生きることがしごとだね

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野菜作ってもね、はい、そっちは何本、こっちは何本ってみんなであたりとなり(隣近所)に。
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Tokyo Foudation
Geolocation
39.3698337, 141.9411843
Location(text)
岩手県大槌町吉里吉里地区
Latitude
39.3698337
Longitude
141.9411843
Location
39.3698337,141.9411843
Media Creator Username
Interviewee: 平野勝雄さん, Interviewer: 木村璃香
Language
Japanese
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Japanese Title
生きることがしごとだね
Japanese Description

名前は平野勝雄(ひらのかつお)です。昭和11年5月17日生まれの75歳です。職業はそうだな、昔は魚を殺す、漁師。42歳ころまでかなぁ。あとその後、今の運搬船っていうやつだね。42歳からねぇ、58歳まで。そのあとは退職して、ぷらぷらぷらぷら(笑)。子どもは長男と次男と長女で3人で、みんな元気にしてます。

子どもの頃から漁師

ずっと吉里吉里だから。生まれたときから吉里吉里。おれたちは、ほれ、ちょうど終戦になったのは小学生ぐらいだからね。だから、子どもったってね、小学校に行った記憶がほとんどないくらいだから。食べるもんがないから、もう、10歳か11歳のときから沖行ってイカ釣る。それからずーっと船に乗っておった。だから、小学校の卒業証書もないし中学校の証書もない。ほとんど学校行ってなかったかも分からん。行っておったろうけど、行って寝ておったんじゃないか、疲れて(笑)。中学校入学したのかの記憶もない。兄弟は9人だからさ。それの長男だから。親父はだいぼうって、昔の言い方で親方のことだね。定置網の親方しておったけど、なんも漁のことは教えてくれんかった。自分で全部。イカ釣りは2、3年でやめて。船で出かけられるかぎり、なんでもやりました。どこでも行った。ひとつの船に15、6人ぐらい人が乗ってるから、みんなそれぞれ仕事しているのを、見て覚える。誰も教えない。人の仕事、見て覚える。

イカ釣りと遠洋漁業

網にてんぐす、ナイロンに針をつけた1mぐらいのイカ針をいっぱいつけて、手で巻いたり、あとは電動で機械でやったり。まあね、1回釣って一杯になって、もう1回戻ってまた沖に出たりってこともあったんです。夕方3時ぐらいに出て行って、夜明けないうちに帰ってきて。夜の商売だから、イカ釣りは。夜海に出て、朝帰ってくる。持って帰ってきたのを今度、ばあちゃんが洗って干してた。ばあちゃんはイカ割りって言って、イカ釣ってきたのを割っておったからね。割るって、裂くってことね。かいで、わたを取って洗って、干して。そういうことをやっておったがす。割って干したら干物になります。干しイカってやつだな。今でもあるわな。ここのイカ釣りの船は小さいんだ。7、8トンぐらいかな。10トン未満だから。

サケマスは30トンぐらいはあったんかな。マグロは250トンあった。獲ったらマイナス50度の温度で凍らせて持って帰ってくる。あれ、全部3枚おろしっていって、骨取っておろしにして持ってきたり、あと、丸で持ってきたり。ハッチって言うんだけど、倉庫みたいな冷蔵庫が船には全部、魚を凍らして積むようにできてる。7か月も8か月も貯めて持って帰ってくるんだから、どれぐらい入るのかはよう分からん。漁は楽しいっちゅうことはないよな。辛いよ。漁出たらしばらく家には帰れないし。サケマスは2か月か3か月ぐらい、出たまんま。マグロに行ったときは8か月帰ってない。毎日、寝るのは何時間もないんだべな。3時間か4時間、寝れるかなあ。港には油補給でいっぺんぐらいしか寄らんし。給料は安いもんな。漁師だけでは金にならん。水揚げの何パーセントってもらうから。だいたい3%ぐらいかな、それをみんなで分配するんだから。そのころはね、この辺も景気がよかったから。イカが釣れて、景気がよかった。今はもう、漁師もだめですけどね。

漁船から運搬船へ

42歳に運搬船に切り替えた。ばあちゃんが、漁師でもご飯食われないから、行ってこいって(笑)。だからね、東京、名古屋、大阪、博多、九州、日本海、どっこも歩いてきました。なんっでも運びました。マツダの車両船で、車を運んで北海道まで持ってきたり。どっこにも持って行きましたね。会社は大阪の弁天町にありました。運搬船に行っても、1年に1回しか帰ってこなかった。あと11か月は帰ってこない。次の荷物をどこで積むかによって、寄る場所が違うしね。ほとんどどっこも歩いたね。北海道苫小牧、函館、釧路。西は博多、鹿児島。秋田、新潟、あと富山にも行った。乗っておった運搬船は3,700トンとか。いろいろな船、大きいのから小さいのまで、会社によって、ほれ、帰ってくると次に乗るのは別の船で行くからね。運ぶものによって船が変わるから。

42歳から58歳まで、人の世話になったんです。漁師でご飯食えないから。そのころはあまり漁もなかったから。何一つ楽なことない。だけどやっぱ生きるためだ。金はかかる。漁師だからなんでもやります。生きてることが仕事だね。食うため、生きるため。

はなっこが芽を出すのが好き

趣味はいっぱいある。盆栽好きで、自分で山から採ってきて、50年ぐらいかけて育てて大きくして。でも全部流されてしまいました。50鉢ぐらいあったね。あとはね、木の流木採ってきて、磨いて、いっぱい飾ってた。だいぶあったね。全部流されたけど。うん。なんも残らん。あの更地に家があったんですよ。

海も山もあんまり行ったりして遊ばなかったね。今は山好きだからね。山菜好きには、山菜採るのが楽しみ。今でも春、5月ごろかな。あとは、海も好きだから。釣りっこが好きでね。楽しみで。今でもちょくちょく、波がないと行きます。食べる分ぐらいは取ってきます。どこへ行っても、生まれ育った場所がいちばんいいね。春がいちばんいい。はなっこ芽出してくるからね、面白い。津波に流されてなかったら、今は彼岸花がいっぱい咲いてる。育てておったからね、毎年100ぐらいは咲くんよ。みんな津波で死んでしまったけどね。

上さ上がってくるの、流れていくのを見たの

テレビ見てたら地震が来たの。今まで初めてだもんね、あんな地震って。ばあさんが歩けなかったの、全然。脳梗塞で。今はトイレ行くぐらいは歩けるようになったけど。地震の時、全然歩けなかった。トイレ行って立ってるのさえできなかったから。押し車にとしがせて(乗せて)、あの坂を後ろから押して。無理くり歩かせて。小学校まで押して上がった。そしたらね、小学校から見たけね、津波がね、屋根の上…。上から見てたの。発砲スチロールが浮かんで白くなって見えたったからね。いろんなものが浮かんで。流れていくのを見たの。上さ上がってくるの。そのまま家にいたら、家と一緒に流されたったの。家さおったら全部流されたもんだから。うん。だって一番先にやらなきゃだもん。着の身着のままで。分かるっていうよりね、ああ、もう5分10分以内に必ず津波が来るよって、ばあちゃん早く逃げようって。押してさ。分かるっていうより、感じて、逃げた。だからね。小学校の上で見ておったんだけどね、悲しいも悔しいもなんもなかった。ああああって言ってるうちに全部なくなったから。ね、もう。知ってる人たちは亡くなったから。みんな声かけてきたんだけど誰も逃げなかったの。みんな避難せんかったの。うーん、みんな大丈夫だって。だから、亡くなった。だいぶ亡くなった。海近いから。

せめて、ばあさんとふたりで住めれば

仮設に入ったのは7月の3日だったと思います。それまではずっと体育館と小学校とね。あらかたもうちょっとで3か月になるね。顔見知りは並びにおるからね。向かいには姉貴がおる。まあたいてい知っている人たちだね、この辺は。不便っていったってどうしようもないけどね。だって行くところないんだもん。でも、できればね、元のところに戻りたいです。息子のとこ行く気もないしね。行ったってしょうがない。これからどうなるか分からんけど、でも、山切り崩して高台ったって、雨降ったら災害怖いよ。海より怖いよ。逃げるとこねえ。だからね、なんとか今のところ住めればよいんだけど。まあ、ここ5、6年のうちに住めんかったらもう、もう帰れんだろ。生きてるかどうかも分からんしな。でも、それは分からんですよ。帰れるんか、帰れんのか分からん。だからどこ行くかも分からん。せめてね、大きい家じゃなくていいから、ばあさんとふたりで住めるだけの家がなんとかなればなあと思うんだけど。

あたりとなり

やればできるんだよね。もう1回。でもね、都会の人間と違って、田舎の人間は親切かもわからん。山へ行って山菜採ってきてもね、食べるくらい置いて全部そのへんに分ける。今でもそうだよ。魚を釣ってくるとね、自分が食うのは置いて、隣に分けてやるよ。よくみんな漁さ行ってるから、イカなんかそっちを持ってきてもらう。今でもちょくちょくもらって食べるよ。都会の人はそういうことはあんまりしないだろうけど、田舎は、みんなでお互いにやったり取ったりして食べるよ。うん、ずっと昔から。そういう習慣はあります。おれたちもそうだもん。野菜作ってもね、はい、そっちは何本、こっちは何本ってみんなであたりとなり(隣近所)に。親戚兄弟は遠いけども、あたりとなりは大事にします。

震災の後もね。ボランティアっちゅうんか、来てくれてね。1週間のうちに4回も会って、元気づけられたから感謝の気持ちでね、都会の人間さもサンマ30匹送ったけど、分けたかどうか分からんけどね。もうこの後会う人でもないんだから、無理してやらんでもいいんだけどさ、でも人ってそんなもんじゃないよね。縁があってその人に会ったんだもん。縁があって会っても、離れればみんな忘れてしまうんだもん。避難しているときは、何十人何百人の人と会っても、心に残らない人もおるんだもんね。だから、その中で気が合う人は大事にしたいなと思ってる。ただ、食べさせたいなという気持ちでやったんであって。向こうもわざわざ大阪から来てくれたんだから。大事にしたいものは大事にしないとね。だから、田舎の人間は案外親切かもね。せっかく東京から来てるのに、いやだよって断ったらなんも進まんだろす。だって都会の人たちは、あたりとなりって付き合いないでしょ。ね、隣に誰がいるのかわからないって。あたりとなりってこのへんの田舎は言うけど、大事にするよ、みんなを。何があっても、助けたり助けられたり。朝起きればおはようって、みんな声かけあってそうして。だから、都会なんて行きたくない。元のところに戻りたいね。

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