漁業の町で、お義母さんから学んだ暮らし

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忙しい中にも、泣く時は泣いても、でも生きていかなきゃ、このお義母さんに付いていかなきゃない、っつう気持ちがあったからね。
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Tokyo Foudation
Geolocation
39.3698337, 141.9411843
Location(text)
岩手県大槌町吉里吉里地区
Latitude
39.3698337
Longitude
141.9411843
Location
39.3698337,141.9411843
Media Creator Username
Interviewee: 太田シヂさん, Interviewer: 吉原祥子
Language
Japanese
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Japanese Title
漁業の町で、お義母さんから学んだ暮らし
Japanese Description

隣町から吉里吉里にお嫁に

太田(おおた)シヂです。昭和18年生まれです。吉里吉里の隣の山田町という所があるんですよね。私はそこの織笠というところで生まれました。兄弟は7人で、私は5番目です。姉が3人で、その間に兄がいて、私と妹と弟です。父親は、町会議員など村のいろいろの役に携わっていました。

小学生の頃までは、冬は、今のように電気こたつもないので、薪ストーブ焚いて。あんまり電気も思うようになくて、ランプで過ごしたこともあります。そういうほんとにね、素朴な生活をしてきました。私が中学校終わる頃は、もう電気がずっと点いていました。

山田町で中学校を出たあと釜石に出て、2年間、洋裁と和裁の習いものをしました。釜石には汽車で通いました。その当時、映画も見ましたけど、授業を少しさぼってね。

それからうちの手伝いなどもして、昭和42年にこっちにお嫁に来ました。旦那さんとは、汽車の中で偶然、友達が旦那の妹さんと仲良くなって、そのご縁で知り合いました。24歳のときです。最初会った時、ああ、この人だのかなあと。相手は私と9歳違いました。

結婚式は吉里吉里の公民館でしましたよ。本当は、私の家では反対だったんですよ。旦那さんのお義母さんという人は、ここの吉里吉里保育園を立ち上げた人なんだって。私はそういうとこでは勤めができないって、反対されたの。

結婚してすぐに娘と、そのあと息子が生まれました。今、息子は埼玉にいて、私は娘と暮らしています。

私の旦那さんは大工だったんですよ。それで、結婚後すぐ横浜の保土ヶ谷区にね、仕事で半年ぐらいいましたかね。そしてそのあとずっと、ここの吉里吉里で過ごしました。旦那さんはときには釜石に働きに行って。あと、東京にいっぱい知り合いがあるので、そこさ自分で一人で仕事に行ったりして。私はお義母さんと、旦那さんの妹と、あと旦那さんのお祖母さんと、3世代一緒に生活しました。義理のお祖母さん、寝たきりだったんですよ。

朝は、うちの義母さんは、保育園に勤めてだったから早かったの。お祖母さんの世話もしていくからね、んだね、5時過ぎと起きてたね。私も旦那さんの弁当作んなきゃないから、一緒に起きてましたね。旦那さんの妹も保育園に勤めてあったからね。

お義母さんから学んだ手料理

うちね、お義母さんがね、料理ができる人だったから。お裁縫も上手、お料理も上手。私は教えられることはいっぱい。私が作ると「ああ、これは塩が足りない」とか、酢の物すれば「酢が足りない」とか、そういうのはほんとに勉強になりましたよ。私はその当時は嫁ですから、「嫌なとこさ来たな」と思ったけども、今になれば、ほんとにありがたいと思ってます。そういう勉強をうんとさせられたから。つくづく感ずるのね。

お義母さんが作っていたのは、「こまこま汁」って、ちっちゃく野菜刻んだものと、先に豆腐を油で炒めたの。ニンジン、ゴボウ、それにさつま揚げ、コンニャク、そういうのを入れて。それを炒めて。そしてね、ある程度炊きあがったのさ、サツマイモ入れるんですよ。サツマイモはダイコンがある程度煮えた時に入れるんですよ。そうすれば甘みが出るんですよ。そういうのは教えられましたよ。お醤油と塩とお砂糖をちょっと入れて。ダシは入れないの。そしてね、それにササゲマメ。煮豆っていうのかな、アズキより大きい赤いの。それを味付けた段階で一番最後に入れるんですよ。それが美味しいのね。甘味が出ます。

それから、お赤飯は、私はね、豆じゃなくて、やっぱり鶏肉とシイタケ、そしてニンジン、ゴボウ、それを炒めて、そして1回蒸したもち米さ入れて、混ぜて、もう1回蒸すんですよ。それには豆は入れないの。色はお醤油とお砂糖。あとちょっと酒とかを入れるとその色で。野菜の色もあるし。ちょっと味付けて。そういうお赤飯は、誰か来るっていえばそれを作って、ちょいちょい食べました。

お魚料理だと、やっぱり煮付けたり、焼いたりね。でも、この頃は津波来たから獲れなくなったけどね。魚は豊富でしたよね。

あと、うちの義母さん、豆腐の「おぼろ」っていうの好きだったね。おぼろっていうのは、ここでは必ずお盆には仏さんにお供えするんですよ。それは、やっぱりシイタケと、鰹節とか、そういうものでダシ取って。それに砂糖をちょっと入れるの。そしてお醤油と塩をして。あんまり色が付かないようにして。そして、カタクリをそのダシに入れて、それにおぼろ豆腐をしゃもじで、こう、すくって入れるの。最後に油揚げと、ダシをとったあとの干しシイタケを煮付けたのと、海苔を乗せて食べるんですよ。

お正月はお煮しめですね。いろんな物入れてね。お雑煮は、うちの義母さんが、やっぱりダイコン、ニンジン、ゴボウ、それとシイタケ、それに鶏肉と煮干しと入れて、そうやって作ってました。お餅は切り餅です。そしてそのお餅にクルミを付けて食べるんですよ、ここは。すっかりすって粉々になったクルミに、ちょっと砂糖と、好みで私は醤油ちょっと入れて。お椀から餅だけを取って、クルミ付けて食べるの。

クルミっていうのは美味しいのね。実家では、あんまりそういうのはなかったのね。こっちのお義母さんの旦那さんが北海道人だったんだって。それで、いいとこのお坊ちゃんで、そういうふうに育てられたんじゃないですか。それで、こうやってお義母さんが自分の旦那さんに食べさせたものを、私に引き継いだって言ってたの。

周囲の人に支えられて

うちのお義母さんは厳しかったからね。お義母さんも自分の旦那さんに厳しくされたから、自分も厳しくて。旦那さんはお掃除にも厳しかったし、そういう料理にも厳しかったって言ってました。だから大根の短冊の切り方にもね、お義母さん、こだわりがあったったの。私がお掃除する時は、こうやってそばで見てるの。

まあ楽しいこともいっぱい、悲しいこともいっぱいね。うちの山田の実家のお祖父さんっていう人は、婿だったけど、私たちに対しては本当に厳しかったのね。それはダメ、これはダメって。でも父親は、全然そういう厳しさがなくて、たまには厳しいけども、私は大らかに育ったってばおかしいけども…。だからここさ来て、はああ、と思ってねぇ。嫁時代は、今のお嫁さんだったら違うだろうけど、私どは、ほんとに実家に帰りたくてねえ。泊まりに行ったり。

でも、その当時、すぐ隣のうちのお婆さんが、とってもいいお婆さんだったの。それで、「お茶っこ飲みさ来て」って呼んでくれて、いろいろな話をしてくれたりなんかしてね。そうやって、ほんとに隣のお婆さんには助けられたの、私。「こうだああだって言わないんだよ」って。私も嫁だったから「それが言えば、すぐお義母さんに聞こえんだから、そういえばあんたの立場も悪くなるんだから絶対言うなよ」って、そういうのを教えられました。いいお婆さんだったの、ほんとにね。人のことも思ってくれてね。

まあ、こっちに来てね、必死に生きてきたからね、私も。ほんとに忙しいような、何て言ったらいいんだかね。忙しい中にも、泣く時は泣いても、でも生きていかなきゃ、このお義母さんに付いていかなきゃない、っつう気持ちがあったからね。

それに、お義母さんが厳しくても、こっちの娘さんたち2人が良かったの。旦那さんの姉妹。それに助けられたの、私。今でもそうですけど、ずっと。何かすれば、東京からも電話が来るし、盛岡からも電話来ます。それはほんとに私はね、支えです、2人が。旦那さんは早く亡くなりました。だからね、ほんとにね、2人にいろいろな面で、今でも助けられてます。

楽しかった水産加工場での仕事

お義母さんが保育園辞めるまで、私はうちにいたの。そして交代して、私が働きに出たの。昭和50年ぐらいから、20年ぐらい、ずっと働いてました。

仕事は水産業で、春はサンマなんか並べたり、あとね、秋口はホタテ。ホタテはおっきい車2台ぐらいで北海道から来るんですよ。午前中は箱にホタテ並べをして、午後には今度は、そのホタテ剥きをしたんですよ。茹でたもの。

楽しかったね、その頃は、ほんとにね。そこは、1年に1回、春に必ず社員旅行があるの。社員旅行に行くと、みんな芸達者だから余興がもうすごいの。まあ、大した楽しかったのね。踊り踊ったりなんかして。あそこで働いた時は、一番楽しいなと思ったの。私は全然芸がないから、ほんとによくもまあできたもんだなと思って見ました。

いろいろなとこに連れて行ってもらいましたよ。2泊3日。福島にも行きましたよ。北海道にも行きましたし、山形にも行きました。できて間もない頃のディズニーランドにも行ったし、四国にも行ったし。あと花巻辺りでも泊まったりして。ほんとにね、楽しかったなって。

私が働いて10年ぐらいしてからかな、冬は今度はイクラになったんですよ。男の人達がシャケの腹割って裁割するでしょ。そして、それを網で女の人達がおろすでしょ。私だイクラ揉みっていうのね、網で。それを今度は北海道から来た専門の人が機械で漬け込んで。次の日はそれを箱詰めにして。そういう仕事もしました。

その頃は景気が良かったからね。イクラも高かったしね。その時期になれば、裁割する男の人達頼むんだもん。10月から1月辺りまでいるの、6、7人。そして北海道から2人。その人達は、最盛期になれば朝の8時から夜の9時まで、ずっと。裁割して卵取ったシャケは、塩するでしょ、そしてそれを箱に入れて、そしてすぐ築地さ出したの。

私の仕事は朝8時から夕方5時までだったの。それでもね、夜の9時まで働いた時もあるし。私はお義母さんいたから、それもできたのね。

仏さんを持って避難した震災の日

震災の日は、いつも使っている漁業組合のクレンザーを持ってくる友達を待ってうちにいました。娘は、「じゃ私の薬もらって来てね」って、診療所に私の薬もらいに行ったんですよ。そうしてるうちに友達が「おおい」って来たのね。裏口の方からみんなが入って、そして入ってすぐ地震だったんですよ。震度9だもの。すぐに娘を迎えに途中さ行って、あらこっちの道路来んのかな、あっちの道路来んのかなと思ってキョロキョロ見ながら。そうしてるうちに消防車通ったんですよ、津波が来ますから避難してくださいって。

それで、うちの上のほうに「らふたぁヒルズ」って老人施設があるんですよ。そこに私らど、上がったんです。そして、娘ば先に上げて、私は途中で仏さんを取りにうちさ戻ったの。貯金通帳だの、このうちの登記書は持って逃げたから。「ああ、そうだ仏さんを持って逃げなきゃ」と思って。私は、何より、お義母さんから、「何もなくてもいいから仏さんを持って出なさい」って、「火事でも津波でも、仏さんを持って出んだよ」って教えられでだったの、ずっと。それで仏さんを持って上がったの。

そして、そこにそうだね、20分以上は間あったね、津波来るまで。そうしてるうちに、下にもほれ、うちがあったとこの人達が上がってこなかったの。それで、そこから、「津波来たよ! 津波来たよ!」って叫んで。そしたっきゃ、その人さ出て来て。やってるうちに、はあね、来たの、津波が。上から見てました。家がプカプカって流れたから。ありゃあ、流れていだよって。それを見て、そして今度は海の方見たの。そしたら何ていう、砂と波のあれが混ざって、黒いような白いような赤いような感じで、こう、その波が見えたの。ああ、これが津波だのかなと思ったのね。

ほんとね。まさかね、こんなおっきな津波が来るとは、夢にも思ってなかったね。津波は来るとは言っても、まさかね。やっぱり人間の力では及ばないこともあるもんね。

早くね、ここの漁師さんが、やっぱり海に出なきゃ。ここは漁業の町ですからね。何言ったってね。

お義母さんからは、「おっきい地震が来たら津波が来るんだから逃げてね」って、そして「瓦の下にはいない方がいいよ」っては教えられました。地震で瓦が落ちてくる可能性があっから。

お義母さんは平成9年に亡くなりました。お祖母さんがね、亡くなる前、半年ぐらい入院したんですよ。そしたらば看護師さんに、「親子ですか?」って言われました。「いいえ、嫁です」って私言うと、「ああ」って笑われで。今はいい勉強になったなあと、お義母さんに感謝してますよ。

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