自己紹介
名前は釜石澄子(かまいしすみこ)です。昭和25年12月1日生まれ。60歳です。
吉里吉里生まれの吉里吉里育ちで、動いたことないです。
今、一緒にいるのは、主人と、そのお母さんと。3人です。子供は娘と息子がいますが、娘は隣の安渡(あんど)に嫁いで、弟は埼玉の熊谷で勤めてました。被災前は安渡地区で、10人ほどの女工さんと一緒に、水産加工の仕事をしてました。
砂浜一面にワカメ広げてたんだよ
小さい時から、はぁ、夏になれば海で泳いで、3月あたりから、ばあちゃんやお父さんお母さんと、マツモ(ワカメの仲間)や岩海苔、ヒジキなんかを採りに行ってたんですよ。岩場は滑るでしょ。だから、じいちゃんが冬の間に作ってくれたわらじを履いて行ってました。
実家のお父さんはね、元々は水産加工業してましたけど、養殖始めるの早かった方で、最初は海苔の養殖をして、ちょっと失敗して、それでワカメの養殖してました。
養殖のワカメは塩蔵にしますけど、昔は天然の昆布とかワカメっていうのは、砂浜に全部広げたんですよ。私達の世代は、小さい時は、みんな家の仕事手伝ってましたから。ワカメの時にはもう、あの浜にさがって、干し方手伝ったりしていました。雨が降るときは、ワカメの上に砂をかけたりしてね。もう、浜いっぱーいにワカメ広げて、ずっと向こうまで。ちっちゃい時だったからかな、すごく広い浜のように思えてました。
3月11日
津波があった時は、私、安渡の方でした。工場が安渡にあるもので。市場のすぐ上の前なんですよね。まさに、海のすぐ目の前です。
地震が長かったので。地震が来た時に、社長さんが、とにかく外に出てっていうことで、外に出て。今までの地震と違って長かったものですから。もう女工さんたちでこうして(体を丸めて)、収まるまで、ずうっとやってました。で、津波警報が出たから、とにかくみんな避難しなくちゃだめだからっていうので。でもなんか、パニックになってね。津波のサイレンが鳴ったっていうんですけど、全然記憶がないんですけ。とりあえず、休憩場の方に行って、荷物を持って車で行ってたんですけど、どうしようかって。車で行った方がいいの?走って逃げた方がいいの?って。車、持ってくればよかったな、なんて後で思ったんですけども。
そいですぐ、後ろの小高い所に、とにかく上がるっていうことだったんですけど。上がるっていったって、どこから?って。その前はね、津波来たらここ登って逃げようねって話をしてたんですよ。ところが、いざとなったら登れなかったんです。だめで。
5、6mだと思うんですよね。でこぼこで、足が悪い人もいたもんで登れない。やっぱし道路のまんま行こう、ということになって、ちょこっと歩いたんですけど、社長が危ないと思ったんじゃないですか。「ちょっと待って」って言って、「乗れ」って言って。
そして、道路のまんま、すぐ上の所に行ったんですけど。そこは、チリ津波も水が来なかったから大丈夫だろうということで、そこで結構みんな見てたんですよ。帰る人は帰ったのかな。自転車で帰った人もいたし、男の人たちは、やっぱりすぐ自宅に走ったんですよ。残った人たちも、その小高い所でちょっと見てたんですけど、社長はシャッターを閉めて、大事なカバン1つだけ持って、鍵を閉めて、一緒に上がって行ったんですけど、目の前まで来ました。
一度もう、それ見てたんですけどね、どんどんどんどん堤防が大きくなってくんですよね。水が引くから、堤防がだんだん高くなって見えるんですよね。目の前で工場があるのをばぁーっと、なんか全部水入るの見てたんですけど、入って来るっていうよりもね、私の目の前で、なんちゅうんでしょうね、下から水があふれ出てくるっていうか。本当にあふれ出る。堤防のブアーッとこう、どんどんどんどん水があふれ出てくるような感じで。ええーと思って、どっからこの水が湧いて出てくるんだろうっていう感じで。どんどん、わぁーと来て。こっちに来れば、すうーっと後ろの方がなくなるじゃないですか。全然それがなくてどあーっと、とにかくどんどんどんどん。
そのうちに、あ、ここも危ないってことで、とにかくまた逃げました。
年寄りの津波になった時の話、やっぱり聞いていてよかった
本当に、前の津波の時には、そこは大丈夫だってことでやってたんですけど、下の方でも、ああ、ここも危ないからだめだから、もうちっと高いとこさ逃げなくっちゃってことで、逃げたんですけども。お年寄りの津波になった時の話が、自分は頭に残ってたもんですから。一緒にいた人たちが、津波見たことも、そういう話も聞いたことも、関係のない山手の方の人だったもんですから。自分は逃げる時に、川沿いとか真ん前に逃げないで、とにかく5cmでも10cmでも高い所があったら高い所逃げろって言われてたので、なんかね、道路のまま逃げたら怖いなと思ったんです。
すぐ見たら、山道だったの。まっすぐ山に道路が続いてたので、こっちに逃げようっていうんで。それで、みんなそっちに逃げたりした。やっぱり道路沿い行った人もあるけど、そちらはとにかくこっち、って自分先に立って、山にいました。
やっぱり聞いていてよかったなと思いました。
命があっただけでも良かった
一晩、どうしようかと思いました。町が火事になったでしょ。そしたら、赤浜の方も火事になったんですよね。ちょうど、その間の所にいたので、挟まれて、こっちに来なきゃいいなと思って。ちょうど親戚の家が大丈夫だったので、工場の人と一緒に、そこに一晩泊めてもらいました。
うちのお父さんが、山を越えて訪ねて来てくれました。
なんかね、1回探しに行ったら探しきれなくて(家に)戻ったら、母さんに「年寄りが水に浸かってだったのに助かったんだから、疲れたなんて言ってないで、おまえ行ってから見て探してこい」って。何回も何回も歩いて、すっかりもう、げそっとしてました。ちょうど鉄道の上の方に、母さんの妹の家がありますので、そこで、朝に炊いたご飯が残ってたみたいで、おにぎりを2つ作ってもらって、持たされて。
そして次の日の朝ですね、ちょうど。運が良かったのかな。赤浜の山を越えて、まだ火がくすぶっている所は、あっつい所を来たみたいですけど。山を越えて、畑とか藪を越えて、ちょうどこの辺だったらば、惣川(そうかわ)出るかもしれないっていうんで降りてきたみたいです。道っていわれるところを通らずに、とりあえずここで降りれば、って感じで。
そして、そこのちょうど降りたところに、私のいた家があったもんで。道路端だったもんで、一緒に働いてる人が、「釜石さんの旦那さんでないの?」って言うんで、「ええっ」て言って(笑)。玄関開ければすぐそこに、どこかで見た顔が。ふふふふふ。
「これで見つけなかったから、おまえ、今度はどこさ行ったらいいかわかんなかった」って。圏外になって電話通じないし。連絡のしようがないんですもんね。
顔見てホッとしても、家は?ばあちゃんは?って。「家は?」「ない」って。ふふふふふ。「ばあちゃんは?」「うーん、大丈夫」って。地震があって逃げた時に、すぐに電話かけても通じないんですもんね。とにかく古い家だったもんですから、ああ、じゃあもう家潰れたんだと思って。ずっとずっと、携帯かけてたんですけど、通じないんですもん。そしたら家は、地震では大丈夫だったんだけどって。津波で、ないって。
その時は、命があっただけでもいいかって。はははははは。ねぇ。
子供たちが元気なのが幸い
私は職がなくなったので、小学校の臨時職員みたいな感じで、パートですけど、なんとか働くことできました。
今、子どもたちの登下校のお手伝いしてるんですけどもね、やっぱり、おばあちゃんに送ってもらう子もあるんですよね。向こうの方から来る子どもは、下の方に海の方が見えるようになって、もう堤防が決壊して、海が直に見えるんですよね。だから、中学校の仮設にいる子どもたちでも、やっぱちっちゃい子は、下がるのが怖いからって。おばあちゃんにいつも連れてきてもらう子あります。
でも、反対に元気な子もいてね。「海はね、悪いこともしたけど、でもね、大丈夫なんだから」っつって。そういう子もいますよ。今度は、一緒に帰った子がね、「私、船が大好きだから。またきっと泳げるよ」って言ってましたね。いろんな子います。ああ、そうかぁと思って。海がね、悪いことしたけどね、でもね、好きだかよ、大好きっつって。そうだな、こういう子もいたんだよなと思って。
なんかね、一番内気だった子どもが反対にすごく人懐っこくなって。いろんなボランティアの人が来るじゃないですか。そうすっとね、話しかけられたり、これ書いてもらったんだとか、ふふふ。外人さんが来たら、いい言葉教えてあげるからとかって、すごくいい言葉だったよとか。私はよく意味がわからないんですが、グッジョブとかなんとかって、教えてもらったとかで(笑)。グッジョブってこうして。それどういうこと、ってね。
子どもたちがね、元気なのは、まぁ幸いですね。本当に、子どもたちって元気だなと思います。学校行ってそう思います。
反対に、本当に元気もらって。おかげさんで、なんか、元気にやってるなって感じ。
砂浜はどこへ?
私は、正直、何カ月も海には行けなかったです。うん。やっぱり屋根とかがね、こう、まだ海にあるじゃないですか。それがやっぱ片付かないと、行けなかったですね。今もやっぱり、遠くからは眺めても、近くにはちょっと行けないですもんね。
一度、瓦礫の始末の時に行きましたけども、波がもう近いですからね。だいぶ近くって、堤防も下がいっぱい掘れて水が溜まってるの見ると、いやぁ、怖くて行けない。
もうね、続いてた砂浜がもう見えないですからね。元通りの砂浜になることってあるのかなぁ…と思って。
活気が戻るといいね
なるべく、本当は、思い出したくないんですけどね。やっぱり忘れちゃいけないんだろうとは思うんですけど。普段生活してるのに、何ともないんですけど…、話をしている時とか、なんかくる時があるんですよね。被災した身内が結構いてね、思い出すの…。
今、やっと普通にできるようになりました。みんなそうだったと思いますけど。いつになったら元に戻る、元に戻るってことじゃないんでしょうけどもね。
やっぱね、ここ好きですしね。こっから出ることはないでしょうから。一生ここでいるんでしょうから。浜の仕事をね、今まで手伝ってきたんですからね。早く、そういう活気が戻ってくれればいいと思いますけど。
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