漁師にとって海っちゅうのは、本当に生活の一つなの。
岩手県の大槌町吉里吉里で生まれて、水産学校を卒業した後に遠漁業をやるために300tの大型イカ釣り船の船長をしてたんです。その後に、観光船「リアス丸」と民宿の屋根にのった「はまゆり」の初代船長をやってたの。
俺が子どもの頃はね、海がそばなもんで、夏休みになれば、家で赤フン(赤ふんどし)履いて、ざるを持って、アワビ、ウニ、あとタコだの、ナマコだのをよく採りに行ってたんです。あの頃は、いっぱい採れだったの。
今、瓦礫が積まれてる堤防のところ、あそこが全部砂浜だったんです。磯場がいっぱいあって、もう好きなぐらい採ってくる、それが俺の夏休みなの。そして俺、ウニを何度もざるにいっぱい採ってくるの。卵っていうのかな、鶏の卵みたいな黄身を煮れば白くなんのね、あれのトロッとしたやつがね、オレンジっぽい実の回りに付くんです。焼いたり煮たりして、火を通せば大丈夫なんだけど、生で食べると腹壊すからね。だからね、うちに帰ってくればおふくろなんかに「なんでこのクソ暑いのに」ってよく怒られてたんです。
それをもうはぁ、毎年中学校から高校生の時まで繰り返してやってたんです。だから、夏休みなんか旅行だなんてなかったの。そういう時代を過ごしてきたんですよ。うちらは高校生も船に乗るっていう、小さい時からそういう考えでやってたもんで、宮古の水産学校にいって漁の勉強をして、そして今こういうふうに漁師をやってんだば。漁師にとって海っちゅうのは、本当に生活の一つなの。
遠洋漁業から観光船の船長へ
水産学校を卒業してからは、10人くらいでニュージーランドの方に行ったりする300tの大型イカ釣り船の船長の仕事をやったんだけど、漁をするのに片道3週間も4週間もかかってさ。29歳になって、嫁さんもらう年頃やったんだけど、俺の今の母ちゃんが出した結婚の条件がさ、「漁師は嫌、長男はだめ、何カ月も外国に行くのもだめ」って言うんです。その3つがね、もういっさいだめよ、全然当てはまんないの、ハズレなの全部。ここで俺、嫁さんもらわないば、もうだんだん歳もとってくっしさ、もう外地に行けば、7カ月8カ月いなくなるからさ。そうするとまた1つ歳とってしまうから、今これがチャンスだと思って、だから俺が、条件付けたの、「外国に行くのはやめっから、漁師も辞めっから」って。ということは、船に乗るんだども、釜石の方でタグボートだな、おっきな船を押したり引っ張ったりする船があんです。それの船長をやろうかなと思ってね。それで29歳で結婚する条件として、2つ決めて。あとは、長男はどうにもならないの。そうしたら、母ちゃんが「1つでも2つでもクリアすればいい」っつうことになったの。それで親戚に仕事を紹介してもらったのよ。 そしたら、たまたま観光船の船長さんだったの。今から3年前までね。観光船「はまゆり」の前に「リアス丸」っていう観光船が釜石にあったから、そういう所に紹介してもらったんです。だから、その「リアス丸」も、津波で民宿の屋根に上がった「はまゆり」も、俺が初代の船長をしてたんです。それで25年も勤めて、ちょうど3年前に60歳になったから定年したんですけども、今思えばあの船も懐かしい船なんです。だけど、津波でこういう風になったのは仕方ないなと。
観光船「はまゆり」の解体
観光船の「はまゆり」は、屋根から下ろされて解体されました。俺が現役の時はね、この船のこと一切やってたから、だから釜石市役所から「どうしたらいいかな」って家に電話があったの。だけど、俺仕事辞めた人間だから、「後任の船長に聞いて判断した方が良い」って言ってたんだけど、俺が仕事辞めたぐらいから観光船に乗る客が減少してるってのを聞いとったからね、だから「壊すなら壊した方がいい」って言って、壊すことになったんです。
今回の震災ですごい報道されたんで、いい影響と、悪い影響とがあると思って、それを考えて解体ってことにしたのかなって俺は思うんです。住んでいる人からすると、悪いことの方が多い。「はまゆり」を見れば、忘れたくても忘れられない、見る度に津波の事を思い出す。それでもう、見せない方が、なくした方が良いんじゃないかということになったようです。だけど、本当は「はまゆり」を壊さない方に賛成しっとった人もいたの。「こういう時に、こういう津波が来た」って、それを残しておきたいって人がいたの。だけども、維持費、管理費の事を考えていったらね、莫大な金額がいるんだよ。自分たちの一生もずうっと残すって思ったらさ、建物作って中さ入れておいてさ。だから結局、壊して、思い出はいっぱいあんだけど、だども、その思い出だけ考えたったってね、どうにもなんないからさ。
地震後、急いで釜石から吉里吉里へ
3年前に船を降りてからは、釜石港に外人の船が出入りするからそれの監視、門番っていうんだども、津波が来るまではその仕事をしとったの。津波の日は、俺が昼番でね。たまたま俺4時の交代だったから、そろそろ交代の時間で、その時に地震が起きてさ。これが海の男の勘でさ、「こりゃ完全に津波が来る、絶対に来る。とりあえず帰んなくちゃ、家に帰んなくちゃ」って。それだけが頭に浮かんで、車に乗って釜石から吉里吉里までそのまま飛ばして帰ったんです。皆ね、不思議がってんのよ。釜石から吉里吉里まで普通に車で走っても30分かかんの。それをどう走ったんだか、第1波が来る前に、吉里吉里に着いたの。すごいパニックだったのさ。道路も停電だったし、電話も携帯も通じない。もう、はぁ何が何だかさっぱりわかんない。だけども、家に着くっていう頭だけあったの。すごい津波で大槌の両石って部落が全滅なわけ、残った家2軒か3軒かでさ。そこの町中を走ってきたんだ。だからもう俺、母ちゃんと全然連絡とれなかったから、俺はもう津波に流されたと思った。
俺さ車で急いで吉里吉里へ帰ってきた時、母ちゃんは小学校に避難してたの。でもうね、2波か3波が上がってきそうだったのよ。そして、まだ子どもたちが小学校にいっぱいいてね。「もうだめだだめだ、ここでだめになるから、お寺の方に避難せい」って、お寺の方に皆で上げてよ。お寺は避難場所になってっからさ、一番安心するところだから。でも、そこにまで津波上がってくると。「皆、上がれ上がれ、線路の方に上がれ上がれ」って、みんな騒いで。
飼い犬を救う
1波と2波が早かった。1波目の引き波がいくらもなくて、2波目が来たの。その時に俺、ヨークシャテリアって犬飼ってんだけど、母ちゃんに聞いたら、家さ置いてきたって。隣の家でも兄弟の犬を飼ってんだけど、そっちでも置いてきたってさ。津波で家ごと玄関の窓がガラガラと壊れていった時さ、犬もダメだなと思って。小学校から騒ぎが聞こえる距離だったからさ、すぐグランドの下だったの。ワンワンともなんとも声がねぇのさ。おれの母ちゃんも俺の手をつかんでさ。俺はね、いつもそうなんだけど、なんでも助けっとっといえばさ、人の手振り切ってまで行く人間だと思ってっからね、行くと思われんのさ。だから俺を抑えてあったの。「ええ、いいか、犬1匹ぐれぇ死んだったってしかたにゃあ、あきらめた」って油断させてさ、母ちゃんが手を離した隙に助けに行ったの。で、避難している人に、皆に騒がれてさ、「犬大事なのかぁー、自分の命大事なのかぁー」って。
家さ入って行ったけどね、そしたらば尻尾振ってさ、ちょこちょこって動いたったのさ、たまげたんだっぺがね。そして犬の首を押さえて抱いて、小学校に走って上がっていったの。そうしたけど、隣の家にも犬を置いてきたって言んだったから、また下がっていってさ、自分ながら犬3匹助けて英雄気取りさね。でも、みんなに怒られた。「なぜ助けた」って。
そして、2波が終わってっからかな、3波に少し時間があったんですよね。俺も終わってからね、自分ながらね、後悔してたの。ちょっとの違いでさ、あれで皆命落とすんだってさ。「俺、携帯忘れた」とか、「長靴履いてなかった」とかさ、そういう人たちが家さ行ってやられてたから。だから、助けたつもりが、皆に今度は怒られてさ。
小白浜にいる娘に会いに
津波が来た後にうちの母ちゃんがさ、小白浜(岩手県釜石市唐丹町小白浜)にいる娘を心配してパニックになってしまって。「行って見てこよう」って言ったんだけど、行く道路も全部だめ。それでね、考えた結果、この金沢(大槌町金沢地区)の方から車で山を越えて遠野に出て、遠野から回ってきて釜石に入って、そこから道路がだめだったから三陸鉄道の線路を歩いていったの。7時間半かかって小白浜まで歩いて行ったよ、娘に会いたいために。
小白浜の人たちは、避難する場所が上の方にあったんですよ。なんか、常に使っている集会所みたいなところがあってね、そこにみんな避難してて、娘は大丈夫だった。安心してそのまま帰ろうかと思ったら、あっちのお父さんお母さんに、「いいから泊まって朝帰れ」って。泥棒が激しかったから、家の方も心配でさ。半壊の家なんか荒されてたの。もうすごかったんだよ、津波で残った家の2階なんかね。津波のあとすぐさ。13日14日らへんから泥棒が流行ってたんだか、そういう話があってね。みんな持っていかれてた。それのせいで、地元の人たちが自分たちの家に戻るのが躊躇されたって、自分も間違えられるんじゃないかってさ。
早く海の仕事をしたい
吉里吉里は、身元の分かった人のためにお寺で合同慰霊祭をやったんです。49日、100日の時、津波の時間帯にサイレンが鳴って、皆海の方向いて黙祷して。いろいろなことあったな、この津波な。
だども、本当に悔しいとか、心配とか、そういう気持ちは1つもなかったな。俺はね、天罰だと思ってんの。今の人間がさ、苦労っつうのを知らない、食べ物でも何でもさ、好きなことやってさ。そういうのをね、神様が見ててね、天罰下すんだと思ってんの。ちょっと苦労を味あわせようと思って。あんまりだどもさ、あんまり苦労が多すぎて、俺はあきらめてんの。だからちょっとこの世界に地獄を味あわせたっつうわけで、天罰下すんだね。そう思って、あきらめんの。恨んだってなんだって、しょうがないもん。まあ、金だけで住む問題でねぇからさ。金があったからどうのこうのとかじゃなく、俺は早く海の仕事をしたいんです。
瓦礫の撤去作業が生むモノ
今、漁業者が瓦礫作業だのをやってんだけど、これの良いところは、作業する事で人も集まれるし、お金ももらえるし、会話も生まれる。人との会話は大事だよ、情報も入るしね。瓦礫の掃除には、100人の人間が集まったの。津波で大変だったとかさ、あの人が死んだとか、そういう情報も入るの。だから、ただごろごろしてるより、そういう他人に住む所与えて、毎日作業で人が集まる場所に来て、情報を得るわけさ。それを今度は違う集まりさ行って、皆に報告するのさ。撤去の作業に出るっつうのは、結構そういう情報のためでもあるし、あとは人間的にも精神的にもいいの。俺もこの通り被災したからさ、悲しいことも泣く時にさ、笑わせんの。「そういう時が明日も来る、毎日続く。」そうすると人の中にさ、溶け込んでいくのさ。
たまたま今日休みなんだけど、最近は海のすぐ側に漁業者とかが皆集まって養殖棚だの浮き玉だのを取ったり、瓦礫の掃除をしてるんです。養殖で使ってたロープは、出来る限り長いのはとっておいて、使い物にならないのは50cmに切って焼却してるんです。吉里吉里の方はほとんど終わったから、今は隣町の安渡(あんど)の方に行ってるんです。吉里吉里の養殖棚も津波で安渡の方に流されてるからさ。津波が来る前は、吉里吉里の湾内には海いっぱいに養殖棚があったんだけど、本当に全滅なの。だから、漁業者にとってあれを全部新たにするっつうのは、歳をとったりすると無理になるの。だから、今残ってる30・40代の若手10人でこれからやらなければないのさ。60歳過ぎてやね、収穫までに3年か5年がかかるからさ、歳だけじゃなくて、体力的にも若手についていけねぇの、この仕事は。
海への想い
私らの思い出っちゅうのは、海だけだね。関係があるのは、一切海だけ。だけど、このような津波があっても、海を憎らしいとか、そういうのは一切もたないの。今まで世話になってきたんだもん、海に。この漁をして、海から収入を得て、何十年も生活してるもんだから、一日やそこらの津波で、恨む気にもならねぇの。たまたま、神様のなんかでさ、こうなったと思って、あきらめてんの。これからも、また海の生活がはじまるんで、どうしても海がなければ生きていけないの。だから、あまりその恨むっつうことはしません。でも、心の中でね、「なんで皆泣かせるような真似したのかな」ってね、朝に海を見て1人で言ってんの。