普通の主婦ですね
近藤絹子(こんどうきぬこ)です。昭和23年8月24日、大槌町生まれ。62歳です。大槌中学校を出て釜石商業を卒業した後、大槌にある米組合の事務所に5年ぐらい勤めました。吉里吉里生まれの主人と結婚して、転勤で山田町に1年、盛岡市に3年、久慈市に6年。そして主人の勤務先が釜石営業所に変わったとき、吉里吉里に戻ってきました。朝6時くらいにご飯食べて、主人を送り出して、子どもを出して。私はパートタイマーとして働いていた時期もありました。ほんとう、普通の主婦ですね。吉里吉里に住んで28年ぐらいかな。そのうち18年間は主人が単身赴任で、おばあちゃんと息子3人の5人暮らしでした。
建築規制で移住
昔は、海岸近くに家がけっこうあったらしいです。津波に流されて上に上がったわけですけど、車のない時代だからどこでもよかったんですよ。だから、この吉里吉里には道路のない家がけっこうあるんです。でも、昔から住んできた家が傷んできて、さあ直すとなったときに、家の土地が幅4メーター以上の道路に接していないと建て直しができないとか、いろいろ絡んできて。結局、許可なんないから、新たな土地を求めたわけです。我が家もそうですけど。そこは高台と思ってましたけどね、流されてみればそんな高くないなと。昭和8年の津波はそこまで行ったって、今頃になって聞いたんだけどね。
近所づきあいの変化
近所の付き合いはね、昔はもう密でした。私が住んでたところは、流された家ではなくその前のね、道路よりちょっと高いところにあって、私たちの家含めて3軒あったんです。どこの家にもおばあちゃんがいたんですけど、そのおばあちゃん同士の付き合い、お嫁さん同士の付き合い、さらに子どもたちが世代的に同じなんですね。同級生とか。
この辺はね、鍵をかけて出るってことがなかったんですよ。昔の家は古くて、鍵をかけるような家でないっていうのが実際だけども、鍵をかけて出るっていう感覚がなくて。丸っこ1日空けることがあっても鍵かけないんです。で、「行ってもいい?」っていうオファーもないまんま、ダーッと入ってって座ってお茶飲むとか、そういうのが普通。そのとき、必ず漬物が出るんです。夏でしたら新漬けですよね。キュウリとキャベツを刻んで塩もみしたような浅漬けみたいなのが、お茶菓子とは別個に必ずありましたね、そして「じゃあ」って感じで。暇であれば、今度そっちの家に行くとか。
津波に流されたほうはね、16軒ありましたけど、みんなお勤めしてるんで日中いないんです。訪ねていって目的の人がいなくても、おばあちゃんがいればおばあちゃんとしゃべって帰るっていう環境が今はないですものね。こっちは鍵かけますね、不思議なもので。ドアっていうのもありますね。前は引き戸だったんで。こっち来て、やっぱり出る時はカチャッとかけるような癖が自然とつきましたよね。なんかやっぱり暮らし方が違うんですね。新興住宅地ってそうじゃないですか、都会でも。
食べものを通じた親子のつながり
ここは浜どころですからね。今の季節、夏になればイカ、さばいて朝のおかず。そしてブリの赤ちゃん、イナダとか下がってきますね。いちばんちっちゃいのを、このへんでショッコっていうんです。そういうのを買って、毎晩、刺身ね。春にはシラス。刺身で食べるんです。あれが来れば春だなって感じですよね。あと、腑炒りっていう、イカの腑、わたでイカの足と耳をからめて、味噌で味して砂糖入れてっていう感じ。身はもったいないから他の何かにするけど。
嫁いでからの料理は、全部おばあちゃんの料理です。うちのおばあちゃんはね、甘じょっぱい味が多かったです。とにかくね、どんなものでも無駄にしないで、まめに作って、子どもたちが食べるようなものを作る人でした。野菜でもね、大根なんか間引きしますね。抜いた葉っぱは、漬物になりますし。南蛮巻き、ご存知ですか。大根の漬物とニンジンとゴボウを四角に切って、シソの葉で巻く漬物。それがね、おばあちゃんは得意でした。シソの葉っぱもちゃんとこだわりがあって、後ろを見たり、前を見たり、虫がつかないのを選んで。それが、おいしいんですよ。いま思えばね、おばあちゃんがいなければ、まめに作ってどうのこうのとか、ないかな。自分の都合で何か買って済ませたかなって。
おばあちゃんね、食べてもらうのが楽しかったんじゃないですか。息子3人いましたから。食べさせたい、ほめられたい、喜びたい。毎年作ってましたよね。だからね、そういう作って食べさせたいっていう気持ちを学んだのは、やっぱりそのおかげだと思います。外に出た子どもが帰ってくるっていうのは、食べ物の影響ってかなりあるような気がするんですよ。そう思いませんか。座ってる間にパッともう食べ物も出てくるような親だったら、居心地がいいですよね。「母さん、何人分だと思って作ってる?」って息子に言われることもありますけど。
いまは、お嫁さんたちがいるところに、昔の料理を作ってけっこう送るんですよ。喜んで食べてくれますので、幸いに。赤飯だって、このへんの赤飯は甘いんです。内陸は塩味なんですよね。エーッて食べられない人も最初はあるけど、とにかく沿岸はどこも、たぶん。どういうわけなんだか。
既製品は買わないです。以前、コロッケのおいしい店があって、そこでカボチャのコロッケを買ってはいましたけど。それ以外はお惣菜を買ってくるってことはないです。トンカツも当然、豚肉買ってきて作ります。既製品は衣が嫌いですもの。うちで揚げると、ああカツ食べたなって思いますね。冷凍食品買うってこともないですね。枝豆ぐらいかな。あと、くりかぼちゃは間違いないなと思って。手切るよりいいかなと。そんなもんですね。あとは買わないね。別にこだわってるわけでもないし。ケチなんだと思います。でもスーパーに行ってね、お母さんたちがカップラーメンをいっぱいいっぱい買ってね、パッとお勤め帰りに買って帰るのを見ると、「エッ、何を買いに来たの」って見てしまいますよ。食材じゃなくてね。それ食べんのって。
日頃のつながりが、そのまま震災対応に
ここは町民総出の行事が多いんです。何でも自分たちでやろうっていう動きが日頃からある。だから、今度の震災でも歴代の消防団長さんが中心になって組織づくりしましたね。それにしたがって若い人も、トイレの水汲みしたりね。みんなを見守るために、避難所の入口のテーブルに寝ないで座ってる若者が必ず2人いましたから。自衛隊の方が入る前に、瓦礫撤去を地域でやって道路を作りましたし。今の避難所は2ヶ所目で主人と2人でいますけど、ここの食事は手作りですよ。津波で家を流された人達も含めて、地元の人達が毎日食事の用意してくれました。お風呂も入れるしね。恵まれています、ここは。
みんなで使うところは、みんなできれいに
5月ぐらいからですけど、毎週かな、土曜日になるとね、一斉に道路の草取りするんですね、必ず。日曜の朝、するところもあるんですけど、日曜日の朝はゆっくり寝たいという意見があれば、じゃ、土曜日の夕方やりますかっていうところもあったみたい。そこは自由ですけど、必ず5月ぐらいから10月ぐらいまでは、各丁目で道路の草取りをやります。車道があって歩道があって、けっこうあるんです。国道脇の斜面の草を鎌で刈ったり。そうすると男手も必要だし、機械も必要なんですね。アスファルトの道路でも草はおがるんですよ、どんな隙間にでも。強いです。それ全部きれいに取るんですよ。あと、側溝のゴミ、ヘドロ取りとかね。参加率は高いですよ。自分たちが住んでるところの道路の草をむしる。そういうのは当然、当たり前。
夏になると、海岸清掃っていうのがあるんですね。全住民が吉里吉里海岸に下りてきて、1丁目はここ、2丁目はここって分けて、朝の5時ぐらいから6時ぐらいまで、一斉に草取ったりゴミ取ったり。全員が一斉に出るわけですから、それはすごいですよ。壮観です。
その後に、お父さんたちが筏を作って、子どもたちがここまで泳いでもいいですよっていうところまで筏を持っていって、そこから砂浜に向けてロープを張るわけです、左右斜めに。そして、ロープに浮き玉をつるすんです。よそから来た人は別だけど、吉里吉里小学校の子どもたちは、その筏をめがけて、そのロープの範囲内だけで遊ぶように、自然とそういうふうになってます。見張り番も、昔は小学校の父兄が当番でね。今は、町が頼んだ見張り番もいますけどね。地域で固まってやることは、ここは多いですね。
あとお盆が近づいてくればお寺、吉祥寺(きっしょうじ)の草取り。町民が鎌持ってお寺に行って、丁目ごとに割り振りされて。一斉にすごい人が集まるんですよ、毎年、朝の6時から7時ぐらいまで。自分のご先祖様が眠ってるお墓の清掃は当然だけれども、それ以外のところも。私が来たときにはね、おばあちゃんに言われて「はい」って行ったようなもん。いついつにやりますっていう紙が回ってくるんですけど、もう当たり前。予定の1つに入っちゃうわけです。
みんなで楽しむお祭り、運動会
吉里吉里は、1丁目、2丁目、3丁目、4丁目に、それぞれに子踊り、子どもたちの踊りがあるんです。8月末にね。獅子舞、神楽があって、そして子踊りがあって。お祭りが近づけば、1週間ぐらい前から毎晩、ご飯食べた後に夜9時ぐらいまで、お母さんも一緒に練習するんです。お母さんたちも、子どもの後について踊りますから覚えなきゃない。お母さんたちの方が覚えきれない。お父さんたちも大変っていえば大変、屋台は作んなきゃないし。ほんとう、にぎやかですね。それがもう毎年。
踊りを教える人はね、必ず地域に踊りを得意とする人がやっぱりいるんです。その人がまず踊りを習ってきて、それを教えるわけです、自分の地域の人たちに、子どもと大人に。
あと運動会。ここは学校の運動会とは別に、丁目対抗の町内運動会があるんです。毎年9月かな。昔からだと思います。公民館活動なんですね。運動会には出れないけど、足が痛いけどっていうおばあちゃんたちが持ち場のテントの中で応援に回ったりして。朝8時半から昼まで、盛り上がりますよ。まず、各丁目の住民のうち何人出てるかという「参加大賞」というのがあって、それから同じように「老人パワー賞」っていうのがあって、そして男女、年代別に競技があるんです。
うちの丁目はいつもビリ。でも、それがもう何年も続いて誰も欲がないから、走るのが遅い人がいても咎めだてはないんですよ。常にトップ走ってる地域はやっぱり負けたくないですもの。いいんですよ、来てくれるだけで。走ってくれるだけで。だから和やかなんです。楽しいですね。私は走るの大嫌いだから、参加はしないで見るのは楽しいです。
で、お昼を兼ねて反省会みたいのをね。丁目ごとに、てんでっこにご馳走作るんです。会費を集めて、豚汁、カレーライス作ったり、のり巻き頼んだり。手作りの漬物も出ます。各丁目の会長さん、その奥さんが中心になって、前の日から作るわけです。食べた後はまあそのまま帰るけど、後片付けの人たちは、その後も飲んだり何だりのあれが続くんですよ。男の人たちは、1日楽しいですよ。
お祭り、運動会に出ない人もありますよ。草むしりはまあ仕事の一環として出るけど、運動会とかお祭りっていうのは、やっぱり好き嫌いがあるし、義務じゃないですからね。
普通がいちばん幸せ
取り立てて考えたことなかったですけど、普通がいちばん幸せなんだなと思いましたね、つくづく。朝起きて普通の生活して、夕方があって帰ってきてっていうのがいちばん幸せだったんだなと。何も派手なこといらないんです。日々積み重ねていって、そのままで年取って。もう元に戻らないんだなっていうのは現実としてありますのでね。どう頑張っても元に戻らない。いまは仮設に入ることに夢中ですけど、2年後のほうが大変だと思います。誰が出てった、何人残ったって。避難所があと何人になったということより、もっとほんとうの地獄が待ってると思いますね。
でも、今回は息子やそのお嫁さん達に本当に助けてもらいました。「今までやってもらってきたことの何分の1でしかないんだから、気にするな」ってどの子も言うんですね。子どもたちが普通の感覚を持って育ってくれたことがすごく幸せだったなって。
そして「ほんとうに大変な苦労をしてる人がいっぱいいる。母さん、まだまだ幸せだよって。考える余地がいっぱいあるんだから」って言われました、そりゃそうだなと思いました。家族はとりあえずみんな無事だったし、まだまだ幸せなほうだと思いますね。見つかってない人たちはまだ探してますもの。その苦労がないだけでも幸せなんだと思います。物なんてね、買えますもの。
悔しいですけど、ムカつくけど…。