名前は佐野孝治(さのこうじ)です。山形の今の鶴岡、合併前の朝日村で昭和49年10月22日に生まれました。高校まで山形で育ち、高校を卒業してすぐに自衛隊に入って、盛岡のとなりの滝沢村に5年半住んで、自衛隊を辞めた後に運送会社に10年ほど勤務しました。吉里吉里に来たのは結婚して婿に入った33歳の時で、3年8カ月くらいです。今の家族は嫁の母と嫁と自分と1歳7カ月の娘の4人で、皆仮設住宅に移りました。新日鉄釜石の下請け会社で倉庫管理の仕事をしています。
山形での生活、吉里吉里での生活
山形に居た頃、子供の頃に遊んだのは、鬼ごっことか、缶けりとか、秘密基地とかの普通のことですね。うち、3兄弟で、長男と俺が双子だったから、中学校まで何かと比べられて嫌だったよ。仕方ないんだけど、ずっと一緒にいるからね。一緒の学校行って、一緒の時間に起きて、一緒の時間に帰って。喧嘩は食いもんに関するのが一番多かった。
うちらは夏は、川で泳いだり、魚つかみしたり、山登りに行ったり。冬はスキーしてって、山育ちなんですね。吉里吉里は海でしょ。子供は海で泳いで魚採るし、雪はほとんどない。実家の方は2メートルくらい積もるんで、その感覚からすると全然雪がないですね。ここでは遠野に行かないとスキーは出来ないし、そういえば自衛隊辞めてからスキーはやってないね。吉里吉里では若い人達がたまにスノボに行くくらいじゃないかな。
雪が少ないから、雪囲いをしないよね。山形では屋根の雪おろしをすると1階が埋まるから、窓とか割れないように壁を作るんだよ。例えば2メーター積もったとしたら、雪おろしすると4メーターになるから。そして朝起きてかんじきを使って道を作る。そういう環境から来たから、雪が少なすぎるって思う。吉里吉里は快適っちゃ快適だよ。寒い日は何日もないし、でも夏もやませが入るから暑くないし、しょっちゅう霧も出るしね。山風の方が涼しいよ。
方言はあるけど同じ東北だからか、大概は解る。でも俺、山形に行くと「おめぇなまってんぞ」って言われるね。18で山形出て、もう同じ時間を過ごしたからね。
食生活もやっぱりちょっと違いますよね。海の文化はあんまない所で育ったんで、こっちはとにかく魚が多いって思う、マスだのサケだのサバだの。それに吉里吉里では普通に売ってるけど、イルカとマンボウは山形では見なかった。あと、吉里吉里では赤飯が甘い。山形は小豆で炊いてゴマ塩振って食べるんですけど、吉里吉里はささぎで豆が甘いね。そういえば娘の初節句、お食い初めの時は親戚がこれかじらせろってアワビを持ってきてくれたなぁ。逆に吉里吉里では食べないものもあるよ。納豆をすって、味噌と溶かした納豆汁とか、ハタハタとか。あとは孟宋竹っていうタケノコのみそ汁の孟宋汁、枝豆汁、ざる蕎麦の麺が中華麺になったざる中華とかな。
あと吉里吉里はお祭りが多いかな。盆に虎舞やったり、冬にお面をつけて踊る神楽があったり。うち、嫁さんの本家が漁やってる関係もあって神楽が毎年まわってくるんです。娘はおっかながってましたけどね。今年は亡くなってる人多いから祭りはやらないかもなぁ。山形では田舎だったから的屋はなくって、自分たちで作るっていう感じだった。皆知り合いの青年団が焼き鳥とかかき氷を作って、面白半分で焼くのを手伝ったりして。昔はそんときに盆踊りもやってたね。うちらが山形を出た頃は子供はいないし、やる人がいないってことでほとんどやらなくなってたけど。
震災直後に
震災直後は、そんな酷くもなかったかねぇ。俺は夜勤明けで家にいたんですね。3日前くらいに1度おっきな地震があったんで、一応ある程度の子供の荷物だけはまとめてあったのと、いろんなものを持ってきてくれる人もいて、子供のことを優先で見てもらったものもあって、すぐすぐ困ることはなかったですね。嫁さんは、仕事行ってて連絡取れなかったんですね。職場が山田っていう山の奥ってことは分かってたんですが、火事があったので心配だった。次の日無事に帰ってきたんですけど、通れる三陸道路とかは軽トラで送ってもらいながら、いろんな道路歩いたって。16、7キロはあるんじゃないかな。避難所のあった小学校には体育館のジェットヒーターもあったし、マイクロバスが上に避難してて、100Vの電源もあったので、その辺はいくらかは良かったと思います。屋上にプールがあって、消火栓から水が取り出せたし。暖房も取れたし、毛布は4丁目とかから貰ってこれたし、うちの場合は嫁さんのおやじさんの実家が津波の被害はほとんどなかったんで、色々と世話になりました。
被災したその日に、家があっても停電だ何だで来た人も含めて避難してきた人が多分300人以上いました。だんだんに落ち着いて、在宅に戻る人、親戚の人んちに行く人、花巻温泉とかに一時避難する人がでてきて、減ってきたんです。とりあえず最初は個人、会社、その他がいろんな物を吉里吉里の小学校の避難所に持ってきてくれて、今度それを避難所で使う分、4丁目・3丁目の在宅避難者の分って分配しました。その作業も酷かったですね。最初は、吉里吉里の役場の人が2人小学校に避難していて、役場との調整とかをある程度仕切ってたんですけど、役場の仕事が忙しくなったっていうことでいなくなったんです、1カ月するかしないかで。結局、吉里吉里地区の避難所関係の物の出し入れは、地区で担当者決めてやったんです。
最初の頃っていうのは、電気も水道も止まって、でも人はいるという状況だったんですね。仮設トイレも来たんですが、小学校の水洗トイレも使わないと間に合わないといった時の水汲みとか、俺を含め、結局ボランティアの人たちがやりました。人がいなかったんでね。そんでそのうち夜勤もやるべっていう話になった。夜中もみんなトイレ行くから、すぐ水がなくなるし。最初のころは夜中でも人尋ねてくるから誰か受付にいないといけない。それじゃあ3人リーダー決めてそこで回すべってなった。役場の人がいなくなってからは、うちらで仕切れる人が仕切って、高校生とか大学生・専門学生で、冬休みで帰ってきた若い人達つけてやってました。ほとんど俺は面識はなかったけど、何人か知ってる人がいて、そういう人たちのつてで、またその知り合いの人が来てくれて。1日一緒に稼げば知り合いになるからね。
でもほんとに酷かったよ。朝5時頃にトイレの水がなくなる。その時に水を汲みだしても、それは1時間後にはなくなる。あとは、朝も昼も夜もだけど家庭課室を使った調理場は動いてるから、給水車が来ないうちは飲料水の確保が必要だったし。小学校突っ切ってちょっといったとこに山の地下水出るとこあるから、そこに皆でポリタンク持って行って汲みだして。
あと物資の受け入れと配布もね。最初は何もないから受けろ受けろと全部受けてたんですけど、衣類がもう、だんだんに余り始めて。足りないのは足りないけど、余んのは余って。そうして物があふれ始めたんですね。3月後半になってくると水とか電気とかは通ったけど、物資がひっきりなしに来て半端ねぇ量になって酷かった。振り分ける時に世帯数か、頭数で割るのか問題になったり。とにかく休む暇もなくね。今となっては、皆からあんときは大変だったねって言われるけど、やれることやっただけだし、俺1人じゃないし、結局みんなが動いてくれたから務まった。だんだんに落ち着いて、旧中学校の体育館に避難所が移った時に、大槌町役場の物資倉庫から自衛隊が物資を持ってきてくれるから、各町内会は直接受けてくれっていう流れになったんです。
娘は寝つきは悪かったですけど、ハーモニカ貰ったりと、避難所の周りの人達もみんな普通にみてくれましたね。ただ生まれて初めて熱出したのが避難所で。元気は元気だけど、突発性湿疹で熱が40度まで上がってね。DMAT(災害派遣医療チーム)でちょうど大阪の小児科の先生が来てくれてたからよかった。熱が上がって診せに行ったんだけど、まだ電気もガソリンも厳しい時だったから、今帰れって言われて避難所に戻っても、次来れないかもしれない。それをしゃべったっけ、じゃあ入院して下さいってなって、入院したんだよね。
この4月から、家から30秒くらいの所にあった保育園に行く予定だったんですけどね、家もそこも津波で全部流されちゃって、基礎しか残ってないから…。保育園は今度中学校の近くに立つのかな? うちは仮設に移ったので、車で送り迎えだね。ただ園長先生が、うちの嫁さんとかを見た人で、昔っから知ってる人なんだよね。俺は知らないけども、色々仲は良いみたいで、こういうところ、人の繋がりがあるとは思いますね。
それでも今を生きる
ただね、ばあちゃんは、最初は家が流されたところすら見らんなかったと思う。旦那さん、つまりうちの嫁さんのお父さんが頑張って建てた家なんだよね。俺が来る前に亡くなってしまったんだけれども。結局、嫁にしても親父の思い出がそのまま、ね。位牌も何もかも、全部一緒に流れちゃった。家はおやじそのものだったんだよね。娘の写真も全部流されちゃったけど…。でも、ちらちらと持ってきてくれる人がいる。見つけて持ってきてくれる人もいれば、山形のじっちゃんばっちゃんとか、嫁さんの弟に送ってたのがあって、それも持ってきてもらってるから、いくらかはあるんだ。
震災後、いろんな人から話は貰ったんです。北海道に来ねぇか、とか、山形も。でも、中学校の避難所に移るまで、4月半ばに仕事に復帰するまでは、ほとんど張りつけでボランティアやってたし、そういうこと考える余裕はなかったですね。それに、バラバラになって、次なにがあった時にどうするっていうのもあって。嫁さんも介護の仕事してて。嫁さんも稼いでる、俺も稼いでる、ばあちゃんと子供だけ山形にやるっていう訳にもいかないし、それは嫌だった。おばあちゃん、和裁士だったんだけど、裁縫道具も流れちゃってね。本職だからさ、落ち着いて、やっぱりやるってなったらまた買うと思う。でも、こういう状況の今は、どこかの団体が持ってきてくれたセットでね。孫のちょっとしたものとか、作ってくれてるだけでいい。
やっぱり何をするにも大変けどね。うちも仮設に移るよ、じゃあ片付けましょうって時に、4畳半・4畳半・6畳の、押し入れが1間半の広さなんだけど、荷物が入らなくて整理が大変だったし。それと買い物行くのも遠いけど、病院もね。大槌病院の仮診療所の近くに行かなくちゃいけないし、金融機関は20キロ先の釜石市に行かないとないし。夜間診療をやってるような病院なんかは30キロ先まで行かないとない。それでも、家族バラバラにとは思わない。
新たな人との繋がり、その大切さ
ボランティアで知り合った人とは、飲み仲間って感じになってきたんですけど、やっぱり状況は様々ですから。飲んでる時に復興というか、とりあえずそういう話はまだないですね。結局皆今がいっぱいいっぱいだから。まずは「最近どうだ?」っていう感じです。家建てようにも、どこに建てていいかも決まってないですよね。浸水した所はダメだとかは来てますけど、代替地の話は全然来ていない。まだ先は見えないですよね。うちは嫁さんも俺も稼いでるし、皆元気だったから、動こうと思えば動ける。でも、何もなくなった人もいて。そういう人達をどうすればいいのかとかが決まらないと。うちが単体で家建てたって成り立たない。
ただ、吉里吉里地区でも仮設に移ってしまってバラバラになってしまっているんですよね。近くに住んでた人が遠くの仮設に行って、ちょっと離れた所に住んでた人が隣近所に来て。知ってる人がいれば良いですけど、いないと孤立するだけですし。避難所でうちの近くにいた人は、仮設に行きたくない、出来ればここから動きたくないって人もいたね。そういう人もいるから、ここは全体で見ていかないといけない。
次はあってほしくないけど、良い経験をしたとも思うんです。色々勉強になった。いろんな人がいて、いろんな考えがあって。今回のことが機会になって出来た繋がりがいっぱいあるんです。例えば、嫁さんの同級生の弟さんで、嫁さんは知ってたけど俺は知らなかった人とか。基本的に私はこっちの人間じゃないので、親戚周りは分かるんですけれど、それ以外の人達、職場以外の人達っていうのは基本的に何も関係がないので、接点はなかったんですね。ただ避難所で生活するうえで、ボランティアでいろんな所で動いていたこともあって、知り合って、名前と顔を覚えてもらったっていう感じですね。
今回のことも、地域の人達の繋がりが深いから、出来た。そう思うんです。町内会がそれぞれの人数単位とかをちゃんと調べてたし、それで回ってた。それがおっきいんじゃないかな。都会だと、結局隣に誰が住んでるか分からないでしょ。組織は作らないと動かないし。個人で動いてもダメなんだなっていうのがある。その大切さに気付きました。