1年中漁に出ていた。楽しかったよ

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元のところに家建てたいから早く線引いてほしいんだ。俺、年だからよ、このごろ待ってられねんだ。
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Tokyo Foudation
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39.3698337, 141.9411843
Location(text)
岩手県大槌町吉里吉里地区
Latitude
39.3698337
Longitude
141.9411843
Location
39.3698337,141.9411843
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Interviewee: 笹谷健悦さん, Interviewer: 森山紗也子
Language
Japanese
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Japanese Title
1年中漁に出ていた。楽しかったよ
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小学校出てからずっと漁師

名前は笹谷健悦(ささやけんえつ)。昭和15年の3月25日生まれ。今71歳。前の津波(昭和8年)のときは生まれてない。チリのときもいなかった。船さ乗ってたから。津波でやめたけど、小学校終わってからずっと漁師。中学校も半分行きつつ半分はイカ釣りしてた。

太平洋戦争で亡くなってるからお父さんの顔は分かんねが、漁師だった。自然にここで育って親戚の船に乗って自分も習った。中学校終わってからはマグロ船だの、サケマス船だの、昭和40年くらいまで1年中ずっと船に乗ってたね。

だいたいうちの船は一航海40日くらいだな。ハワイ沖行って50日。魚は東京築地でおろす。仲買でおっきいとこは大東水産、東京水産ってあって、俺は大東水産だった。船によって違う。

マグロ船は11月の末から4月までだ。あとはサケマス、北洋。北洋ってのは船団で、母船をつけていくんだ。母船1艘に独航船が35、6艙ついていく。俺の独航船は85トンから82、3トンの船だ。普通20人くらいが乗る。その船団がいっぱいあるんだよ。大きい会社のマルハとニチロ直営で。俺はマルハの子会社の函館水産だった。大東水産に所属するのはマグロ漁んとき。漁によって所属する会社が違うんだ。でも、同じ船で、サケマスでしょ、サンマ漁でしょ、あとマグロ漁も行く。1年のうちに3つ商売すんの。5月十何日から北洋船。それは7月中ころまで。11月のマグロ漁までの間、サンマ漁するの。9月の20幾日に解禁になって。サンマ船も小型船、中型船いろいろあっけど、俺は大型船にこだわった。乗組員は、どの漁でもほとんど変わんねえな。サンマんときは22、3人くらいか。サンマはほれ、昔は機械使わず手でやんねだから、人が必要だった。今は機械だからね。それでも今80人くらい乗っている。

サンマが寄れば網やって、それですくって上げる。底引き網のようなサンマ棒受網(ぼうじゅあみ)で獲る。海でのことだから、吉里吉里の人だってあんまり見たことない。

津波んとき

津波んときは俺トラック運転してたけど、走れなかった。それから倉庫さ行って犬連れてきて、それからうちさ帰って来て、車さ置いてさ、それから上にある小学校さ、かあちゃんと行った。いっつも訓練でうちのかあちゃんが行ってんだ。リュックさしょって。

このごろ余震があるけど、今はもう流されるもんはなんにもない。50年貯めたもん、5分で持ってかれた。わっときてわっと持ってった。船3杯、車3つ流された。みんな流された。

仮設には一番先に入った。吉里吉里中学校の校庭にある。1ヶ月ちょっとかな。元の家は2丁目、神社の通り。あれは昭和8年ですねん、生まれてなかったけど前の家は海岸に立っていた。それで昭和8年の津波で今の2丁目を調整しだんだ。津波がこねえっていう調整。もともとの海岸の家は今回の津波で海の中。地盤沈下で40センチくらい下がったから。防波堤の高さ見るとそうだもんね。あれは、何年に作ったんだかな。元のところに家建てたいから早く線引いてほしいんだ。俺、年だからよ、このごろ待ってられねんだ。俺はほんとはすぐ、建ててんだ。決まればね。なんだか県でも大槌町でもはっきりしない。俺それ一番言ってんだ。今度は小さい家建てる。

かあちゃんは67か。4つ違い。子どもは嫁さんに行った人もあるし、今1人だけ家にいる。女の子ばっかし。おっきいの1人はこの津波でさ、盛岡に移った。あと2番目は東京にいる。一番下はうちにいたった。うちから薬剤師として吉里吉里の薬屋にいたったのさ。店は津波に流されたけど娘は大丈夫。今年花嫁に行くか、来年行くか。さびしくはないがな、かかと2人っこで。

チリ津波んとき

35年のチリ津波んときは、仕事で函館から出た朝だった。そんときは木の船だった。夜がこうすらすらと明けて。襟裳岬とか潮が早いからいっつも波立ってるのよ。それだがなあって思ったのさ。そんときは19歳で初めて北洋船乗ったばっかで、まだあんまり経験ないからな。俺は船のわちとってた(運転してた)ら船でやけに揺れあったの。そうしたら朝食のときに局長から、おい津波あったぞって。ああそうか、さっきのがそうかって。

19から始めた北洋漁業

中学校からイカ釣りやって、16歳で中学校終わってからは小型のマグロ船、サケマス船に乗った。北洋船は行ったら帰ってこないが、小型船は三昼夜くらい漁に行って戻ってきて、それを20日くらいやる。北洋はお母さん(母船)が着いてくるから、母船が何でも処理する。缶詰作ったり。そのうち中継ぎ船が陸(おか)行っては食料とかいっぱい持ってきて。母船に1週間にほれ、1回くらい野菜だとか水だとかそういうの持って来る。その中継ぎを母船がして、母船から独航船に配給になんだ。母船で缶詰作りの作業する人も乗っている。何百人も乗っている。9,800トンの船だったね。

独航船は北洋の船団ではなくて、その船持ってる個人の会社があって、その所属なんですよ。漁あるときはその船がマルハさ組みこまれて行くのさ。俺がいたのは「山かの水産」っていう会社。家紋がマークの大きくはねえ、ちっちゃな会社だ。でもそこの伯父は総理大臣になった鈴木善行で、金はあった。だから東京行くとすごいサービスだったんだ。大東水産行っても顔が利いた。そこも船3杯持ってた。1杯に20人ずつくらい。

北洋の漁法

漁は流す。船の後ろから網を流す。北洋の網はね、細長くて1反は60間(かん)。これを500反つなげて流すのさ。これを流すと魚がかかる。俺たちが北洋のときは500反を1艘で流す。低速さ。100反くらいでとめてさ、ブイつけて離す。統合すっと2時間くらい流す。揚げるときは8時間。機械で引っ張る。はずすのは手で。で母船さつけてまた持って行く。網流すのに2時間。終わんのは夕方。夜の10時ころから揚げ始める。明け方に揚げ終わって母船さ向かう。母船さ行くたって、5時間も6時間も走らせるときある。その間寝てんのさ。北洋はそんなにつらくないよ。魚さ、はずせば細工すんのは俺たちでねんだから。ただ獲れば1トンくらいずつの箱を母船に上げてもらうだけだから。陸上にいることのほうが少ない。揺れてる方が寝れるんだよ。

北洋の網は大事だよ。すごいもんだ。網の重さもすごい。そのあと乗った根室の中部船ときは1,200反積んでた。手入れは、やんね。網が裂けたらこうつながってるでしょ。避けた網だけ別の網をつないで。

全国から集まる北洋船のクルー

船に乗る仲間は全国から集まる。一番遠いやつは石川県だった。俺は最後乗ったの根室の船だったから。根室のときは石川から来るの、汽車で。富山は6、7人だかな。三陸から2人。全国からよんのさ。どこで金とれっか。北海道の根室なんか全国から人が集まってくる。根室に船持ってる人はほとんどが富山県人だよ。ひとつの船に乗る人は出身はばらばらさ。岩手県から最高のときは4人、宮城県から2人。富山石川、山形の飛島からも。その船乗せてくれねえかって言ってるの。船頭によって獲れる量が違うんだ。金取れんのは船頭しだい。

地元にはあんまりいなかった。中学校終わって1年だな。奥さんもらってから2年だな。山形からもらってきたもんだから、結婚してから慣れるまで2年はこの辺にいて。イカ釣りしてた。後はここのマグロ船さ乗って。サケマスの盛んなときは独航船で行って。マグロも行って、サンマも行ってっていう船がいっぱい全国にあったんだ。サケマスのときは独航船が四国からも来てたんだよ。四国の香川。あと大阪の堺。昭和40数年までいたんじゃないかな。それから減ってきた。ソ連が滅びた。サケマスはソ連の領土線だ。35年から決まってしまった。ラインが引かさったのさ。ソ連の領土通ってくるから値段も上がって。それで母船船団が減っていったんだ。かつては16船団あったったんだ。北洋船がみんな函館集結すんだ。函館の町もにぎわってた。4月の末から集まる。母船が集まり、独航船が400も500も集まるからにぎやかだ。船が函館港出るときすごいんだ。

養殖やり始めたきっかけ

北洋船に11年乗って、そのあとは函館や根室で中部船に乗った。中部船は母船がつかずに独航船だけで行く船。釜石の船6年、釧路の船4年、そのあと根室の船だ。その後養殖に移った。親が年とったからね。

うちの父ちゃんが早く亡くなったから、その弟と母さんが一緒になった。義理の父は養殖をやっていた。だから養殖もやりやすくてやったのさ。新たに道具買って商売してたら大変だよ。今だって、新たに始める人はなかなかないよ。場所も養殖の道具も買わなくてすむ。百姓なら機械買うのと一緒で、漁業も今は機械で働く時代だもん。昔みたいに力でやる時代じゃないんだ。親がワカメやホタテの場所持ってるとやりやすくなるよ。勝手にやれねんだもん。県の組合が管理してんだ。ワカメやホタテ、ホヤ組合、あとはカキ組合も。そういうのが全部枠持ってんだ。1人でほら、7台持つっていったら200メートル7台を組合が持たせるさ。勝手に持たれねえ。

小学校出てから自然に漁師になったよ

親父は漁師でうちの船でやってたらしいね、昭和8年まで。私は長男1人っ子。義理の妹が2人。

小学校出てすぐイカ釣りしてたよ。湾からちょいと行ったところで、夕方3時か4時から。で、朝に帰ってきて。で、学校で寝てんの。先生もそれ認めて。20人くらい乗っけて、一本釣り。集魚灯つけてね。その船に乗ってたのは親戚。まだおれあ子供だもの。12、3歳で。楽しかったね。

同級生の話

同級生は半分以上漁師。みんな遠洋で出払ってた。成人式のときもいなかった。かあちゃんとはお見合いみたいなもんだ。知り合うときは簡単に知り合うもんだ。かあちゃんは家の家事とかあとは手伝いだ。親父と母さんは一緒に生活してた。今母さんは仮設の老人ホームにいる。

50歳まで船さ乗ったね。楽しかったね。海は好きだね。小学校のころは海で遊んだ。泳ぎ得意だよ。もぐって。アワビだの何だの採って食べた。山さも海さも行った。海さ行くときはね、どっかの家の芋さかっぱらって持っていって、食ったもんだ。そんな悪いいたずらしたもん。

漁師の家もあればサラリーマンの家もあった。ここは釜石製鉄があったから、半分くらいそこに勤めに行ってたんじゃないかな。俺の同級生には分かってる範囲でサラリーマンは2人だ。あとみんな漁師さんだ。女の人はみんなよそに嫁いでしまった。ほら男がいないんだもん。ここで結婚しない。まあ、いろいろなことしたね。船では晩酌程度に酒も飲んだし、陸に上がればどこでも飲むと。

お祭りのときもそんなにいなかった。つい最近、帰ってきたら神社の役ついてさ。お祭りも見られねんだ。お祭りの進行だとか何でもする。あとは船も船頭会とか、浅海業とか。いっぱいあるのさ。船頭会の長もやって、浅海業のグループの長もだ。浅い海でアワビとか採る、ここで一番大きいグループなんだ。浅海業はアワビの会期が始まると集まる。

今から10年くらい前までは、ここはマグロ船員がたくさんいたんだ。神奈川県三崎に、だいぶここから行ったんだ。1年とか2年とかね。三崎へは汽車で行って帰ってくる。ここ(避難所となっていた体育館)に学校の門があったったんだね。あれ三崎でマグロ船さ乗ってた人の寄付なんだ。今80歳の人も行った。あっちに住み着いた人もいる。その時代で60人くらい行ってた。俺の代はかなりの数行ってた。

浅海業は最近増えたな。サラリーマンやめて、あとはほら、船やめてから組合員になっとか。遠洋漁業者同士の会はない。今の若い人はみんな貨物船さ。タンカー船とか貨物船とか、日本の中を行き来している。けっこう若い人たちが行っているよ。20代30代は何人も残ってないね。

昔は家にいなかったから、今は孫に尽くしてる

漁に出ている間、かあちゃんは留守番と子育て。1年間ほとんどいないね。40年くらいまではほとんどいねえと同じだな。根室で3月までいっから。若いときはマグロ、サンマ、北洋船の3種類乗って。40歳からは北洋船一本。北洋っていったって3ヶ月だけだ。4月から北洋でしょ、次がサンマ、マグロで1年だっぺ。マグロから北洋さいくとき4日だ5日だ家にいないときもあったよ。帰ってすぐに行ったときもある。子供への愛情はなかったな。だから今孫に尽くしてん。地震後、うちの下にいた孫が盛岡に転出したからこっちから行く。孫は2人。男の子。どっちも野球部入ってっから忙しい。見に行くよ。県大会とかしょっちゅうある。大きいのは高校2年生。今中学校1年生も盛岡で野球やってからぜんぜん来ない。こっちが行く。盛岡までは遠野通って2時間かかる。トラックは買ってもらって。乗用車は秋田からもらってきた。

帰ってきて一番先にやらされた役が、ワカメ養殖の書記。書けねえの。辞書とにらめっこで。カタカナで難しいから漢字入れて。ああ緊張した。そのあとなんでもやった。会計からなんでも。祭りの役員や。

かか(妻)とやる養殖

昔はね、私のうちでは養殖でつくっていたのはワカメ、ホタテ、あとはホヤ。赤くて丸いボコボコのやつ。

ワカメは200メーターのきだ(ロープ)8本持っていた。種はメカブをどろどろにした中に「のり」という網を入れて菌を刺さらせてつくったの。それが細い綱なんだよね。それを1本ずつとって、径が24ミリから25ミリのロープに巻くのよ。種をまくわけだ。それを海に入れて40日間養成させて、あげて雑草をきれいに掃除して、また養成させて。それを船に乗って鎌で刈っていくのさ。稲刈りするみたいに。稲刈る鎌で刈るんだもん。ワカメは3月の早い人は15日から、4月の中ころまで。1ヶ月が勝負だよ。種をまくのは10月末から11月。人によって。能力のある人だと1千万円取る人だっている。水揚げする人は必要だから人件費は高い。女の人が手伝ったり。ワカメ割くところは、手だから人件費かかんのよ。俺はかかと2人だから食べてからあね。

俺は3時半に出て採りにいく。場所は勘でだいたい分かる。漁師の勘はすごいんだ。目印もつけておくし。俺とうちのかあちゃんと、あと手伝いの人3人で。今はかあちゃんが身体を悪くしてしまったから手伝いの人と。

ワカメとホタテ、ホヤの3つ、やってんだ

今は人が少ないから、ワカメとホタテ、カキはみんなやるすて。

ここのホタテは日本一高いんだよ。2年から3年かかって大きくなる。ここで種も養殖して採るんだ。始まりはなんていうかな、たまねぎの袋あるでしょ、あんな網にいれる。今ころ(7月初旬)から種入れんだよ。種は海さみんな泳いでんだよ。それが網さ付着して、だんだん親指大になってから採るんだよ。お盆過ぎから採れば親指大になってんだよ。それまた杯で測って入れる。それに30くらい入る。大きくなったら、今度は元気のいいのを12、3個ずつ入れる。小さくても水槽の中とび歩くんだよ。今度大きくなったら耳釣りする。ホタテの角ばってる部分に穴あける。そこにテグス通してぶら下げんの。2つに分けて吊るすんだよ。手間かかんだ。ぶら下げているうちに大きくなる。深さによって違うけど、浅いところで80個、深いところでは110個ぶら下げんの。

ホヤはね4月の末から、今の時期が一番盛んなんです。ここのホヤは韓国にやる。刺身からキムチ漬けから、日本より消費量多い。それ専用のトラックが来て車で積んでいって、船でそのまま行く。だから1週間に1回水揚げする。日本では4年もののホヤ食べんの。韓国は3年もの。実がきれいだしね。ホヤは3年が一番おいしい。手入れしながら3年間育てる。畑と同じでさ、たまにあげて雑草取ったりさ。やっぱり綱に絡むから。海のパイナップルってよく言うでしょ。10センチくらいのやつがバナナみたいにいっぱいくっついてくの。10個の房がいっぱいくっついて、一本の綱で最高220キロくらいになったの。俺は150メーターのきだを2本持ってた。150メーターのきだに綱にいっぱいつけて、それを海に吊り下げて。五代(いつしろ)くらいはただロープをたらす。一代(ひとしろ)1メートル半だ。浅いと日光があたって雑草がついてしまうから。その下から種つけるの。1本のロープに110本くらい綱つけて、綱1本には12、3個種つける。人によって差があるけど。養殖は岸壁のすぐそこ。沖の岸壁のそば。3年間吊るせば大きくなる。だいたい10トンくらいあげる。最高あげたときは21トンあげた。

どっちにしろやめようと思っていたんだ

ワカメの養殖は今年の4月でやめた。津波が来なくてもやめる気だったの。年だもん。船員さんには特殊な保険があんだよ、マグロ船でもなんでも。それが特殊なのあるために、かかと2人なら食べんね。今でも2人で暮らしていくには十分。

ここも今年やるって言ってる人が1人2人いる。この湾で養殖やってる人30人くらいか。ホヤも30人くらい。ホタテは20人くらいだ。いろんな種類やってる。30人いても、1人で3つも4つもやってる人多いから、養殖やってる人はそんなに多くない。海に出る人、アワビ採る人。浅海業漁師が180人くらいいる。アワビとウニ採る人は100人。

今は岸壁で釣りして。あとは山さ行って。歩く。山さいくと足が強くなる。土ふむからいい。でも、これから退屈で何して1日暮らすかって心配だ。さあ、これから何して暮らすか。

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