自己紹介
名前は芳賀(はが)キエと言います。昭和12年6月25日生まれ、74歳です。ここ吉里吉里に来てから50年になるけど、今まで養殖漁業やってたの。下閉伊の山田町豊間根っていう所の生まれ。小学校から結婚するまで、そこにいました。実家の方は農業でした。だから、8歳の時、戦争になったんだけど、食べ物に不自由って思ったことがなかったのね。今回のこっちの方が大変だよな。
避難所では、はじめの3日くらいは、子どものこぶしくらいのおにぎり1個。1個ずつ。あとはパンとか。ほら、何も入ってこないし、避難所さもね、やっぱり。5日か1週間くらい経ったら、物資が届いてっからは、普通にご飯が食べられるようになった。婦人会のお母さんたちが、ご飯支度してっけて、普通のご飯と味噌汁と食べた。その時は嬉しかったね。涙が出てきましたよ。
仕事と家族
父さん(夫)は、船さ乗ってだったの。大きいタンカー船に。父さんの兄さんがね、ワカメとホタテの養殖をやってたの。だけど、体が弱かったっていうのもあるし、軌道にも乗らなくて。父さんが60歳ちょっと前くらいの時に船乗りを辞めて、養殖の後を継ぐことにしたの。それから一生懸命、私とお父さんの2人で養殖を手伝って。その後、このお兄さん夫婦が病気で、1年の間に2人とも亡くなったのね。だから、夫の家族みんなの面倒を私たちが見ることになったの。で、一生懸命、私たち夫婦が養殖の仕事を軌道に乗らせて、うちも建てて。いくらか生活も楽になったなぁ、てた時、これが来たのね。3月11日。みんな、父さんも、おばちゃん(夫の姉)も亡くなって…。おばちゃんは私たちの家に避難してきてて、父さんと一緒にいて津波にさらわれた。お父さんは77歳だったの。その時まで元気に仕事してた。
父さんは、タンカー船の頃は、サモアってところにも行ったっけね。そして、この辺だと、北海道の釧路。船が入る所に私も行ってきたの。サモアまでは行けなかったけども、北海道にも2回行って、1人で歩いたの。あと四国のね、小豆島つう所にも行ってきた。小豆島行って、金毘羅さまお参りして。船がここの港に入るよっていえば、私は汽車で行って。で、石巻にも行ったし、浜松町、東京の築地さも行った。父さんと一緒になったのは、それがいいかなと思って。年に2回くらいかな、休暇があってきて、船がどこそれに入って、何日くらい泊まるよって言えば、私がこっちから出ていって、合流したの。だから、そうやってきて、これから一緒に楽していきましょうと思った時に津波が来た。
ばあちゃん(夫の母親)は90歳ぐらいまでは元気だったの。96歳で亡くなるまでは、ばあちゃんの世話をしながら、一生懸命、養殖の手伝いをしたの。ワカメ、ホタテの養殖を。ワカメだと、ワカメを茹でて、塩蔵しながら、タンクさ詰めたりしてた。男と一緒にやったんだべ。いっつも弁当持って、父さんと毎日仕事してやったの。津波で流れる前はね。この年になるまで、車も運転して。車も2台流されたから。
私は、津波になって、がっちり痩せて。6キロ体重が減って。今まで力仕事して、年に合わないくらい健康で頑張って働いとったからね。船も、2艘あって、ウニを採ったり、アワビ採ったりする小漁(こりょう)用の小さい船と、塩ワカメ採りに行って収穫すっ時の船ね。ここの倉庫も船も全部流された。
娘たちと震災
子どもらは、娘が2人あっけど。今は妹の方と一緒に暮らしてるけど、妹の方は、大槌町の保育園の保母さんやってんの。大ヶ口(おがぐち)保育園っていう所。姉ちゃんの方は釜石で働いていて、吉里吉里町内に住んでいたったのね。その娘のお家も流れたの。姉ちゃんの子どもは、小学校3年生になんの。津波が来た時、その小学校3年生の孫を学校に迎えに来たんで、私が助かったの。地震がいっぱいで、孫が心配だから、ここの吉里吉里小学校に迎えに私が行ったの。父さんが「迎えに行け」って言ったから、私1人で小学校に行ったの。その後も、父さんとおばちゃんが逃げないでうちにいたったの。それで、私ばり助かって、父さんとおばちゃんが流されたの。
家族みんなで一緒に暮らしたい
今は、娘の妹の方と私が一緒に仮設で生活やってんの。(娘の)姉の方は、孫と2人で仮設に住んでる。仮設に入る時は、今、小学校3年生の子どもを、ばぁちゃんが面倒見ねばなんないから、近くに置いてもらうべって言って、お母さん(娘)が何回も役場に通って。やっぱり、お母さんも仕事があって辞められないし、どうしても、ばぁちゃんが子どもの面倒見ねばねぇから、一緒に同じところに置いてもらうべしって、一生懸命役場に通ったのね。だけれど、最後まで、避難所に残されたの。一生懸命、行ったことねぇくらい役場さ通ったんだけども。私が行かねば、娘が行って。娘は、泣き泣きね、お願いしたんだって。どうしても仕事しねばねっから、ばぁちゃんの側に置いてもらいたいって。でも、なかなか聞きとってくんないんだもんねぇ。他の人は簡単に入れた人もなんぼもあんのね。でも、「私のうちには、男の人がいねぇためにこうなんの?」って言ったの、役場さね。何にも悪いこともしてないし。
そって、最後にあそこの仮設に入れてもらったのね。ちょっと離れたけど、別々なんだけども、同じ仮設の土地だから。
小学校3年生の孫は、子どもの中で1人、最後まで避難所に残ったの。そしたら、僕は学校に行きたくないって言いだしたのね。みんな、当たった当たったって、仮設が当たったって喜んでんのに僕だけ当たんねぇって。だから、そうなってくるべ。一番かわいそうだと思って。今は、ちゃんと通ってる。瓦礫通るのが嫌いだったらしくて。前の自分のうちの所を通るのがね。だから、今の仮設から通うのは大丈夫で1人で帰ってっけど、こっちの避難所にいる時は、5か月くらい、毎日送り迎えしたの。瓦礫の所通るのが怖いって言うから。
何も残ってないの
今になれば、その孫が育つのが楽しみで。津波の時、孫迎えに行って助けられたもんだから。私はじいちゃんと家にいたったのね。地震が来た後、私が運転すっから、車で学校に行くべしったら、車ではもう間に合わないからって、学校まで走った。近い所、上さ上がって学校に行ったの。そして、間もなくだもん。で、学校に上がったら、波を見たの。津波が来るの。学校にいて見たの。だから全然、その後どうしたかもわかんないぐらい、びっくりして。孫と2人で見てた。孫は、「ばぁちゃん、ばぁちゃん」って言うしね。娘は、釜石にいるから帰ってこられないし。その後、娘は3日も4日も帰ってこないからね。私は、孫と2人で、避難所に4日間ほど過ごしました。
津波の後、どこに父さんがいっかなぁと思って、瓦礫を2晩くらい探したのね。涙が出てきちゃう。だけど、なにもない。全部。それこそ、立派な高い御仏壇を、新しいお家さ合わせて買ったのね。何にもないの。何かあればなぁって何日も探して歩いてたんだけど、何にも。お家が流れるくらいだから、何にも残ってないのはわかるけど、何も残ってないの。仏さんのも。ただ、私たちが結婚した時の写真だけが見つかったんだ、何枚かね。大事にこれ持っているの。
手を合わせて、感謝してる
できれば、あの時を思い出したくないなって言ってんだけど、和尚さんにも昨日話したら、何かあったらいつでも来なさいって言われたのね。昨日も2時間くらいお寺さんに行ってきたかな。みんなと会って、お彼岸だから。お寺でお墓参りをして、それから和尚さんの話も聞いて。吉里吉里の和尚さんも本当に頑張ってくれたもん。お葬式の費用もとらないでやってくれだもん。で、亡くなった2人の火葬も、秋田まで行ってきたの。娘の短大の時の友達が秋田にいっから、その人に連絡したら、秋田で火葬をやってくれるから来なさいって。そしたら、火葬代とらないで、ただでしてもらったの。本当にみんなのおかげでね。もちろん、今お金を出せって言われても、どうにもないし。みんな流されたもんだから。だっから、本当にみんなに助けられて。
和尚さんが、合同霊祭やるっても、普通、1人いくらって、戒名もらうに出さねばねぇけど、それもいりませんって。ちゃんと戒名もつくって。でも、今回も一銭も和尚さんが取らないで、一生懸命やってくれたの。だから、本当に和尚さんに助けられたのね。だから本当に、和尚さんには、いっつも本当に、手を合わせてる。
みんなの助け合いがあって、本当によかったと思ってます。今仮設に入ったって、何にも不自由させないようにやってくれて、どうですかって聞きに来てくれますもんね。よその人が「あれも足んない、これも足んない」って言うけれど、違う。全然違う。私はこれでも十分って言って。このぐらいやってもらって、本当に助かってる。「野菜は不足していませんか」って、ちょくちょく顔出してくれんの。みんながね。ボランティアさんが、紫波町の方から来たり、何日か前には、大阪の方から来たって言ってだったけ。野菜だの玉ねぎだの持ってきて、「お母さん食べて」って持ってきたから。いただくたび、「涙出るよ」って言ったの。
本当に、私は生活ができることを、みんなに感謝してる。避難所のままだったらどうしたらいいかなと思った。今は、なんだか、みんなに良くされて、本当に申し訳ないですって。ありがたくてね、人が来るたび来るたび、お礼述べてやっけども。だって、自分が冷蔵庫や電気釜なんか全部、仮設に入って用意するっても、大変なことだもん。避難所にいる時は、小屋でもいいから別に住みたいと思ったったからね。
お父さんが私たちに残してくれたもの
お父さんは、最高にいい人だったからね。養殖してもホタテでも何でも、「ほりゃ持ってって食べろ食べろ」って言う人だったの。「みんなの面倒見る見る」って頑張ってね。お父さんは長男でなかったけれど、家族のために働き続けた人だったの。今までの生活で家を出て、私たちだけで生活しようかって話になったこともあったけど、お父さんの母親や兄さん夫婦や姉たちを置いて出て行けなかったのね。僕が見ねぇばダメだって。だからね、今回も避難してきたおばちゃんと一緒に流れて。だから、私たちが周りの人の世話になってね、ありがたく思ってんの。「これ、父さんがやったことなんだよ」って、子どもらさ言って聞かせてんのね。「父さんがしてだったことが、私に返ってきたんだよ」って。
これからどこに住むか
今までの生活が贅沢すぎたのかなって言って。何でもありすぎて、生活も安定してたしね。それをいきなり津波でみんな持っていかれた。
だけど、避難所では、みんないい人。吉里吉里の人はいい人たちだからね。みんな声かけてくれっから。そして、避難所では、仕切りもしないで3か月も4か月も、みんなの顔見ているんだもんね。それで、知らない人でもお友達になったりして。仕切りもなく、みんながいい人で生活してきたからね。
ただ、最後まで仮設に決まんないのが、辛かったね。仏さんも、避難所さ持ってきて置いたの。だから、できれば早めに仮設に入りたい気持ちだったの。
娘が、お家のこともあるし、これからのことを「どうしよう」って。いつまでも仮設っていっても大変だから。小さくてもいいから、みんな一緒に住むぐらいの自分のお家があればいいなと思うんだけどね。場所がまだ決まらない。元の土地に建ててダメって言われればダメだ。だから、役場の方でも代替地があればね、代わりの土地を作ってけんればいんだけどね。せめて私が、孫が6年生の時まで元気でいればいいんだけど。そのうち動けなくなったら大変だもん。
だからもし、できんでば、娘たちさ頑張って、小さくてもいいからお家が欲しいがねって言ってるの。それが一番いいんでねぇかって言ってんだけどね。