自己紹介
名前は、堀合陽太郎(ほりあいようたろう)といいます。昭和8年8月29日生まれ、78歳になります。職業は、浜の方に出たりしてたんですけどね。まぁ、もともと漁師なんだけど、ずっと前は、イカ釣りの事業をやってたんですよ。私が若いうちはね、おやじがイカ釣り船の経営をしていたからね。その後、経営を受け継いだの。
その後、大きな時化(しけ)があってね、船も壊れたので、事業は辞めて、自分一人で小漁商売のウニとアワビ採りだけやってたの、ずっと。アワビ、ウニ採りのない時期は、建設業でも働いたんですよ。二足のわらじで。すぐ近くに、その商売やってた人がいたのでね。子どもたちの生活のために。
子供は4人。漁の方があんまり良くなくなったので、みんな別の学校に入れたので、漁師はしてないですけど。孫も4人です。前は、おばあちゃん(妻)と長男夫婦といたんです。長男が釜石のJRに勤めてますんで。今は、釜石の方の社宅にいるんですけど、私はここ(仮設住宅)にいるんです。
おばあちゃんは、流れちゃってね。生きてたら76歳になる。これ(遺影)、あの、なんぼだ、8年くらい前かな。写真、流してしまったから。このくらいのしか見つかんなかったから。
黒い波
テレビで、よくこうビデオで撮ったの映してんのね。で、「ああ、すごかったんだぁ」と思ってますけど、私たちは実物を見てないんですよ。津波に遭ってるけど、どういう風に来たかわかんないんですよ。だから私は、津波の大きいの終わって、うちから出て、高い所さ上がって。そして海の方見た時は、横の方にね、黒い波がたかたか立つように押し寄せていたの。それだけしか見ないです、大っきく来たのは。
津波よけも壊れていたでしょ。転んでね。おもちゃのようだったんだなと思って。あの岸壁が出来て、津波よけができて、それを超えてくるっていったら、うちの辺までは来ないなと思ってたの。うちは、明治の津波のあった時には、海の方にあったんです。だから、安全なところに上がって建てたから、大丈夫だと思っていたの。そこまで来ないと思って、逃げなかったの。
おばあちゃんは見つからなかった
ちょうどね、津波の時は、息子たちが仕事に出る時間だったの。ご飯食べたり、嫁さんが弁当の準備をしたりしてたんで。それで、地震が来ても、逃げなかったのね。海の近くの人たちは逃げたから助かったの。うちのばあちゃんも、逃げなかったですけどね。地震がするたびに、仏さんの掃除したりしてだったの。
で、それで、道路側の人たちがね、みんな変な顔して上がって来っから、私は出てみたの。下の方、瓦礫が来てだったから。うちのばあちゃんが出てみて、それで終わりだと思ったんでないの。「息子たちのこと、行って見てきなさい」って言って出ていって。で、ばあちゃんが家に寄らないで、帰んないで、隣のうちの人たちが逃げていないのに気がついて、隣のうちのところ、海の近くの方に見に行ってきたんだと思う。
それで、おばあちゃんが、隣の家まで行くぐらいだったから、私は2階に上がったの。2階に上がって、どのくらいの津波来るんだかなと思って見ていたら、おばあちゃんが急いで後ろを通って行ったんだ。だから、逃げたと思ったの。窓開けて、さぁ、どうかなと思ったら、津波が隣の家に来たったんだもん。だから、私も降りようと思ったら、今度は階段から水が上がってきて、ベットの上さ、首くらいまで。うちが倒れなかったから良かったの。息子たちは、第1波の瓦礫を見に行って、第2波に追いつかれて、息子は逃げきったけど嫁さんが追いつかれて、嫁を助けようとして息子は、あばらの骨を3枚折ったんだって。でも、助かったんです。で、おばあちゃんばり。
で、自分は、2階から降りて、波が引いて、あとは大きいの来なかったから、もう少し高いうちの方さ上がって、海の方見たの。それから、降りてきておばあちゃんを探したら、どこにもいなかったんですよ。おばあちゃん、少し足が痛いって病院に行ってだったからね。元気な人なら助かったんだけどね。流れたんですね。まだ、見つかんないの。
奇跡的に残った仏壇と避難所生活が始まった
息子の嫁の車がね、1台うちの前さ置いてあんの。津波の時、駐車場からちょこっと入って、車は、はぁ、ダメですけど。うちを壊さないで、さぁーと、仏様のあっとこさ入ってあったの。そのために仏さんも流れなかったの。しばらく取らないで置いてあったから、通りを通る人たちはね、「上手に入ったぁね」って(笑)、そうやって見てだったんですよ。でも、おかげで仏さん流れずに(笑)、これ(仏具を1つ)だけ新しく。でも、家は、もう全部壊してもらいましたので、全部ないです。
3月は避難所にいました。小学校に来て、中学校に来て。そこにしばらく世話になりました。それから抽選があったので、今、仮設住宅にいます。息子が釜石においでって言うけど、長男には孫もいないですからね。娘の孫がここに来るから一緒に遊んでんだ。孫がいると、ちょっと気持ちが。そうでなきゃ。ちょっと狭いですけどね、1人部屋だから。へへへ。1人だから、しかたがないですけど。それでも、ありがたいですよね。生活はできますので。
うちは代々漁師だったんだ
うちは、おやじも、その前のおじいちゃんから、代々、漁師やってたんですよ。
おやじは船長の免許を取って、八戸から大っきい船をチャーターして、樺太、色丹の辺で、メヌキっていう、赤い鯛のような魚があるんですよ、その延縄漁されてだったんですよ。そんな仕事してたの、何軒もなかったんですね。60tくらいの船をチャーターしてから行ってたんですよ。終戦後は、20tくらいのイカ釣り船を経営をしてたんですよ。栄えてた時はね、20人ぐらい船員が乗って、手分けしてやってたんですけど。だから、子供のときは、それ手伝ってた。吉里吉里の私たちの年代の人たちはね、ほとんど、勉強よりも仕事の方をやってたんですよ、本当に。宿題もなんにもない。はははは。イカ釣りさ行って。だから、ずっとイカ釣りをしてました。
昔はイカがいっぱい釣れてたんだ
イカ釣りって、夕方出ていって、集魚灯って、電気をいっぱいつけて、イカは釣れているんですよ。釣り針、ツノってこの辺で言ってんですけど、針のついたやつで、それで引っかけてあげるの。昔はツノって、牛の角とかそういうんで作ったったべ、ツノって言ってんで。この頃は、プラスチックで作ってあるやつだったんですけどね。餌と間違えて針にかかってくるの。何本も、20本も30本もつけて、長くして巻き上げるの。
昔は、イカがほんとにいーっぱい釣れてたんですよ。7月から12月頃までね。1月頃にも釣れた頃があったんですよ。
漁は、7月頃から始まって、この辺で獲れなくなれば、宮城県の女川、あの金華山ある方ね、あと、八戸の方に追いかけるようにして行きましたよ。盛んに獲れる時は、この沖ばりでよかったんですけどね。そっちにほっち歩かなくても。南から北に行って、北から今度は下がってくるんです。八戸あたり、何回も回ってくるんです。みんな苦労したんですよ。でも、やっぱり、漁師をやっていて、漁があった時は嬉しかったですね。イカ釣れた時はね。
大漁旗
漁が終わった後にね、漁が終わりましたよっつんで、「切り上げ振る舞い」って、やったんです。切り上げ、終わりだよって、船員さんたちに振る舞うの。それでお祝いをして。
多くの船が漁に当たらなかったりすると、よく神主さんに拝んでもらったの。船は港にあってね、神主さんを船まで連れてって、拝んでもらったりして。だから、宮司の藤本さんの、お父さんに世話になりましたよ。
大漁の時は、大漁旗とか船の両方さ立ててくんの。そういう時は、お祭りの時も違いますよ。盛大になる。お神輿担いで入った時もあったけど。私たちはそん時はほれ、船に乗って、船もこう、いっぱい繋がって、輪を回るんですよ。舟祭りだってね。それで、私たちはほら、船つないだりしてっから、そのお神輿様が波さ入るところ見なかったんですけど、入った時もあったんです。旗をいっぱいつけてね。旗を全部、船に飾って。
うちの鹿子踊り(ししおどり)とか虎舞とかも、その土地土地で当たった船は、海に下がって。なんぼだ、30もあったんでしょうね。そういう時代もあったんですよ。
長い漁師人生、もう、辞めることに決めました
今回、船も道具も、なっても流れてしまったの。はい、辞めようかなぁと思っていました。はぁ、78にもなるし。
船の免許証ね。それが、はぁ、再交付はしないです。船は海の方に置いてあるんですけど、道具はみんな家に置いたけど全部、はぁ、流してしまった。また再出発するって言えば、機械や船ね、100万はかかるからね。だから、はぁ、辞めることに。自分では辞めることに決めたんですよ。これからは年金で生活していきます。
やっぱり吉里吉里がいいもん、復興してほしい
吉里吉里の人のほとんど、海の方にでて漁業で食べていくんですけど。津波前は、養殖ワカメとかね、ホタテ、あとはカキ、いろいろ養殖やってたんですけど。その養殖もさっぱり壊れてしまって。
今、一生懸命、若い人たちが、その復興の準備をこの湾内でやってるんですよね。今回、津波で流れたから、個人個人では養殖やれないということで、だから何人かで共同のようなので、組んでやるそうなんです。
やっぱり、嬉しいですよね。若い人たちがね、頑張ってもらわなきゃ。復興復興ったってね、それ一番主なことだもんね。まぁ、その次は、どれも一番ですけど、家を建てる所ね。海の方は、できないでしょうけど、どっかね、高台でも作ってもらえれば、助かりますよね。でも、高台は、線路から上の方だけですけど、あっちも山は青いから、なかなか。敷地だって、今回のように雨でああやってね、大変なことになっても大変だし。それじゃ、町並みもね、返らない。だからね、山の方がええといったって、なかなかね。
漁業の復興を一番に願う
吉里吉里は安全な岸壁をちゃんと作ったんですけどね。相当いい港になったんですけどね。砂場が、砂浜とね、海だけのような格好で、綺麗だったんですけど。岸壁も、沖の方のもちゃんとできだったの、ちゃんと。安全だったの。安全だったんですけど壊れてしまったんです。
全部壊れてしまったから、それをまたね、強化するというんですか、ちゃんと復興してもらえばいいんですけど。まあ、するんでしょうけど。ま、時間がかかんでしょうね。吉里吉里は、一番の復興はあれですよ、漁業ですよね。それこそ、岸壁をちゃんと作ってもらって、船のね、安全な船着き場を欲しいですよ。一番ね。