家族背景
佐々木拓雄(ささきたくお)と言います。生年月日は昭和22年11月11日で、来月で64歳。電気屋です。今は私たち夫婦と私の妹と仮設で暮らしています。妹は去年突然脳梗塞で倒れて以来、一緒に住んでるんです。もう1人の妹は釜石にいます。子ども達はここ生まれで、息子と娘がいます。娘は結婚して子供がいるんですけど、県内の水沢っていう所にいる。息子は嫁さんが東京なんで東京に居るんですけど、今は親が心配だということで一時的に帰ってきてる。でも、住むところないから、息子は今倉庫で寝てる。結局親を見ているからかね、息子は電気屋じゃないけど番組制作会社で働いてる。
地域の繋がり
私も親戚もみんな元々ここ、吉里吉里です。ここはそういう人が多いです。吉里吉里は若い人は割と多いですよ。消防にしても若い人が多い。ほとんど消防団っていうのは、年いってる人が多いんですけど、ここはね、交代を早くしているために、消防団長が40代後半とかね。そういうのが、ここ吉里吉里は早いんです。
ここは地域の繋がりは強いですね。みんなで海岸清掃、お寺の草取り、神社の草取りをする共同作業があるんです。でも、私は小さい頃から身体が弱かったので、そういうのには全然参加出来ない。地域の繋がりがあるのは良い面もあるけど。丈夫な人は住みやすい場所です。弱者には住みにくい。こういう非常時はまとまりが良いんだけど、逆の人が見ればやりづらいかもしれないって感じっていうのはあるんじゃないかな。
病と向き合って
私は身体が弱かったから、遊んだって記憶があんまりないですね。小さい時からずっと弱いから、学校も3分の1ぐらいしか行かなかったし(笑)。ずっと心臓が弱かった。心臓の手術はこれまでに3回受けました。1回目は中学校1年生の時。その時が初めての手術。小学校の頃も、まぁずっと弱かったね。小学校の時も自宅で安静にしていることが多かったです。だから、中学校は記述検定で上がったんだね。たまに入院はしてたけど、自宅安静。中学校も高校もほとんど行けなかった。
でも、私は割と楽天的だから、本読んだりして気を紛らわしてた。んじゃなきゃ、死んでたかもしれないね。だから、楽天的だからここまで来た感じ。私は体質的に、手術しても顔色悪くならない。自己治癒力が強いんだよ。手術して抗生物質もなし、ただ傷口を縫って治すだけ。飲む薬は一切なし、点滴なし。そういう体質だから持ったんでしょうね。
2回目の手術は33歳の時で、3回目は平成5年だから46歳の時。合計3回の手術。あとは、もう手術出来ないですね。癒着がすごいから、縫えない。縫ってもくっつかないんです。今は毎朝心不全が収まるまでは午前中出れません。午前中は肺に溜まってるがために、薬を服用して5分おきにトイレ行って。毎朝それが大変ですね。
機械好きだった子供時代
機械いじるのが、小っちゃい頃から好きだった。親父がたまたま東京行ったときに、秋葉原で機械系の本をお土産に買ってきてくれたのがきっかけかな。小学校の頃からステレオアンプとか、マイクとか、スピーカー作ったりしてました。作って人が喜ぶのが好きだった。子供の頃は漫画も読まなくて、電気の原理とか、そういう基本の勉強が好きだったから。全部独学でしたよ。
ササキデンキ
30歳で電気屋を始めると決めてました。それまでの18歳から30歳までは、釜石の無線屋さんで働いていた。レーダーとかのその修理を。機械をいじるのは好きだし、趣味だからね。仕事は見て覚えた。勤めてたとこの人がやってるのを見たり、あとは会社の研修会、講習会に行ったり。神戸に行ってメーカーさんの研修会を受けたりして、仕事を覚えました。それで、30歳の時に自宅で電気屋さんを始めました。仕事内容は主に修理ですね。あと学校行事も多かったです。文化祭のスピーカーとかの音響とか。ブライダルのビデオ撮影もやりました。電気屋さんは電気屋さんなんだけど、技術スタッフの裏方みたいなことをやってたんです。
震災当日
地震があった時は、税金の手続きをしに出かけていたんだけど、家に帰ってなかったら多分ダメだったかもしれない。そこで何人も死んでるからね。商工会の人には行くなって言われたけど、嫁さんが勤め先から帰っているんじゃないかと思って、自宅に帰ってきたんです。そしたら隣の奥さんがね、船を見に車で行こうとしてたんです。嫁さんと妹には「先に上がってろ」って先に高台に行かせて、私は隣の奥さんに声をかけて、「一緒に逃げろ」って言ったんだけど、もうちょっと精神的にね…奥さんを止めることができなかった。その人は最後は自分の家の中で見つかった。止めれなかったんだもんね。
その時にはもう山まで波が来てたから、逃げなきゃいけなくて、私も必死で逃げた。音が、すごかったもん。木が折れる音。ばきばきって。で、真っ黒の泥。それを見た瞬間、もうこれはダメだなと思ったもん。足で走ると死ぬかもしれないから、とにかく車で逃げようと、車で階段を上って。普通の高い階段ですから、8段ぐらいあった。それを軽トラックで、マフラーを引きずりながら上った。車乗るときには水位は膝ぐらいで濡れた。で、走っても間に合わないなと思って、車で上った。水位の勢いが一気だった。
車で一番てっぺんに一気まで上がってきて、下を見てたんです。すごかったから。だって津波がでっかいお家、屋根、瓦を背負って、電柱をどんどーんだもんね。コンクリートの電柱ですよ。バキバキ折れるんだもん。高台には同じように逃げた人がいっぱいいましたよ。でも、結局逃げなかった人はみんな死んだから。逃げた人は助かったんだね。戻った人もいるからね、中には。何人も戻ってるから。私はぎりぎり助かったね、なんとか。
でも、隣の奥さんを止めないわけにはいかなかったからね。止めても無理だったけどね。それが、残るんだよね。おじいさんが居たから、おじいさんだけでも引っ張ってくれば良かったかなって思うんだけど。まぁ、あの時はもう必死でした。
連絡が取れない
最初は子ども達と連絡取れなかったですよ。娘とは4日か5日後ぐらいに会ったのかな。会うまで連絡取れなかった。津波が来てから1時間ぐらいで携帯はダメでしたね。最後はもう津波来てる最中にメールが入っただけですね。息子とも連絡が取れなかった。息子の嫁さんのほうで知っている人がNHKにいるんだけど、ある局長さんを通して、取材前に直接会って確認して欲しいってことで、避難所まで直接顔を見て確認しに来てくれた。そうして探してくれた。私は心臓の薬を飲んでいるために、薬を手配して送ってもらえたんですよ。いくらかね、臨時で出したけど、その頃は薬もなかったし、そもそも効かないんだよね。なので、助かりました。
親戚の所へ
避難してからは、親戚の所にいました。8月の半ば頃までの5ヶ月ぐらいです。叔母さんの従兄弟と親父の兄弟の所。最初は18人いた。5家族ぐらいかな、従兄弟同士でね。普段はあえて集まることはないけど、今回はこういうのがあったから。最初の頃は電気も情報もなくて、まぁ大変。体調的には10キロ痩せました。避難所は特にひどかったと思うけど、ご飯3分の1、4分の1ぐらいかな、とふりかけ。それに海苔1枚か2枚とか。最初の頃はそれで暮らしてましたからね。
家が壊されてしまった
自宅とお店は一緒だったんだけど、うちは倒れなかった。1階の物は水を被ってるけど、2階までは水が来なかった。でも、今はもう壊されてしまいました。当時はみんな気が動転して、壊さなくても良い家まで壊してしまった。壊したのは行政の人じゃないです。あくまで個人の地元の人です。何の知らせもなく。誰かから「家壊してるよ」って言われて、慌てたの。そしたら、後ろは穴が空いてて、半分なかったの。それが津波から3日目。そして壊されてしまった。どこに捨てたのかも、どこに行ったのか分からない。誰に聞いても分からないし。まだ2階が半分残ってたのに、勝手に壊されてしまった。
小売人の苦悩
行政は自営業、小売人には特に冷たいですよね。漁業、農業は国民の食べ物でしょ? でも、小売業とか商業は自分らで食べるためにやってる商売ですよね。そういう考えが行政にはある。私みたいな所は、自分でやって自分で儲けているんだから、立ち直るのも自分自身で、っていうのが国の考えである風に感じるね。今お店を直してるんだけどね、工場に対しては上限2千万まで補助が出るの。で、商業の場合は店を直すのには1円もない。店の事務所に対しては出すけど、店を直す予算はないからねって、そう言われますからね。だから商売するなよって言われてる感じ(笑)。自分のことは自分でやる気持ちだけど、やっぱり店舗直すにしても、商売を始めるのに、事務所に対しては補助が出るけど、店舗にはダメだよっていうのがあるのね。それはちょっとおかしいんじゃないかなって思う。事務所だけに出るなんて、それはおかしいよね。事務的な仕事だったら分かるんだけど、小売人に対して事務所から始めるのは良いよっていうのはおかしいなって。それは、すごく感じます。役所に行ってもそういうそっけない返事しかないです、日本の国民に向けて。非常時だからね、それを分かって欲しいけどね。だから、身を削って仕事をするしかないです。
現在の仕事
震災後の最初の仕事は慰霊祭でした。もう5、6回ぐらい慰霊祭をやりました。町内の合同慰霊祭も全部やりました。お金にはならないけど、まぁ皆のためならね。ボランティアで。息子は宮城県の方に行って、気仙沼とかそういう所で慰霊祭をしました。息子と二手に分かれて。自分の身を削りながらボランティアをしてる。でもお金はないんだけどって頼まれたら、まぁ良いよって言うしかない。頼んでくる人みんな知ってる人ばっかでしょ、やんなきゃいけないからね。まぁ、断れば良いんだけどもね。息子にもやめろって怒られるんだけど。でもね、無理するんですよ。みんなはもっと無理してるから。俺は弱いから出来ないだけで、皆もっともっとやってるはずだから、それを思えばね楽な方だね。
子ども達の帰路に街灯を
今プレハブを作って倉庫代わりにしてるんだけど、そこの道は子ども達が学校から帰ってくる途中なのさ。秋とかになってくると、子ども達の帰宅の時間には暗くなってくるんですよ、街灯がないから。真っ暗ですもんね。電気が通るから、せめて通学路に街灯付けてくれても良いのに。でも行政待ったって街灯付けてくれないし。仕方ないから、行政が居ないと考えて、誰かがやんなきゃ誰もやらないから。だからプレハブに明かりを付けて、夜7時ぐらいまではいつもそこに居るようにしてる。やっぱり自分で付けるしかないなと思って。他に大きいことはやれないから。
プレハブにはトイレも置いてる。駅のトイレも使えないから、子供たちも帰りに使って良いようにしてあるから声かけるから。「使って良いからね」って。
正確に残してほしい
これからどうなるか分からないけど、フリーでとにかくお願いされた所に行く。出来るところまでやって、死ぬのを待つしかない。死ぬなら元の地で死にたいなって思う。元の場所で。仮設とかでは死にたくないなって思う。自分の家じゃないもんね。慰霊祭重なって泣くのばっか見ると、最初の頃は泣くのは嫌だったけど、今はだんだんに、やっぱ考えさせられるね。最初はもう涙も出なかったけど。大変だったから、事務的になってしまって、自分のことでいっぱいだったから、周りまで気が回らないと言うか。最近はなんか、考えます。あんまそういう話は周りとはしないですね。ま、楽天家だから、一生楽天的に暮らそうかと思います。今回の震災の記録を、とにかく将来の為に正確に残してほしい。大きい地震が来たらとにかく逃げること。とにかく高いところへと。