楽しく仲良く暮らしてきました

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お茶飲みに行こうかって行くんです。3人か4人で、互いのうちを行ったり来たり。…普段の生活は、まず楽しく暮らしてきたんです。
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Tokyo Foudation
Geolocation
39.3698337, 141.9411843
Location(text)
岩手県大槌町吉里吉里地区
Latitude
39.3698337
Longitude
141.9411843
Location
39.3698337,141.9411843
Media Creator Username
Interviewee: 平野サワさん, Interviewer: 鏑木洋子
Language
Japanese
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Japanese Title
楽しく仲良く暮らしてきました
Japanese Description
お茶飲みに行こうかって行くんです。3人か4人で、互いのうちを行ったり来たり。…普段の生活は、まず楽しく暮らしてきたんです。

吉里吉里で80年

平野(ひらの)サワです。生まれは昭和6年2月5日。80歳を過ぎたばかりです。生まれは吉里吉里です。旦那がね、2年前に亡くなって、それで一人暮らしをしてました。家族は3人で、吉里吉里に住んでいた長女と、仕事の関係で仙台に住んでいる長男と、東京にいる次男です。長女は震災に遭って、自分の娘が東京にいるので、そこに夫婦で行きました。

津波に遭って

商店にガス代を払いに行っていた時、地震が来たんです。一人者だからみんなのいるとこにいた方が安心と思って、そこにいたらば、目の前に波が来たので「津波だ!」って言われて、吉里吉里小学校に逃げて上がったんです。

うちは全部流されてしまいました。建ててから25年になっていました。海の近くだったけど、昭和8年の津波にもね、流れなかったんです。あんたのうちが流れるようでは、吉里吉里は全滅だよって言われていたので、ほんとにまさかね、こういう大きい津波が来ると思わなかったし、私は安心していだったんだけど。

社協に勤めていた姪っ子が、上の役をしていたので、責任上、みんなを先に逃がして、自分は最後になって、そのまま流れてしまったんだ。私の姉の年寄り1人残して、子ども1人残して亡くなったんです。その姪っ子は、体調崩してもまずね、ご飯でも何でも運んで来たり、病院に連れて行ってもらっていたんです。それで老後はね、1人で暮らしていても、安心していだったんだけど、そのようになってしまって、は、ほんとに残念です。

紫波(しわ)町の避難所に5ヶ月お世話になりました。そこに行けば病院も近くで都合がいいっていうのでね。8月10日に吉里吉里に帰って来たんです。紫波町は役場の皆さんも、地域の皆さんも、良くしてくれてね。食べ物とか服とか、寝るところから何からね。ほんとの温泉に1日交替で連れて行かれたの。生活会館っていう広いとこで、みんな一緒に寝たり起きたりしたんですけど、そこにいつまでもいられないからって、今度は紫波町のマンションに引っ越ししたんです。そこは、やっぱしこの位(仮設住宅)の部屋ね、1人ずつが部屋を持ったんです。ほんとに感謝感謝です。そして、役場の方が、ここまで送ってきてくれた。だから一生忘れられない。紫波町は第2のふるさとで、毎晩、ああ、紫波の人達は何してんだべなと思って考えてんの。少し元気なうちに、お礼に行きたいなと思っているの。

幼いころの思い出

私は、4人姉妹の三女です。私の両親は、私が生まれた時は、船をやっていだんだそうですが、私が小学校に入ったころ、倒産っていうんだべかね、ダメになりました。親たちは苦労して私たち、おがした(育てた)んです。あまり楽しく暮らしたという思いはないです。

小学校は、高等科2年まで行って、貧乏だったから、上の学校にも行かなかった。小学校を終えてからは、私のうちには畑もないし田んぼもないから、親戚の畑に行って、草取りしたり、麦刈りしたり、田植えに手伝いに行ったりしました。学校終わったばかりが終戦で、娯楽っても、あんまりないと思ったね。この吉里吉里でも空襲があって、防空壕に入ったり、逃げたりというような生活をしましたよ。小さい子どものある人は、ほんとに大変でしたよ。防空壕で、赤ちゃんが泣いたりなんかすれば、昔のことだからね、飛行機に泣き声が聞こえるから、泣かせては大変だよって、親はほんとに苦労したようです。他にね、槍突きを練習したり、火事の時にバケツで水をかける練習をしたり。今考えてみれば、ほんとにバカくさい。

結婚後 -大切にされて暮らしました-

昭和28年に結婚しました。親戚にお嫁に行ったの。私を必ずもらいたいって。私、嫌だったけど、行ったんです。だからお姑さんと舅さんに、すごく大切にされたの。みんなに嫁でなく娘のようだねって言われるくらい楽した。

旦那は、サケマスとかね、そういう船に乗っていたんです。それからサケマスの船をやめて、ワカメとかホタテの養殖をしたんです。

長女は昭和30年に生まれて、長男は34年、次男は40年に生まれました。子どもを育てるのも、あまり大変だと思わなかった。お祖母さんが、孫が可愛くて面倒をみてくれるから、私は、まず楽。学校の用事があっても、子どもを連れて行ったことはないの。お祖母さんが見てたから。

私小さい時、あんまりものを言わなくて、大人しいって言われてきたんだけど、子どもを生んでからは、ものを言うようになって、聞かなくなった。だから旦那に、うちさ嫁に来たために聞かなくなったのか、って笑い話になったんだ。例えば、旦那が何か言っても言い返してやったりなんかして。自分でも驚きました。子どもの学校の授業参観日とか何かってあるでしょ。そうすれば、いろいろと皆さんの話を聞いたり、勉強になるでしょ。それで段々。

養殖を始めて生活が一変

昭和50年過ぎにワカメとホタテの養殖を始めました。男の考えでやるから、旦那がどういうきっかけで切り替えたのか、私もわかんないけど、やっぱしね、うちにいて一緒に仕事した方がいいと思ったんだろうね。

養殖を始めてから、生活は随分変わりました。私の旦那がサケマスの船に乗っている時は、何ヶ月も帰って来ないから、子どもだけみて、楽していたんだけど、仕事切り替えてからは、毎日次から次と仕事があるんだから、慣れるまで大変でした。子どももいるし、朝は早いし。朝5時か6時に起きて、集荷所って、うちからずっと離れた所の船着き場に倉庫を建てて仕事をしました。男の人たちは、朝、2時3時に起きて、ワカメ採りに行くんです。 男の人たちが持って来たものを、女の人たちは、さばくわけ。茎を切ったり、尻尾を切ったりして、それを今度ボイルにするんです。そのあと塩したりなんかして。芯抜きってね。その時は、自分たち夫婦2人でできないから、よその人たちにお金を払って手伝ってもらって。夕方2時3時まで仕事をして。手伝ってもらう人たちにもご飯支度して食べさせないばわからないから、私が、朝ご飯、それからお昼の仕度をするわけ。

私の旦那がね、一生懸命働く人だったからね。私は、1から10まで手伝うわけでもなかったの。だから養殖っていっても、「平野さんはほんとにね、楽してえんがね」ってみんなに言われんの。私たちの仕事が気に食わないから、旦那は何でも自分で一生懸命。ホタテを入れるネットの修理とか、私たちしたことないんです。旦那だけして。うちに帰ってからは、私は今度夜のご飯支度をしたり、毎日そういう暮らしでした。

養殖は、5、6年前に、旦那が体調を崩して、やめてしまったのね。

昔の娯楽、最近の娯楽

昔のことだもの、遊びって別にね、あんまりありませんでした。吉里吉里に映画館が出た時、映画を見たくても、嫁ですから、見られなかったり。

他は、養殖の仕事が一段落すれば、じゃ、家族やきょうだい、手伝ってもらった人たちを連れて、どこそれにか行こうかって。例えば、釜石の観音様とか、宮古の浄土ヶ浜。そういう暮らし。今は何でもね、好きなように、どこでも行けますけど。

震災の前は、隣近所はみんな仲良くしてるから、お茶を飲みに行って、楽しく暮らしていたんです。朝ご飯を食べて、洗濯も終われば退屈だから、じゃお茶飲みに行こうかって行くんです。3人か4人で、互いのうちを行ったり来たり。お菓子でも何でも、珍しいのがあるから、これ食べてけろとかってね。で帰りは、持ってってって持たせられて帰って来るの。だから普段の生活は、まず楽しく暮らしてきたんです。

お茶では、たまにお昼もご馳走になって。話は、どこで誰かが亡くなったとか、今日はこういうわけでこうしてお寺さんに行って来たとかって、まず、そういう話してね。だから、別に1人でもね、この2年、結構楽しく暮らしてました。私この通りね、ざっくばらんだから。仮設で、みんな違うところに離ればなれになったので、ああ会いたいって言ってるのね。それでたまに行って会ってます。

私ほれ、年がいってるけどボケたくないから、吉祥寺(きっしょうじ)の御詠歌に入ってます。誰か亡くなった時、葬儀に行って唱えるんです。私1人だから、黙ってボケンといるより、今日は何時の葬儀ですよってあれば、じゃ顔洗って準備する気持ちがあればね。何もないば、顔も洗うこともないから。50人以上いたんだけど、今度の震災で十何人だか亡くなりましたよ。

仮設住宅での暮らし

長女の姉から、娘が亡くなったために、自分と孫1人だから、私もそこで一緒に暮らすようにって言われたんだけど、なんぼきょうだいでも、よそのうちに仏さんを持って入られないから、仮設申し込んだの。

ここは第6仮設団地といいますが、坂道は登りでしょ。でも私、お寺に勤めてるから、お寺の近いとこがいいと思って、ここの仮設を選んだの。役場の方にね、道路が大変ですよって言われたんだけど、自分で選んだから、仕方がない。道の端にガード付けて、上がったり下がったり、つかまって上がるように付けてもらいたいな。

一人暮らしは、仮設ではまず1部屋。だども、寝る所とお茶っこ飲む所が一緒で、ちょっとあれだから、なんぼ一人暮らしでも、もう1つ部屋欲しいなと思っています。

ここの仮設は眺めがいい。朝起きれば吉里吉里、海からどこも見えるから、窓開けて、こうして眺める。浪板の仮設は、ほんとにどこも見るとこもない、山ばり見てるってね。だから一人暮らしの人は孤独になるような感じだって言っています。

毎朝ご飯食べて、長女の姉のうちに1回行くんです。30分ぐらいかかって行きます。今日こそ行かないかなと思ってるけど、なんだか今日は姉はどうしてんだべなと思ってね。

仮設は2年って言われてます。だからそのうちに私も自分で生活ができなくなれば、なんぼなんでも長男の所に行かないばなんないなと思っています。長男も、仙台に家を買ったんです。そして私ほれ、まずうち建てたばりで、大きい所に1人いたんだけど、子どもたちが大きくなれば、やっぱし長男家族も帰って来ると思ってたんだけど、うちもなくなったから。

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