やんちゃな子供時代の延長
芳賀光(はがひかる)。昭和49年生まれで石材店を経営。奥さんと息子さんと暮らしている。小さい頃はガキ大将で、いじめっ子だった。ふざけていじめて、でもすぐ反省をしていた、わんぱくなやんちゃっ子。で、今もそれは全然変わらない。同級会でも結婚式でも年祝いでも2次会でも何でも、今でも皆を集める幹事役だったりする。
親父は親分肌の一見やくざ風な人で、面倒見が良くてそれを見て育ってきた。人に対してああしろ、こうしろ、とか言うのは見たことがない。おばあさんが助産婦さんで、婦人会の会長までして忙しい人。両親が仕事で忙しかったのでおじいちゃんっ子。いつもおじいちゃんとおばあちゃんと一緒に居た。4人兄弟の1番下だけど、あまり親と過ごした記憶がない。人に悪いことはしない、という基本の部分は家族や地域全体に教えられたことだと思う。悪いことしてたけど(笑)。おじいちゃんの通帳から勝手に下ろして使ったり、それでコンポ買ったり。でもいいんです。おじいちゃん分かってたから(笑)。
釜石でサラリーマンをやっていた、何の気なしに。専門学校に行っていたけれどバイトに明け暮れて、辞めて。石屋になろうと思ったのは、21歳の時に、親父が自分のお墓を作ろうと思って業者さんに頼んだら高くて、知り合いの造園屋さんに頼んで安く上げてもらった。その時に、石材屋っていうのは儲けすぎてんな、ぼったくってんだなと思って、そのきっかけで親父が、お客さんを紹介するから立てるか?と言ってきたので、こういう仕事もやりがいがあるなと思って石屋を立ち上げた。当初は仙台に営業に行ったりしていたけれど、お店を持って看板を抱えなきゃだめだよな、ということで。ただ、石屋の看板掲げても毎日人が来るわけじゃないから、じゃあ海の近くだし、ついでに釣りっこ屋をやってみようかということで、24歳の時に石材屋と釣具屋のお店を掲げました。
人との関わりかた、土地への想い
山の子と浜の子の気性は違うというイメージがある。短気なのはあるけど、浜のほうは、とってもオープン。ボランティアの人たちも吉里吉里のファンになって帰る人が多い。ボランティアが家に泊まってご馳走になって良いんですか?って聞かれるんですよ。いや、全然いいですよ、って(笑)。なんだろう、皆、難しくしないからですかね。駆け引きをしない、面倒くさいことが好きじゃない。閉鎖的じゃないし、受け入れてくれる。初対面の人でも、何かこの人壁がある、っていう人がいるけど、そういうのではない。
吉里吉里の人は土地柄なのか、皆そういう感じ。自分達にとってみたら声を掛け合って何かをするのは普通。最近色んな人たちが入ってきているのは事実だけど、誰構わず皆で協力し合っている。悪い話もあっても、それ以上にいい話がいっぱいある。普段から助け合うということがあったから、津波のときも協力できたんだと思う。
津波の時の行動
中学校の野球コーチも7年ぐらいやっている。津波が来たときは、次の日が野球の合宿が始まる日だったので、グランド整備をしていたときに揺れが来た。学校が潰れるんじゃないかなというほどの揺れだったので、校庭に子供達を避難させて、ダンプで釣具屋に向かった。海がおかしかった。今まで見た感じじゃなかったし、ぜったい津波が来る、って思ったんで釣具屋をあきらめて、石屋の倉庫に行って、津波が来ると思うから逃げろって言って、モコっていう飼い犬を放して、倉庫を後にした。それから、奥さんが保育園で働いているから、奥さんと子供を迎えに保育園に行ったら、子供が朝からひどく泣いてしょうがなかったから、その日は保育園を早退して、もう家に帰ったって言われて、おかしいなと思ったら、実家のほうに帰ってたみたいで。奥さんは早く帰ったから子供を親に預けて自分は町役場に行こうとしていたら、子供が離れなかった。そしたら地震が来て避難したみたいで。
家族が保育園にいなかったから、自分は浪板に行って、帰ってきた。その時は津波っていっても50センチとか1メートルぐらいかと思ってたから、職業柄お墓のあるお寺に帰ってきた。お客さんに聞かれる前にお墓のチェックをしようと思った。津波来るね、と言いながらここのお寺に上がってきたら、第1波が堤防越えて、第2波も来た。
中学生も津波直後に、埋まっている人達を助けるのをすごく協力してくれた。目の前に瓦礫に挟まっている人がいて、余震が来ても子供達が、助けようと思って、声を掛け合って皆で手伝った。こういうことを経験した子達は、何でも出来ると思う。その後は、大人が瓦礫撤去しているときも子供達は水を汲みに行ったりとか、皆が必要なものを1箇所に持ち寄ったり、お米を提供したり、ここのお寺も避難所ではないけれど、和尚さんもお寺を避難所として開放して皆に全てを提供した。
これからをどう考えるか
地震があったからこうしよう、ああしよう、という風には変われない。地震のあと、たくさん泣いたけど本気で泣けない。わかります? 涙は出るけど、こらえてしまう。本当はいっぱい泣きたい。でも飲み込んでしまう。涙は流すけれど本気では泣けない自分がいる。泣いている場合じゃないと思っているのかもしれないし、まだ泣くのは早いと思っているのかもしれないし、自然とこらえてしまう。不思議ですね、それは。
今回の津波を経験して、人の性格がわかった。根が見えた。普段何にもしない人でもやっぱ違うなって思ったり。知らない人たちも協力的だったり、自分にできる役割を考えた。店や釣具屋が津波で流されて、被害は4、5千万円。だけど、自然にはかなわないし、暗くなってもしょうがないし、家族が生きている。いろいろなくなってもしょうがないけど、家族がいるから良かった。確かに今忙しいけど、お墓も大事だし、どんなに忙しくても仕事は受ける。自分の使命だと思っている。納骨にもなるべく立ち会う。吉里吉里のために、誰がやるんだ、って思うし。
理屈が嫌いで、喋るよりやれよ、と。思うより行動するという考えの地域柄。声をかけあう、挨拶をするようにしている。それができると、人とつながる。今自分に出来ることをする、それだけ。普段から中学生にも、勝てばいいわけじゃない、今自分がやらなくていつ誰がやるって思って、今自分にできる最大限のことをするようにと言っている。とにかく地域に元気を与えるようにして、あきらめない。俺は中学生にとっては兄貴的な存在で、もともと大人ぶって言う人たちは大嫌いだったから、立派ぶらないし、話も聞くし、近くにいるようにする。
津波が来て人生は変わっても、基本的なことは全然変わらない。変わったところといえば、驚かなくなった。これ以上のことはないから、あのどん底を味わっているから、あの思いも経験しているから、あとは受け入れるしかない。ある意味、良い意味で、どう表現して良いかわからないけれど、自然にはかなわないっていうのを改めて痛感させられた。一番かわいそうなのは、子供達が海に近づかないんですよ。俺らが小さい頃は、釣りっこしたり、泳いだりその辺の田んぼで遊んだり、っていうのが普通だったんですけど、この状況だから仕方ないけど、海を早く安全な場所にしたいし、釣りもまたやりたいなって思いがある。子供がまだ2歳だけど、海を怖いと思ったり、海の楽しさを知らずに育ってしまうのはちょっと残念。
海の町、浜の町を復活させる。浜に活気がないと街が静か。漁師の町だから。やっぱり漁師が元気が良くなくちゃ。砂浜もなくなってしまった今でも、自分は海は好きだし行きたいし、怖い思いをたくさんしても、楽しい思いのほうが元気になるし、思い出す。確かに津波は怖かったし全てを奪っていったけれど、でも今は普通なんですよ。元通りの海面。何なんだろうな、って。でもやっぱ魚も食べたいし、きれいなんですよ。