がある、油断がある。たまたま間に合ったからいい。今考えると無謀な行為。何か持ち出そうかなんてまた局に入ったりなんかして、5分でも費やしてたら、やられてた。
私が最初に社員を連れて逃げるときにはね、早かったせいだか周りには誰もいなかったですね。そんなに早く津波が来るのかっていう、「まさか」という思いがね、逃げ遅れて犠牲になった方をつくったんじゃないかなぁと思いますね。また、地震と同時に停電になりましたからね、町の防災のサイレンも鳴らなかったような気がしますね。吉里吉里には消防車も2台あるんですけども、そのサイレン鳴らす音も聞こえなかったですね。だから、地域住民に大津波が押し寄せるという情報の発信ができなかったのかなぁという気がします。これは災害ですからね、不幸にも停電で鳴らなかったといえば、それはそれでやむを得ないですが、それがあれば、もっとすぐに逃げて避難をした人もかなりいたんじゃないかなっていう気がしますけどもね。
したがって、いち早い情報っていうのは、本当に重要なんだなって。今回私が今こうやっていられるのは、今までの自分の習性のお陰かなぁという風に思ってますのでね。携帯ラジオって重要なもんだなって思いましたよ。
人間っていうのはわかってても、実際そういうことが起きないとなかなか準備もしない何もしないっていうのが常です。だけども今回の教訓ていうのはやっぱり、これから生かさなきゃならない、と私は思いますね。
毎年3月3日に避難訓練っていうのもやってるんですよ。ここはチリ地震の津波も経験してるから。チリ地震の話は、聞いてきてはいますけども、結局時間が経ってるから話だけに終わっちゃってね。「まぁなに、今日は訓練だもんね」とゆうふうな意識がどうしても強くてね。「今忙しいし」なんて行かなかったりなんかするわけですよね。今思うと、やっぱり普段からの訓練とかそういったのは、大事なんだなと思いますよね。後悔先に立たずと言いますけども、やっぱりちゃんとやっとけば良かったなっていう思いがね、どうしてもするんですよね。もっと犠牲者も少なくて済んだのかなぁって。
吉里吉里への想い
よく、第二の故郷と言いますけども、私もここは永住地ですから、第二でもなくて、第一の故郷ですよね。特に、吉里吉里地域っていうのは、互助精神の強いとこです。お互いに助け合うというね。何の地域活動でもなんでも、とにかくみなさん一生懸命。団結力のある地域ですよね。そういうふうに思いますね。
例えば、大槌町にもお祭りはあるんですが、吉里吉里は吉里吉里地区だけでもやるんです。毎年8月にね、吉里吉里神社の「盆から祭り」って言って、昔は17日って決まってたんですね。今は、お盆続きで地域の人たちも忙しいという声もあって、4、5年前に日にちをずらしたんです。8月の最後の日曜日だったかな。
こういった小さな地域でもね、町名ごとに自治会がありますから。各町内会ごとに、自分たちで踊りを作って、山車を作って、そのあとに手踊りをするんです。お母さんたち子どもさんたちが、踊りを出すんですよ。だから、お盆中も踊りの練習もしなきゃならんわけ。だから、お盆中は夜になると練習するから、笛や太鼓の音がするんですよ。お母さんたちは、お盆の用意をしたりなんかして、次はお祭りの用意もしなんという、大変だっていう意見もあって。今はずらしてやってますけども。そいでもまだ前の方がいいって言ったら、それは地域のみんなでね、相談して決めることです。
ただね、なかなかね、若い人たちも少なくなっちゃってね、人を集めるのが大変なようですけどもね。正直言って、お祭りを見る人より出てる人の方が多いっていう感じでもあるんですけど。それでもね、やっぱり1年に1回のお祭りだっていうのでね、一生懸命みんなやるんです。
10月の第1日曜日に、運動会もやるんですよ。この吉里吉里地域の町名対抗の運動会。それこそ、子どもから老若男女。小学校や中学校の運動会もあるんですよ。だけども、吉里吉里地区大運動会っていうのも、毎年やってるんです。
行事としては、運動会とかお祭りですね。あとは、町内ごとの清掃活動ですね。それから、夏の時期の海岸清掃なんかも町内一斉に朝早く出てね。そして、海水浴に来る方を迎えるということですね。
昔っから、お祝い事がある、不幸なことがあるというと、地域のみんなが行って手伝って、助けあうというね。そういう精神っていうのはね、やっぱり田舎へ行けば行くほどね、そうやって助け合って生きてますから。そういう精神は海の人たちも強いです。団結力とか互助精神とか、何かやろうとしたときにみんな協力する、そういう地域だっていうことですね。
吉里吉里のまちづくり
子どもたちの教育振興運動っていうのが盛んなんですよ、この吉里吉里地域っていうのは。地域の子どもをね、育てようっていう。学校行事でも何でも、とにかくなんでも地域で支えていく。ここはそういうところですね。
親が子どもを育てるのはもちろんですけど、地域でも育てていくという気持ちです。あいさつ運動でも、子どもたちだけするんじゃなくて、地域の人たちもとにかく声をかける。我が子だけじゃなくて、よその子も常々地域で見てる。間違った方向に子どもたちが走らないようにする。そういった活動も、一生懸命取り組んでる地域です。
この震災、災害で、この吉里吉里地域がどのようになっていくのかね。高台があるから被害を受けない建物が6割ぐらいは残ってるような気がするんです。たけども下の方は全然ダメですから、その辺はどのような形になるのか。やっぱりここにもう一度住みたいって人が多いんだろうと思うんですよね。やむなく、ここを出なきゃならないって人もいるでしょうけど。そういったことを考えると、一つ寂しいですよね。だから、何としても、少しでも前の吉里吉里地域に戻るように、やっぱりみんなで力を合わせて頑張るしかないと思ってるんですよね。みんなそういう思いでいると思いますよ。少しでも早く、元の吉里吉里に、1日でも早くね、戻ってほしい、戻りたい、そんな思いですよね。
津波が来たところに居住できないとなると、そこのひとは、どこに住めばいいのか。高台と言っても山を切り崩して、どうやって平地にしていくのか。自然は自然で大事だしね。海だって自然の1つとして大事だから。人と海が共存できるようなまちづくりっていうのは、どのようにしてったらいいのか。
やっぱり漁業をやってる人にとって、海からうんと離れたところに家を構えて、海へ出てくるっていうのは違うと思うんですよ。私は漁業の経験はないから、わからないですけども。でもやっぱり、漁業する人たちは海のそばにいて漁業、農業する人たちは田んぼのあるとこにいて農業。サラリーマンのように、車で通って漁業する、農業するっていうのでは…ね。農業とか漁業とかがやっていけるようなまちづくりっていうのは、当然やらないと。みんな若い人たちが町の方へ出て行って、サラリーマンでいいっていうわけにはいかないですもんね。農業は農業、漁業は漁業で大事だし、残してかなきゃならないっていうね。それでもって私たちが生活できてる部分もあるわけだし。
今回の震災は、無駄にしちゃいけないと思いますね。これだけの犠牲者を出したわけですから。これから、50年後100年後に向かって、同じような災害を繰り返さないように、孫たちが安心して暮らせるような日本になっててほしいなと思いますね。
震災をとおして伝えたいこと
ほんとにしみじみ思うのは、警察にしろ、自衛隊にしろ、それからまたボランティアの人には、ほんとに頭の下がる思いです。いつも見てすごいもんだなと、やっぱりみんなの力って大きいんだなと、そう思います。来て一生懸命やっていただいてる姿見ると、ただただ、感謝の気持ちでいっぱいですね。なかなか、やれるようで、できるもんじゃないと思うんですけどね。特にボランティアのみなさんなんか、一生懸命作業してる姿見るとね、感謝でいっぱいですよ。私も、郵便局のなくなったところのね、ボランティアの人にね、2日程手伝っていただいて、がれきの撤去だとかやっていただきました。跡地から見つけてもらったものもあったりしてね。ほんとに、あの人たちの一生懸命さっていうのは、私は一生忘れないですね。有り難いもんだな、と思いますよね。だから、自分でおんなじことやれっつっても、なかなかできないなと思います。
時間が経過すると、「震災は忘れた頃にやってくる」って良く言うけど、風化させないで伝えてってもらいたいと思います。もちろん1年や2年では風化しないでしょうけども。やはり、20年経とうと30年経とうと、100年経とうと風化させないで、同じような災害が起きたときに、一人でも犠牲者を出さないように。二度と同じような思いをする人がないようにね。一人ひとりがほんとに真剣になって考えていかなきゃならないんじゃないかなってつくづく思いましたね。国がやらなきゃなんない、政治がやらなきゃなんないし、地域がやらなきゃなんない、自治体がやらなきゃなんないってとこもあるでしょうけども、最終的には、一人ひとりですね。日本に住んでる人、一人ひとりがやらなきゃ。頼るんじゃなくて、一人ひとりが力を出してかなきゃならない、と思いますね。
それが、不幸にして犠牲になった、亡くなった方たちが、それこそ一番望んでることじゃないでしょうかね。いまだに、遺体も上がらないって方も多数いますからね。そういう人たちのためにも、今残ったひとたちがね、これからのまちづくり、社会づくり、日本っていう国づくりを、頑張っていかなきゃと思いますね。